ドラマの影響で落語が人気だそうである。しかも若い女の子に。
ほお。まるで10年くらい前の「ヨタローブーム」みたいだ。あのときも若い女の子たちがキャーキャー言ってた。国立演芸場に足を運ぶといつも同じ顔ぶれの追っかけのお姉ちゃんたちが最前席を独占していたっけ。
落語は楽しい。その中には不条理があり、笑いがあり、涙があり、感動があり、気の利いたくすぐりがあり………「気狂いピエロ」に出てきたサミュエル・フラー風に言えば………一言で言えば、人生そのものだ。
ブームの中でいいものは残ったし、だめなもんはだめになった。でも、そのブームのおかげで、落語って面白いじゃん、と思った人が増えたことも事実。ぼくは一過性で終わろうとそういうブームがあったことは悪いことではない、と思う。
そして立川志らくである。彼は立川談志の弟子。談志があるとき中村勘九郎(現勘三郎)について、「勘九郎は、彼のものというより歌舞伎界全体の苦悩まで背負って苦心しているように思われる」というようなことを言っていた。つまり勘九郎として芸を精進するだけでなく、勘九郎は歌舞伎の行く末やその可能性についてまで苦悩しているんではないか、と。おお、さすが、と思ったのだが、そう、談志自らが自分の芸だけでなく、落語界全体の苦悩を背負っていたからだろう。そんな談志であるから、落語界、落語そのものに対して、非常に分析的でよく考えている。ただ人から噺を教わった通りに演ずるのではなく、なぜそうなのか、この人物はどうしてこういう風なのか、分析して板に載せる。
そんな気質を最大限に継承しているのが立川志らくだと思う。
この本でも「与太郎」なら「与太郎」という人物を軸に噺を分析する。噺によってぶれる与太郎像について、どれもただ同じように与太郎としてとらえるのではなく、この噺の与太郎はあまり品がない、とか、この噺の与太郎は確信犯だとか、与太郎について様々なヴァリエーションを提示する。
つまり志らくがここで語っていることは、落語の噺に対するメタ言語なのである。無意識を語ることによって無意識を構造化すると言ったのはジャック・ラカンであったが、まさに志らくはメタな立場から落語を構造化しているのだ。
だが、志らくのすごいところはその実演にある。分析だの構造だの言うと頭でっかちなつまんない噺家のようだが、事実はその逆である。ぼくは、国立演芸場で志らくの「堀の内」を聞いて、「やばい、呼吸ができない、死んじゃうかもしれない」と思うまで笑った。たたみかけるボケはジャズの即興のようで、次から次へと繰り出される粗忽者とかみさんのやりとりに死にそうになってしまったのだ。
立川志らく、これからも楽しみ(8/1池袋文芸座を予約してしまいました)。