今日は私の63歳の誕生日だ。
終戦後の翌々年に生まれた。
子供のころは、はっきり言って余り食べ物は無かった。
でも母親が実家から譲って貰った僅かな田畑が有り、そこで米、野菜を作っていたので、食事に事欠く事は無かった。
しかしそれは今の生活からすれば、かなり底辺の生活に似ている。
その生活レベルよりもっと厳しい生活を強いられている同級生もいた。
給食は無い、弁当持参、ご飯は一杯詰まっている、しかしおかずは無い。
ご飯に塩を振りかけて、おかずとしていた人もいた、彼らは隠れて、或いは手で覆って食べていた。
彼らには楽しかるべきお昼ご飯時は苦渋に満ちた時に違いない。
私もそこまでは無かったが、人と一緒に談笑しながら食べるおかずでは決して有りませんでした。
中学に入ると、勉強の出来る上の兄弟を引き合いに出し、教育ママ(私は今も昔も母ちゃんと呼んでいる)の母からはいつも怒られていました。
それでも何とかご当地の、昔高女と呼ばれた(その時は共学)三流高校に入学が叶いました。
何んと、1クラス50人のうち、男は10人で学年すべて集めて体育の授業がされていました。
もてるとかの問題では無く、いかに女子の視線を避けるかでせー一杯でございました、アハハハハー
この続きはまた。
おやすみ
終戦後の翌々年に生まれた。
子供のころは、はっきり言って余り食べ物は無かった。
でも母親が実家から譲って貰った僅かな田畑が有り、そこで米、野菜を作っていたので、食事に事欠く事は無かった。
しかしそれは今の生活からすれば、かなり底辺の生活に似ている。
その生活レベルよりもっと厳しい生活を強いられている同級生もいた。
給食は無い、弁当持参、ご飯は一杯詰まっている、しかしおかずは無い。
ご飯に塩を振りかけて、おかずとしていた人もいた、彼らは隠れて、或いは手で覆って食べていた。
彼らには楽しかるべきお昼ご飯時は苦渋に満ちた時に違いない。
私もそこまでは無かったが、人と一緒に談笑しながら食べるおかずでは決して有りませんでした。
中学に入ると、勉強の出来る上の兄弟を引き合いに出し、教育ママ(私は今も昔も母ちゃんと呼んでいる)の母からはいつも怒られていました。
それでも何とかご当地の、昔高女と呼ばれた(その時は共学)三流高校に入学が叶いました。
何んと、1クラス50人のうち、男は10人で学年すべて集めて体育の授業がされていました。
もてるとかの問題では無く、いかに女子の視線を避けるかでせー一杯でございました、アハハハハー
この続きはまた。
おやすみ