野村財閥の二代目・野村徳七(1878~1945)によって大正7(1918)年に設立された大阪野村銀行(現・りそな銀行)の証券部が同14(1925)年に独立し、その東京進出の足掛かりとして日本橋の袂に建築された建物(昭和5年築・1930)。 大阪を中心に活躍した建築家・安井武雄(1884~1955)の東京における第一作にあたります。 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造地上7階地下2階、1階を五島産の砂岩貼りとし2~6階までをタイル貼りとした建物は量感に溢れ、預金証書や有価証券を保管するという使命を全うするに相応しい頑強さを見た目にも表しています。 東京都中央区日本橋1-9-1 09年03月中旬他
※参考『総覧 日本の建築3 東京』 1987
『東京 建築懐古録Ⅲ』 1991
『関西の近代建築 ウォートルスから村野藤吾まで』 1996
『日本建築家山脈』(復刻版) 2005
安井武雄は千葉県佐倉市の生まれ、東京帝国大学の建築学科を卒業(明治43年・1910)後は南満州鉄道建築課技師となり大陸へと渡る。
同期14人の中で上から3番目と成績の悪くなかった安井が満州まで下らなければならなかったのは、不文律の伝統に反して卒業設計に木造の和風住宅というテーマを取り上げた為、教授達から反感を買ってしまったからだといわれています。
大正8(1919)年、安井はかつての級友・波江悌夫の誘いを受けて大阪の片岡建築事務所へと転じ5年間在籍。 その間に手掛けた野村財閥の仕事から創始者・野村徳七の信頼を勝ち得て大正13(1924)年に安井武雄建築事務所を開設して独立します。
様式に従う事を否定し「自由様式」という独自の作風を追求した安井ですが、この野村証券本店の設計に於いては施主側から変更案の逆提示を受けたもののそれを突っぱね、最終的には野村徳七の指示により安井の原案が通ったという逸話も残っているそう。
敗戦後の昭和21(1946)年から同28(1953)年まではGHQに接収され、「リバービューホテル」という名前で士官などの宿舎にあてられる。
関東大震災後の着工、しかも地盤の弱い橋詰めでの工事という事もあり水漏れなど建設には幾多の難関にも直面する。 支柱には1本18トンという巨大な鉄骨を使用し、その見た目の逞しさから「軍艦」と称されるほどでありました。
今後の発生が予測される首都直下型の大地震に備えて東京の街は再び大きく変貌しそうですね。
政治や経済、外交の10年先が全く予想できない社会に生きている事を最近になって痛感しています。