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新田帯革製造所の東京出張所として昭和5(1930)年に建設され、平成17(2005)年に姿を消したオフィスビル。 地上五階・地下一階、新田帯革(ベルト)製造所及びベニヤ製造所の事務所、工場兼倉庫として使用され、当初は建物の正面にあたる北西角屋上にはアーチをめぐらした塔屋(鐘楼)が備わっていました(昭和60年・1985に撤去)。 また外からでは分かりませんが建物の平面はロの字型をしており、中央部分は1階から最上階まで吹き抜けで天井はガラス屋根になっていました。 しかし後に1階の吹き抜けは部屋に改造され、この部分と搬入スペースの上には中2階が増築されたようです。 吹き抜けは現代のような照明器具・換気設備が無かった時代に採光と通風を確保する為のアイデアであり、それによって良好な室内環境を実現していました。 東京都中央区銀座8-2-1 05年04月上旬
※参考『銀座八丁目の75年 新田ビルの建築記録』 2007
『東京&横浜の長寿建築』 2004
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訪問・撮影したのは2005年の4月2日。 惜別会(見学会)も終了し解体着手の寸前に滑り込みで間に合いました。 写真歴、実質2か月未満、手振れ補正無しのカメラでしたのでボケまくっています。。
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1階部分には11の大きなアーチが並ぶ。 当初は一番左がベニヤ部のショーウィンドウで中央(北西角)がベルト部のショーウインドウでした。
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裏手(東口)にあった通用口。
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設計の木子七郎((1884~1954)は新田帯革製造所の創業者・新田長次郎(1857~1936)の娘婿にあたる。 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、大林組を経て大阪に自身の建築事務所を開設し新田家の建築顧問としても活躍した。
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塔屋があった頃の姿(『銀座八丁目の75年』より)。 明治5(1872)年の銀座大火により生まれた「銀座煉瓦街」は大正12(1923)年の関東大震災により壊滅、バラック建築を経て震災復興期には耐震耐火建築が競うように建てられた。 更には関西資本のカフェーやキャバレー、割烹が銀座に進出、煉瓦街とは趣を異にするモダンな街並みが現れる事になります。
返信が大変遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
今回もまた頓智の効いたコメントで理解するのに少し時間がかかりましたよ(笑)。
ここ最近、新幹線に乗る事が多くて車窓からニッタビルが見えるのにも気付いてはいましたが
どんなお店が入居しているかまでは気が回りませんでしたね。
光クラブ事件とかフランス革命とかランナさんは昔の歴史や事件などにも大変お詳しいですね。
それらの情報が瞬時にリンクして頭に浮かんでくる点には毎度脱帽します。。