昭和4(1929)年に旧加賀藩主・前田家16代当主の利為(としなり)の本邸として建設された洋館。 裏手に和館を配した和洋並立型の住宅となっています。 洋館はイギリスの中世後期ゴシック様式を簡略化したチューダー様式といわれる建築スタイルで、建てられた当時は東洋一の大邸宅と謳われました。 東京都目黒区駒場4-3-55 06年09月上旬他
※参考『お屋敷拝見』 2003
敷地は現在、目黒区立の駒場公園となっています。
正門の脇には門衛所。
門衛所の脇の非公開エリアの奥には、前田育徳会事務棟(図書閲覧所 昭和3年築・1928)など3棟の建物も残ります。
前田利為(1885~1942)は学習院から陸軍士官学校を経て昭和11(1936)年には陸軍中将、同17(1942)年にボルネオ守備軍司令官となるが搭乗機の墜落により帰らぬ人に。
利為はイギリスでの生活を長く経験し、新邸の建設にあたっては外国人客をもてなすのにも相応しい建物を希望、洋館の設計を東京帝国大学教授の塚本靖(1869~1937)に依頼しました。
建物の実際の設計は塚本の愛弟子で大正5(1916)年に東京帝国大学の建築学科を首席で卒業した高橋貞太郎(1892~1970)が担当しています。
車寄せの天井照明。
中へ入ってみます。
主灯には唐草模様。
右手の部屋は旧応接室。
暖炉の上の大きな鏡が部屋を一層広く見せています。
応接室の奥にはもう一つ小さな応接室がありました。
この楕円の円柱状のものは暖房用のラジエーターカバー。
女性的な繊細さ。
柱頭はアカンサスをモチーフとしたコリント式。 イタリア産の大理石で出来てるそうです。
旧応接室の隣りには小サロン。
各部屋で意匠も全て異なります。
大サロンが続いています。 境目の引き込み戸で客の数に合わせて部屋の広さを調節したようです。
今度は大サロンから小サロンを見ています。
グリルのデザインは唐草に梅? 和風チックですね。
外はテラスになっています。
葡萄と蔦の葉。
どちらに行こうか。
運命の分かれ道。
右の扉から旧大食堂へ。
鋳鉄製のフードが付いた白大理石の暖炉。
ここだけ何故か近付けません。
立入禁止の訳はこの暖炉の両脇のブラケットのある部分には金唐紙が貼られていたのでした。 金唐紙というと主に明治期の壁紙(技術)という認識でしたので、まさかここに貼ってあるとは思いもしませんでした。 ブログを書くのに調べていたら知った事なので肝心な部分の写真を撮っていません。。
暖炉の向かいの窓は緩くカーブしています。
外から見るとこの部分。
光のプリズム。
この部屋は壁に木パネルを高い位置まで廻らせていて厳かな雰囲気です。
大食堂の隣りは小食堂。 家族の日常的な食事はここで行われていました。
造り付けの食器戸棚。 この戸棚の中には地下の厨房から料理を運ぶリフトが設けられています。
ここにも葡萄の彫り物がありました。
小食堂の外には裏の和館への渡り廊下があります。
フェンスで遮られた空間なので外から見えるのはこれくらい(南面)。
北側から見た渡り廊下。
渡り廊下部分。 通常は非公開エリアで立入り出来ません。
瓦屋根の和館が見えています。
この階段を下りていけば和館。
洋館の翌年に完成した和館。 こちらの設計は帝室技芸員であった佐々木岩次郎が担当しました。 和館は日常的な生活の場では無く、外国人の接待や雛祭り・端午の節句といった家族の伝統的行事を行う際に使われたそうです。 写真の量が多くなりすぎてしまうので今回は割愛。
渡り廊下の途中にあった造り付けのベンチ。 夏場はヒンヤリして気持ち良さそうです。
洋館の2階から見るとこんな感じ。 先程のベンチがあった所です。
こちらも普段は非公開の壁泉。
羊の口から水が出るのでしょうね。
小食堂に戻ってきました。
玄関ホールと一体となった階段広間。
階段下はイングル・ヌックと呼ばれる暖炉とベンチのある小さな空間。
淡い黄色のステンドグラス。
次回は2階を紹介します。
にょろっとした曲線がいっぱいです。
階段広間いい!赤い絨毯が艶めかしい。
そして暖炉の装飾。窓!
ステンドグラスの鱗や窓の控えめなアイアン。
ここ、自分がいったら確実に写真を撮りすぎそうです。
ここは、ぜひとも訪れたい。
2階も楽しみにしています!!
ここは色んな装飾で満ち溢れているので写真を撮りだすと本当にキリが無いですね。
過去に何度か訪問しているので写りの良さそうな写真だけをピックアップしましたが、
それでも莫大な枚数になってしまい2回に分けて紹介する事にしました。
とにかく部屋ごとに暖炉や照明器具が異なっているので満腹感が半端ないです(笑)。
2階部分の紹介は現在構想中なのでもう暫らくお待ちくださいね。