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明治34(1901)年に神戸と下関を結んだ鉄道(山陽鉄道)が全線開通した翌年、その山陽鉄道により馬関駅(後の下関駅)前に建てられたのが山陽ホテル。 下関と釜山を結んだ関釜連絡船の定期運航が開始されると下関は大陸への玄関口として賑わいをみせ、大陸渡航の皇族や政府高官は必ずこのホテルを利用するといった格式高いホテルでありました。 明治39(1906)年の鉄道国有法の発布によりホテルは国鉄が買収する事になり、更に大正11(1922)年には火災により初代の建物は焼失。 写真の建物は大正13(1924)年に2代目のホテルとして再建されたもので設計は辰野葛西事務所、しかし既に大正8(1919)年に没している辰野には設計への関与は無かったものとみられています。 昭和17(1942)年に下関駅が現在の竹崎町に移った事と、敗戦により釜山との連絡船が廃止になった事により客足が途絶え、ホテルは営業を停止して建物は国鉄広島鉄道管理局の出張所や建設会社の社屋として使われてきました。 しかし近年は老朽化と耐震不足などを理由として建物は閉鎖され、今年(2011年)ついに解体されてしまいました。 山口県下関市細江町3-2-7 09年9月下旬他 ※現存せず。
※参考『山口県の近代化遺産』 1998
『近代建築ガイドブック 西日本編』 1984
『やまぐち建築ノート』 1979
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正面玄関と車寄せ。
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車寄せの大きな庇を支える鉄柱はコリント式。
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さびさび~
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軒下の飾り。
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建物はRC造3階建て地下1階。 初代の建物は木造2階建てで3棟から成り、客室34室の瀟洒な建物であったという。
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2・3階の窓間の装飾パネル。
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西日本随一の本格ホテルであり、当時の新聞には宿泊者の名前と職業が連日掲載されていたほど。
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ホテルで働くメイド達の採用に当たっては家柄まで考慮されていたといい、紫の袴(はかま)姿で甲斐甲斐しく働く彼女たちは市民から「紫の君」と呼ばれるアイドル的な存在だったそうです。
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