島原市立第一・第三小学校は共に昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート(RC)造の建物。 建設から80年以上経ち、両校舎はいま耐震強度不足を理由とする改築・大規模改修の議論の中で揺れています。 長崎県島原市城内1-1129(同・広馬場7758) 09年12月下旬
第一小学校の門柱。 建物の柱型とも共通する意匠。
子供達を守る大きな庇(ひさし)。
照明の取り付け部分にも装飾。
昭和2(1927)年築。 祖父母の代から見上げた視線の先にはいつもこの建物がありました。
歴史の重みが持つ風格。 しかしまだ将来は見えません。
(おまけ)敷地の南側にある旧島原高等女学校正門(大正11年 1922)。
第三小学校へは煉瓦塀の階段を駆け上がります。
昭和3(1928)年築。 平面と曲面の違いはあれど、第一小学校とも共通するデザイン。
正面は北東向き。 庇を支える逞しい円柱が足元に影を落とす。
時間と共に育まれた都市の景観は、一つ一つの町の記憶の積み重ねでもあると思います。
※両校舎とも現役の施設として使用されています。 見学の際は充分に御配慮願います。
島原の歴史は災害との歴史でもあったんですね。
この2つの小学校が建設されたのは昭和初期、つまり関東大震災(大正12年)の記憶が人々にまだ残り、
その教訓を生かして鉄筋コンクリートで頑丈に建てられたものだと思っていました。
そんな建物が現代の基準では耐震強度不足というのは少し悲しい気持ちになってしまいます。
私も建物を探して東奔西走してますが、昭三さんも本当にパワフルにアチコチ見て回られていたんですね。
今の時期は日が長いから、日没まで予定を詰め込んでしまい何時もクタクタになっています(笑)。
いつものごとく土日は西へ北へとフラついておりました(汗)。
もうあの大火砕流から20年近くも経ちましたか。
確か40人以上もの方が亡くなったと記憶していますが、
その中に外国人の火山研究者の夫婦がいたのを今でも覚えていますね。
テレビニュースで二人の研究風景を取り上げているのをたまたま見ただけですが、
その二人が火砕流に巻き込まれたと知って少し驚いたのを思いだします。
何でも火砕流の山を駆け下りる時のスピードは時速100㎞を超える事もあるとか。
それが自分に向かって来た時の焦りや衝撃は私には測りきれませんね。
亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。