坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている

2013年12月29日 | 坊主の家計簿
仏から信ぜられている-絶対に-何もかも承知の上で信ぜられている、

このことが一番大切で、本願だの念仏だの、その後の問題です。

仏から信ぜられていることが信ぜられないのを難信と申します。

-昭和41年9月10日、越後東三条・大谷派別院での女同行へのお言葉-

(曽我量深 昭和41年11月『中道』第49号)


http://homepage3.nifty.com/daihi/hondou/ryoujin2.htm

極楽は極苦

2013年12月29日 | 坊主の家計簿
仏陀釈尊は目覚めた人であるが故に仏陀と呼ばれる。んじゃ、仏陀でない私は眠った人。というか、「私」という思いの中で生きている人。

昨日テレビで追っかけ再生した映画「グッド・ウィル・ハンティング」は編集がクソだった。つか、あの映画を編集する隙間はないと思うが、娑婆のテレビだから仕方がないか。

色んな事を考えさせられる映画だけど、やっぱり師弟。師弟が友であり、かつ共に心の傷を感じ合える関係が故に心を開ける。開いた世界は現実。当然変わらず「私」という思いの中の世界だけど、「君は悪くない」「君は悪くない」と、同じ傷付いた人、隣人だからが故に、世界と出会える。現実に出会える。
リアル。

これまた大好きな映画「ベルリン天使の詩」。天使が天使を辞めて人間世界に降りて来る。今までは天使。傷付いた人の側に居て肩を抱くと傷付いた人は癒される。「もうダメだ」と言っていた人が「大丈夫かも」と思える。そういう天使の仕事を辞めて人間世界に降りて来た天使は初めてコーヒーの温かさを知る。個人的な一番の名場面。

真宗仏教は楽になるのではない。楽を目指すワケでもない。心の持ち方、考え方の操作をするものではない。まあ、過程としては「こういう考え方もある」というのはとても大事だと思うが。「私」という思いの中の先日だけでしか考えられなかった事が色んな方向から考える事によって「楽」に生きれるようになるのなら、それはそれで構わない。だって、生きれるんだから。考え方ひとつ、心の持ち方ひとつで自暴自棄にならずに済むのなら、それはそれで構わない。死ぬより生きて居た方が、まあ、ええ。死ぬ事も別に構わないが。それも人生なんだし。

極楽は極苦だと思う。
責任逃れ出来ない世界だし。辛い事はより一層辛くなる。苦しい事はより一層苦しくなる。誰にも責任転換出来ない、自立した、独立者の世界だから。

誰かを悪者にして責任転換なんぞ出来ない。「あいつのせいで私はこんなに苦しいんや!」とは言えない。言ってしまうが、それは違う。心の持ち方で解決するのでなく、事実。相手のせいにしても何も変らん。愚痴でしかない。愚痴は愚痴であって、事実ではない。事実としては愚痴を吐いている私が居るだけ。

生きているのは他人の人生でなく、私の人生。他の誰でもなく、私の人生。

極楽は極苦。
言い逃れする主人公から、全責任者たる自分の人生を歩み出す事が出来る。