坊主の家計簿

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歎異抄 第十四章後半

2013年12月26日 | 坊主の家計簿
歎異抄 第十四章後半 
                           

※ 表題 「白道」

※ 本文

 念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、悪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。

※ 現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

 念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生の間の、ありとあらゆる思いは、すべて迷いの生活へつなぎ止める鎖となるから、いのちが終わるまで、念仏を称え続けてはじめて往生が可能であろう。
 ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに遭あうかもわからず、身心の病の苦しみに責められ、臨終に心が乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。その間の罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。
 われわれを摂め取って捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも遭い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで、直ちに往生を遂げることができるのである。
 また、いのちの終りに念仏が称えられたとしても、それは、いままさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終に心の乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。

※ 語意・語註

(一)業報
 一般的には、過去の善悪の行為が現在の報いをもたらすという意味である。つまり、経験の蓄積が人間を形成していき、善悪の行為の結果が現在の自己の状況となっているという、存在の責任感を表す言葉。ここでは、この責任感の重圧に苦しめられる人間存在に対して、如来のはたらきにまかせれば解放されるということを述べている。
 
(二)正念
 一般的には、八正道のなかのひとつ。仏道に叶かなった正しい想念の意。ただし親鸞は、称名念仏を「正念」と理解している。

※ 関連語句

(一)浄肉文

     涅槃経に言く  
     人・蛇・象・馬・獅子・狗・  
     猪・彌猴・驢  十種不浄肉食  
     又言く、三種浄肉  
     見聞疑  見といふは、わが  
     目の前にて殺す肉を食するなり。聞との  
     いふは、わが料に獲りたるを食  
     するをいふ。疑といふは、わが料  
     かと疑いながら肉食するを  
     といふなり。この三つの肉食を  
     不浄といふ。この三つの様を  
     離れたるを三種のきよき  
     肉食といふなり。

 十種の不浄肉:人、蛇、象、馬、獅子、狗(イヌ)、猪、狐、猿、驢馬(ロバ)

 三種浄肉:
      「見」は目の前で殺された動物の肉を食べること      
      「聞」自分のために殺された動物の肉を食べること      
      「疑」自分のために殺された疑いながら肉を食べること 
    
    この三つの肉食を不浄といい、この「見」「聞」「疑」を離れたものを     
    三種の浄き肉食という。

(二)女犯偈
       行者宿報にて設い女犯すとも
       我玉女の身と成りて犯せられん
       一生の間能く荘厳して
       臨終に引導して極楽に生ぜしめむ

 以上二つは、親鸞聖人が同じ紙に書いている。

 滅罪について考えている時に思い立ったので。

(三)滅罪出来る才能(優劣)

【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人々に平等に慈悲をおこして、あまねく一切を摂め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。】
(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』129頁より)

(四)一念多念文意

【当時法然上人のお弟子たちは、それぞれに自分の考えを主張されたので、いろいろの異義(信心が異なること)が生まれ、あらそいが起こりましたが、その一つにこの一念多念文意の問題もありました。これは念仏を称えることについての一念か多念か、つまり一念でいいのか、それとも多念仏でなければならぬのかという問題であります。
 一念の側に立つ人々は、一念仏の中に限りなく利益が与えられるということを、お釈迦さまが無量寿経の下巻の終わりのところで弥勒菩薩につげられたお言葉を根拠として、一たび念仏すればそれで一切は解決されると強く主張されたのでしょう。多念の側に立つ人は、人間は死ぬまで妄念や妄想は消えないのだから、一生涯をつくして念仏にはげまなければならぬと考えるのでしょう。どちらも一理あることです。
 しかしこれは結局人間の考えに立って念仏の二通りにはからっているのであって、問題は念仏にあるのではなく信人にあると見ぬかれたのが親鸞聖人であります。

(中略)

 信の一念を頂いたところに一切は終わるという考え方と、そうではなくて一生念仏を頂いていかねばならないというのと、この対立の問題を解明されようとしたところに「一念多念文意」をおつくりになった動機があるとうかがえるのであります。
信を頂いたところに、浄土はもはやそこに開かれている(即得往生)、人間は終わった、こういう意義はありましょう。だからすべては終わった、こういうことも大切であります。しかしだからといって文字通り何もかも終わった、もう何もかも終わった、もう何も必要でないというのは、かえって信心の意義を忘れたこと、言いかえると自分を忘れたことにもなりましょう。たしかに信は仏の心が実現したことであります。信心は仏でありましょう。だから聖人は「信心仏性」といわれるのであります。しかし次の瞬間、人間は凡夫にたちかえっております。一度得た信心がそのまま固まったような形で人間にあると考えるなら、それは信心を物質化してしまったことでしょう。
 私たちは心を純粋に心として考えられないようになっています。どうしても心を物質的に考えるくせがあります。人の親切も物に換算してしまうことがあります。信心や自力なども物のように考えて、貰ったとか捨てたといっている場合もあるようです。我執という心も根強いものでそう簡単に消滅してしまうものではありません。たしかに信心があらわれている時に我執はありません。しかし全く無くなってしまったのではなく、意識の裏側にかくれているのであります。だから信心が消えた時は我執はたちまちにあらわれて参ります。
 求道のきびしさはここにあります。なればこそいつでも聞法しいつでも一念に立ちかえらなければなりません。聖人はこれを示すために本願のおことばを「多念をひがごとと思うまじき事」の最初に引いて、「本願文(第十八願)に乃至十念と誓ひたまへるにて知るべし、一念に限らずということを」と申して居られるのであります。
私たちは一生聞いていかねばなりません。そしていつでも一念に立ちかえらなければなりません。一念を卒業するのでなくいつでも一念、これを後念相続といわれるのでありましょう。乃至というのは、それがどれだけ続くか分からないけれども、一生を通じてといわれるのではないでしょうか。どれだけ念仏すれば卒業というのではありません。それで次に「いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数定まらずということを」と数えられるのであります。】
(仲野良俊『やさしい聖典道しるべ』真宗大谷派 名古屋別院(東別院)・名古屋教区・教化センター http://ohigashi.net/oshie/read/seiten/ より)