坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「権力」を「敵国」に置き換えてみろ

2013年12月07日 | 坊主の家計簿
<秘密保護法>若者に危機感…「見ぬふりできぬ」学生集会(毎日新聞) - Y!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131207-00000016-mai-soci

【小林さんは「賛成か反対の意見を強いるのではない。でも、傍観して自分の意見を言わないことは中立とは言えず、権力に力を与え続ける暴力行為だ」と呼びかけた。】

って、戦時中の日本か(笑)
「権力」を「敵国」に置き換えてみろ。なんつー暴力的な発言。

しかし、東日本大震災以降、ますます行動するバカに煽られるカスが増えて来たのぉ…。そこまで人間でなく奴隷になりたいのか?

調査方法を無視

2013年12月06日 | 坊主の家計簿
福島県の子どもの甲状腺がんは他県の7倍ではなく3850倍!! : とある原発の溶融貫通(メルトスルー) http://blog.livedoor.jp/home_make-toaru/archives/7438707.html

調査方法を無視ししたデーターで大騒ぎして「秘密法案になればぁ!」というよりも、民主党に政権取らせて廃案にすりゃイイだけじゃん。というか、それしか無いやろ。

気分という事

2013年12月03日 | 坊主の家計簿
気分という事。

気分でしか考える事しか出来ない、という決着はとても大切な事だと思う。

どこぞの伝統教団が戦争責任問題がありながらも、時代に流され福島差別を増長している。また同じ過ちを繰り返している。まあ、うちの教団なんだが(笑)

戦時教学があり、戦後の民主主義教学がある。今なら反原発教学なのか?まあ、いいや。頑張れ上田紀行教学でもイイや。時代時代の教学があって、その時の流行に生身の人間は流される。

時代の流行でなければ、個人的な流行。例えば誰かを好きになってしまってどうしようもないでも同じ。そんな流行(るぎょう)に流されている。

煩悩具足の教団らしい。

【「これが君自身だ」、流行をクリエイトする人たちが、「新しい自分」を提案してきます。言われてみれば、そのように感じてしまうから不思議です。でも、ちょっと油断をしていると「その自分はもう古いよ、今トレンディなのは〇〇な君」。ボーッとしてはいられない。いつも情報に敏感になって、次から次と更新される「新しい自分」を追い求めなければなりません。
「私は私でありたい」という私たちの根源的な欲求に対して、さまざまな世界から「これこそがあなた自身だよ」という呼びかけがあります。確かに最新の流行(りゅうこう)を手に入れたい「あなた」がいるかもしれません。しかし、ちょっと、よく耳を澄ませてください。「本当の自分自身とは何か」ということに。
そのつど提案される「新しい自分自身」を追い求めることは、「私は私でありたい」という根源的な欲求の「流転(るてん)のすがた」なのではないでしょうか。
「私は私でありたい」、この欲求は、実は存在の深みに降りていく根源的な願いでこそあるのです。時がたてば色あせていくものではない、歴史と社会を、深みにおいて共にしている一切衆生(いっさいしゅじょう)という大地にその根があります。その根っこを自覚していきたい。この願いこそ普く流行するものだと親鸞聖人は私たちに教え示しています。永遠に流れ行く流行(りゅうこう)ではなく、どのような者にとっても根源の願いとして静かに流れ来る流行(るぎょう)に、しっかりと耳を澄ませたいものです。
埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補
月刊『同朋』2002年12月号より】

佛から照らし出される流行に右往左往する流転する煩悩具足としての一切衆生としての私。

ヘイトスピーチ

2013年12月03日 | 坊主の家計簿
【赤木智弘の眼光紙背】ヘイトスピーチを排除させるな!
http://lite.blogos.com/article/59551/

当たり前の事が赤木氏は「震災以降」とあるが、確かに阪神大震災直後のオウム事件よりも遥かに酷い形でボロボロになっている。
東日本大震災以降の反原発過激派が煽りたてる(どこかの伝統教団も)情報で福島差別を増長させたり。

言論の自由

2013年12月03日 | 坊主の家計簿
【一方で、一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。】(石破茂)
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/620049/523121/78320516


在特会系などの「ヘイトスピーチ」と呼ばれるデモだって言論の自由だろ。民主主義だから保証されてるんだろ。

デモの内容や表現方法(音量は規制された内)は自由だろ。それを規制したらアカンやろ。有田芳生は石破と連携して上記引用内容を促進して、民主主義と言論の自由を潰しとけ。

七ヶ浜

2013年12月02日 | 坊主の家計簿
ボケーっと、深夜テレビをつけてます。仙台放送の「ともに」とかいう番組らしい。

七ヶ浜のビスケットを紹介してた。七ヶ浜は結構好きな所で、恐らく、というか間違いなく津波が来た海岸でしばらくボケーっとした。で、シェア先のラーメンは物凄く美味しかった。

かつ、共同作業所でもあって、むかし働いていたポッポのパン屋とか、よく呑みに行ってた「きじむなあ」とかを思い出す。

ポッポのパンも、きじむなあの料理も美味しかったのと同じく、とうふ屋ら~めんも美味しかった。ラーメン自体も美味しかったけど、違う味もするねん。共生の味。

とうふ屋ら~めんももう一度行きたいし、七ヶ浜には他にも色々と美味しいものがあるみたい。

http://re-tohoku.jp/blog/11219

若松孝二監督「千年の愉楽」

2013年12月02日 | 坊主の家計簿
若松孝二監督「千年の愉楽」。

いい。実にいい。「実録連合赤軍」と、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」とあわせて、若松孝二の青春三部作(ポルノ時代は知らん)と勝手に呼ぼう。

業。
千年の愉楽は「血の業」だけど、他のふたつは無関係な業。

連合赤軍の人たちも、盾の会の人たちも業。

千年の愉楽の原作は中上健次。故に映画に出て来る「路地の毛坊主と高木顕明がダブる。まあ、全然違うが。でも、高木顕明も、もう少し長生きしてりゃ、あんな感じだったのかも知れん。

路地の血の業を抱えた人間も、血の業とは無関係だが、連合赤軍や盾の会の人たちの業。

千年の愉楽は若松孝二の遺作だったっけ?
路地の若者を象徴にしながら、人間の愚かさ、どうしようもなさを暖かく包み込む様に見守る路地の毛坊主と、若松孝二がダブる。

日本赤軍との云々もあるけど、若松孝二って、基本、アホが好きやってんな。

ちなみに映画「千年の愉楽」(ただいまツタヤで新作)には、あの高岡蒼甫と、あの山本太郎が出てます(笑)今現在の俳優の両横綱クラスのアホ。韓国との問題に関しての意見は正反対だろうけど、アホの極右両名。

どうでもイイけど、今の山本太郎をみて、三島由紀夫は大喜びやろな。

【君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ】

って、まさに山本太郎。というか、大谷派も中核派も山本太郎に引き続くのか?

まあ、いいや。

かかってこんかい

2013年12月01日 | 坊主の家計簿
「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の境遇に落在せるもの、即ち是なり。只だ夫れ絶対無限に乗托す。故に死生の事、亦た憂ふるに足らず。死生尚ほ且つ憂ふるに足らず。如何に況んや、此より而下なる事件に於いてをや。追放可なり、獄牢甘んずべし。誹謗擯斥、許多の凌辱、竟に意に介すべきものあらんや。否な之を憂ふると雖も、之を意に介すと雖も、吾人は之を如何ともする能はざるなり。我人は寧ろ只管絶対無限の吾人に賦与せるものを楽しまんかな」

これを大阪語訳では「かかってこんかい」と言います。

「原子力ムラ」って、曽我量深の特殊部落発言と何が違うねん?

2013年12月01日 | 坊主の家計簿
山本太郎議員への手紙-「放射性廃棄物と同じ基準値の食品」という表現をマスコミがしない理由 - クルマと エネルギーと 地球の未来と... - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/zaqwsx_29/32101036.html

まあ、こんな人が国家議員だし、旧来のままの反原発運動家や、それにひれ伏す人たちにとっての便利な言葉「原子力ムラ」だとかの話もあるが。

ところで、「原子力ムラ」って、曽我量深の特殊発言と何が違うねん?(笑)人権、しっかり学んだか?糾弾されないと解らないなら、全国の村から糾弾して貰えば?

全国中学生人権作文コンテスト

2013年12月01日 | 坊主の家計簿
河北新報 東北のニュース/全国中学生人権作文コンテスト 古川の大沼君、最優秀賞
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/11/20131128t13005.htm

反対意見も散々あったけど、危険なのは放射能汚染された食品であって、それを「福島産」とする所が差別や、っちゅうねん。

ええ加減、放射能恐怖症から脱却せえ、っちゅうねん。

自己肯定と自我肯定

2013年12月01日 | 坊主の家計簿
自己肯定と自我肯定。まあ、結局は同じなんだけど、自我(エゴ)と自己(セルフ)。
流転する自己。それを勘違いする自我。

「念仏を自己肯定の為に使うな!」なんてよく聞くけど、おい。流転輪廻する迷いの凡夫を否定してどうする。否定という言葉使いが違っていたら、それを認めずにどうする。

凡夫は仏語であると同時に自覚用語である。ただ、凡夫という時には「煩悩具足のわれら」としての「われ」。

仏教は目覚めの教えだろうけど、慈悲の教え。まあ、同じ。
自他を許し、認める(目覚める)教え。

自他を裁く為の、何か条件を付けないような、自分がこだわっているような事、それは世間の価値観でも、自分の生い立ちでも、今の生活環境でも。それでもって念仏を利用する事が、念仏でもって自我肯定してる事だろ。

で、そんな事しか出来ない。だから、「南無阿弥陀仏南無」ではないのか?

裁く事が大好きで、差別が大好きで、自分が大嫌い。
そんなもんやろ。だから、念仏だって、そんなもんに、自我肯定に利用する。
自殺はダメ、不倫はダメに利用する。
その内に「ホームレスはダメ」とかにするのか?家庭を持って子どもを作って育ててに。
日の丸振って「天皇陛下万歳!」に。或いは「原発反対!」に。

自己肯定と自我肯定は違う。
ただ、自己肯定を通じて自我を包みこもうよ。自我を許そうよ。緊張して、「こうでなければ行けない!」という自我を肯定して、安心させてあげようよ。そして、平等に、共に迷える煩悩具足のわれらであるという、平等な、水平な、視点。それが平等性智つーもんだろ。慈悲の教え、目覚めの教えだろ。本人の生活は何も変わらず、だらしなく、ろくでもないままだが。

あ、本日の学習会のなんとなく所感。