【いわゆる悪人とは、自力作善の人たる私どもが、私ども自身の凡夫の身、宿業の身に対してたたきつける憎しみの言葉であり、怒りの言葉であるのです。(信国淳著作集一巻360頁)
【この第三章において特に明らかにされていることは何かといえば、それはひとえに他力をたのむことによって、その他力から浄土の仏に成るべきことを命じられる念仏の信心は、実にまた、その使命を果たすために、いずれの行も及び難く、そのためただ悪人として地獄に閉じ込められ、ただ悪人として責め苛まれるほかない凡夫の身を、自ら救うものとならなければならぬものであるということであり、一方では悪人を捨てることなき浄土の仏と成るとともに、同時にまた他方では、地獄にあるその悪人を自らその浄土をもって摂取して、悪人の浄土への往生を実現させる「往生の正因」というものにならなければならぬものであるということであるのです。】(信国淳著作集一巻369~370頁)
【この第三章において特に明らかにされていることは何かといえば、それはひとえに他力をたのむことによって、その他力から浄土の仏に成るべきことを命じられる念仏の信心は、実にまた、その使命を果たすために、いずれの行も及び難く、そのためただ悪人として地獄に閉じ込められ、ただ悪人として責め苛まれるほかない凡夫の身を、自ら救うものとならなければならぬものであるということであり、一方では悪人を捨てることなき浄土の仏と成るとともに、同時にまた他方では、地獄にあるその悪人を自らその浄土をもって摂取して、悪人の浄土への往生を実現させる「往生の正因」というものにならなければならぬものであるということであるのです。】(信国淳著作集一巻369~370頁)