坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

和辻哲郎の『ひび』

2012年07月29日 | 坊主の家計簿
 暑い。。。35℃まではなんとかなるが、35℃を過ぎるとさすがにシンドイ。先日、炎天下の午後1時に墓場で20分ほど読経していたら、今年初の身体的危機を感じた。
 今日は珍しく法事3件。その間に月参り。わちゃわちゃと大汗流しながらの法事。オリンピックの開会式だったらしく、それをネタに『勝他』を導入口に喋り始めたのはエエのだが、「暑いわい!」と、ボーっとして話を盛り込み過ぎた。。。

 先日、学校の予習を珍しくしていると、同じ逸話が二つ。予習といっても、当番ではないので、外れた所を追いかけていたので「お!」っと。

【和辻哲郎先生の回心というのは非常に素朴なかたちで経験されているのですね。それはお父さんでしたかが、亡くなられた時のことです。和辻先生は確か姫路の近く、船津の出身と思います。東大の教授で、世界的に有名な学者です。ところが故郷へ帰って葬式をされると、その故郷には土地の風習として葬式を出した家の者たちは会葬者に対して、会葬者が帰っていく時、墓の出口に土下座をして礼を述べることになっていたのです。和辻先生は自分の誇りがあって、それが素直にできなかったのです。「このようないなかの人々にどうして土下座などできようか」ということです。
 しかし、最後はやむを得ず土下座されたのです。そうするといなかの人々の足音が聞こえ、草鞋ぐらいしか見えないのです。しかし土下座しているうちに、和辻先生は大地の心とでもいうべきものが自分自身のなかによみがえるわけです。大地の心とは、自分は一人で今日まで生きてきて、自分一人の力で偉くなったように思っているけれども、自分自身は大衆に支えられていたのだなということです。大衆に支えられてこそ生きているにおかかわらず、その大衆に向かって唾を吐きかけようとしていた。それが土下座してはじめてわかった。だから和辻先生は、これからはもう自分ひとりのために生きるのではない、自分を支えていてくれる大衆のために生きようと決断されるのです。そのような経験を契機として、大衆というものは、実は私自身のいのちの内容だということを和辻先生は自覚されたのですね。南無阿弥陀仏は当時の和辻先生にはなかったかも知れません。しかし素朴なかたちで回心を経験されているのです。】(竹中智秀先生『無三宝処への往生』 阿弥陀の国か、天皇の国か265~266頁)

 で、同じ時に出会ったのが、伊東慧明先生『歎異抄の世界』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/sekai/3_4_3.html

 続けざまに読むと単なる「気になる」から「無茶苦茶気になる」に変化してしまったので、原文検索。

 和辻哲郎『土下座』(http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49903_41932.html

 青空文庫に落ちてました。
 
 原作を読む前にお二人の紹介部分や、ネット検索でヒットしたのを読んでいたりすると、

【これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ漫然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。彼はこの時、銅色の足と自分との関係が、やっと正しい位置に戻されたという気がしました。そうして正当な心の交通が、やっとここで可能になったという気がしました。それとともに現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距てているかということにも気づきました。】(和辻哲郎『土下座』より)

 のハッピーエンドで終わっているのかと思っていたら、ついさっき(今夜は学習会でした)原作を読んだら、スゲー。。。

【彼の知らなかった老人の心の世界が、漠然とながら彼にも開けて来ました。彼は土下座したために老人に対して抱くべき人間らしい心を教わることができたのです。
 彼は翌日また父親とともに、自分の村だけは家ごとに礼に回りました。彼は銅色の足に礼をしたと同じ心持ちで、黒くすすけた農家の土間や農事の手伝いで日にやけた善良な農家の主婦たちに礼をしました。彼が親しみを感ずることができなかったのは、こういう村でもすでに見いだすことのできる曖昧宿で、夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女から、都会の文明の片鱗を見せたような無感動な眼を向けられた時だけでした。が、この一、二の例外が、彼には妙にひどくこたえました。彼はその時、昨日から続いた自分の心持ちに、少しひびのはいったことを感じたのです。せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。】(和辻哲郎『土下座』より)

 この『せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。』という言葉が宗教の持つ、いや、もっと幅広く『人間の精神』の危険な所なんだが、上記の文章の続きは

【彼がもしこの土下座の経験を彼の生活全体に押しひろめる事ができたら、彼は新しい生活に進出することができるでしょう。彼はその問題を絶えず心で暖めています。あるいはいつか孵る時があるかも知れません。しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。】(和辻哲郎『土下座』より)

 である。『せっかくのぼった高み』の気持ち良い宗教体験の擬い物の世界(疑城胎宮)から『引きおろされたような気持ち』にさせられた『夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女』との出会いを『ひび』と表現し、『しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。』と新たな課題、問題を見いだしている。
 この『ひび』が、とても大事。
 
 少し前にFacebookにアップした言葉。

【「苦が無くなってしまえば浄土に眠ってしまう。そこに入ったら無有出離之縁である。浄土に閉じこもってしまうところには苦がないという罰がある。苦がないから眼を覚ます機縁がない」(安田理深『自己に背くもの』)】

 あるいは、これまた、少し前にfacebookにアップした竹中先生の授業のノートに書いてあった言葉。

【聞くという時に『衆生』として聞く。衆生でないものは『個人』である。仏法は衆生として聞かないと聞けない。衆生とは関係存在である。】

【共同生活でも関係存在としてあるから「しんどい」。しんどいから出て行く。あるいは他者を殺すか自分を殺すか。】

【殺すとは自分の思いを中心に自分を殺す。自我意識だが、自我意識そのものは殺さない。】

【衆生として生きる事はしんどい。だから人間生きている事はしんどいという事である。】

【だから個人になる。そして個人になると、どこまでも堕落する。】

【堕落するとはしんどくない様にして自分を助ける。個人になる事によって堕落して助かろうとする。】

【だから『しんどい』という所で一緒に助かる。】

【「個人になったらどこまでも堕落する。私は家内に助けられている」by安田理深】

 和辻哲郎は『ひび』を『彼自身の心にある必然のひび』と、決して「あいつが悪いからや」とか、「あんな連中」ではなく、『彼自身の心にある必然のひび』と表現している。
 安田先生は『私は家内に助けられている』と表現して居られるが、その表現を使うと和辻哲郎は『夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女に助けられている』になる。

 竹中先生が話しておられた事で、こんな事があった。確か、嫁と姑との関係で、寝たきりになった姑が介護をしている嫁に対して悪態ばかり吐く。腹が立った嫁が「クソばばあ!」的な発言をして介護を辞めて部屋から出て行ってしまう。でも暫くすると「ごめんなさい。申し訳ございませんでした」と土下座をして介護を続ける。介護して貰っている時に悪態を吐くのだから、寝たきり状態になる前から悪態を吐かれていたのだろう。嫁イジメがあったのだろう。でも、見捨ててしまう事、それがどんな相手であっても見捨ててしまう事を良しとせずに、もう一度『立ちあがっていく』。
 私にそんな事を「やれ!」と言われても決して出来る事ではないし、また、私の日常生活でそんな事は出来ていない。出来てはいないが、「じゃあ、どちらが真実なのか?」と言われると「申し訳ございません。。。」でしかない。

【普通ならば、「切らなければ生きていけないのだ、それが娑婆なんだ」と弁解してしまうでしょう。「お前だってそうやっているではないか。なぜ、私がそうやっては悪いか」と水掛け論で終わってしまいます。
 しかし、現実は確かにそうかも知れない。だが、真実はどうかということになったら、何かを裏切るということがあったとしても、見捨てるということがあったとしても、それを正当化はできない。やはり真実の前に立つということ、それが如来に遇うことではないでしょうか。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)

 え~。。。明日もクソ暑そうなので「ボー」っとする前に法話の原稿でも作っておこうと思ったのだが、法事の法話としては長い、っちゅうねん。