夕方からの学校に向けて、珍しく予習でもしようかと思う。昼寝するまでだが。。。なので、今日は突然の夕立に注意である。なんせ私が予習をするのだから(笑)
歎異抄第四章
※ 表題 我慢
※ 本文
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
※現代語訳
愛には、人間の思いを中心とした愛と人間の思いを超えた愛の違いがある。人間の思いを中心とした愛というのは、いのちあるものに同感し同情し、いとおしみ育てることである。しかし、思いどおりに愛を実現し、相手を満たすことは大変難しい。
人間の思いを超えた愛というのは、「ひとを愛するこころの限界を自覚して、いち早く如来の前にすべてを投げ出すことによって、人間の思いを超えた如来の愛が自由自在に、ひとを救うはたらきをする」というべきである。
今の人生において、どれほどいとおしく、またかわいそうだと思ってみても、人間の思いどおりにはたすけられないのだから、この愛は徹底しないのである。そうであるから、如来の本願にすべてをまかせることだけが、徹底した大いなる愛なのである。
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn06.html)
※ 語意・語注
(一) 聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)
(二) たすけとぐる
【およそ、たすけとげるということは、たすけられる必要のないようにするということです。たすけられる必要のないまでにたすけるということを宗教的救済というのであります。それを仏教では大慈悲と申してきました。ですから、たすけられる必要のないまでにたすけとげるということは、人をして仏たらしめる、成仏道に立たしめるということです。人をして、成仏道に立たしめるということは、自らもまたその道にたつこと、すなわち「念仏していそぎ仏となる」ということでなければなりません。つまり、共に仏道に向かうということでありましょう。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』137頁)
(三)きわめてありがたし。
【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
それ仏、難治の機を説きて、】(聖典251頁)
(三) 念仏して
【自分より悪いものが一人でもあったらお浄土へは参れぬぞ】(松原至遠)
(四) いそぎ仏になりて
【「いそぎ」とは時間概念ではない。絶対矛盾が全肯定されること。】
(五) 大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
【そして具体的に菩薩が「菩薩の死」を見ることになる動機の一つ、「堕悪道畏」というものを克服しえた菩薩として、こういう言葉があるんです。
『我れ布施を以っての故に、叫喚地獄に堕在す。我が施を受くる所の者、皆天上人に生ず。若ししからば、尚、応に常に布施を行ずべし。衆生は天上にあり、我は叫喚の苦を受く。』
と。ここで布施というのは、財施ではないわけです。法施です。すなわち地獄の中で、のたうっている者に、法施をしようと。阿弥陀仏の本願を伝達していこうと、そのことによって、その者を済度していこうということです。だからあえて叫喚地獄に落ちていこうという決断です。そして、むしろその地獄で苦悩する者に阿弥陀仏の本願を伝え、法施して、一切衆生を天上にさし上げていこうと。そういう地獄を恐れていた者が、地獄を選んで、地獄に堕ちていく。そして、永遠に助からない者になっていくという、そういう展開が称名念仏を通して、不退転地を獲得することを通して、はじまっていくのだということです。』(竹中智秀『いのちの願いに聞く七章』41~42頁)
【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)
※ 所感
【どうも私共がヒューマニズムに弱いのは結局自分に弱いのです。自分で自分を肯定していくのです。だから、自分を本当に批判している現状にぶつかっていても、すり抜けてしまいます。】(本多弘之『親鸞におけるヒューマニズム批判』本多弘之講義集二 24頁)
【無上菩提を求める者において実際に何かをはじめると、途端にやっていくことのむずかしい問題が出てくるのです。その時にそれを切り捨ててしまうかたちで問題を解決していく、そのようなことを「二乗地に堕す」ということとして龍樹は問題提起するのです。
またこのことを「菩薩の死」とも言うのです。すなわち除外者をもつわけで、最後まで面倒を見て責任を負っていくと、自分自身がやれやれと言えない。そこで厄介な問題をかかえている人を切り捨てていき、そのことによって自分を助けようとするのです。何とかしてその人のかかえている問題を自分自身の問題としていこうと悪戦苦闘している時に、切り捨てることによって一挙に解決してしまおうとするのです。これが「二乗地に堕す」、「菩薩の死」の問題です。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【「悪の因縁」とは何も特別なことではなく、日常生活のことです。日常生活というのは単純なことの繰り返しですね。一人の時は、自分は仏法のために生きるのだと情熱をもち、意気込んでいるのですが、奥さんをもらい、子どもができ、家庭のなかで生活することになりますと、もう家のなかのやりくりで明け暮れ、疲れ果てて、仏法どころではなくなってしまうのです。日常性というのは海が川を呑み込んで何ということもないようにしてしまうように、何かえらく意気込んでいたことが日常生活のなかではいつの間にか、何もなかったことのように消えていってしまうのです。だから仏法と言っていたことも、夢のように吹っ飛んでしまって、それで済んでいくのです。
何かもう一つ満ち足りない、空しいものが残るには残るのだが、それもそこそこに日が過ぎていってしまうのです。もっと言えば世間的名利心です、それを世間体というのですが、何とか生活ができるようになれば、それで落ちついていくのです。社会的地位もできたし、一応、外聞をはばかることなしに社会的に通用する名もできた。こういうことが四十歳ぐらいになると自然と備わってきます。そうあわてることもないし、いらいらすることもないわけで、そこで落ちつけるのですね。落ちついてしまうと仏法など必要ないわけです。日常生活のなかで、結局のところ、求めていたことになる世間的名利がある程度確保されると、そこでおちついてしまうのです。
このようなことが悪の因縁に遇いて声聞・辟支仏、すなわち二乗に堕ちてしまうことになるのです。本人はそれでいいと思うかも知れないが、こんなかたちで落ちつくのが一番危険なのです。自覚症状がなくなるのが一番恐ろしいことなのです。自分はこのような生活のまま流されてしまったら大変で、これでは一生を棒に振ってしまうと、居ても立ってもいられないようなあせりの気持ちをもっている間はまだいいのです。落ちついてしまって、そんな思いもないまま生きていくのが「空過」していってしまうことです。
そういう者が本願力に遇うことによって、その問題を克服していくのです。本願力が不虚作住持功徳だというのは、そういう危機に瀕する者が本願力に遇いさえすれば、必ずその本願力がその者を救っていくのだということです。ほんのかりそめでもよい、ほんのちょっとでもよい、真実を見た者は、たとえ日常生活のなかでその真実を見失い、真実から遠ざかってしまうことがあるかも知れないが、真実そのものが遠ざかる者をそのままに捨てておかない。見た方が忘れようと、遠ざかろうとしても、真実そのものが私を見放さないのです。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【「本願力を観ずれば」とは二乗地に堕ちないで、それを克服してきた歴史を信じ、また克服してきた人たちを念ずることのなかで自分一人の力では乗り越えられないのだが、私が求道していく時、先生や友だちに恵まれているかぎり、二乗地に退転する危機があっても必ずその人たちが支えてくれるのです。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【私自身もそうですが、いろいろ言ってみても結局は見捨てていき、切ってしまいます。学生と生活を共にしていても、「最後には先生は切るのではないか」と言われるわけです。「先生はいろいろ言うけれど、それでは最後まで面倒を見てくれるのか。結局は最後は切ってしまうのではないか」といって見透かされてしまうのです。そういう時など切ない思いをします。普通ならば、「切らなければ生きていけないのだ、それが娑婆なんだ」と弁解してしまうでしょう。「お前だってそうやっているではないか。なぜ、私がそうやっては悪いか」と水掛け論で終わってしまいます。
しかし、現実は確かにそうかも知れない。だが、真実はどうかということになったら、何かを裏切るということがあったとしても、見捨てるということがあったとしても、それを正当化はできない。やはり真実の前に立つということ、それが如来に遇うことではないでしょうか。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【我慢(がまん)
胴上げが、合格発表の場面などでよく見うけられます。(遊びたい気持ちをよくガマンして勉強したね、おめでとう)。「我慢」のもとの意味は、実は「胴上げ」が象徴しています。「慢」という字は「思い上がりの心」を示しています。どのように思い上がるのかというと、我というものにこだわって、自分で自分を胴上げ?するのです。みんなから胴上げされるのと違って、ちょっと寂しいすがたです。
仏教は諸法因縁生(しょほういんねんしょう)を説いています。すべてのことはお互い因となり縁となりながら、深く関係しあって存在しているということです。そこに私たちを支えている大地があります。しかし、その諸法因縁生を無視すれば、自分を支える大地をも失ってしまい、あとは自分で自分を支えるしかありません。自らを高く挙げる(高挙)ことによってしか生きることができないと思い込んでいる私たち。我慢とは、諸法因縁生に暗いという「根本的な迷い」を生きる私たちのすがたを指し示しているのです。
たとえどんなに謙虚でガマン強い人でも例外ではありません。わたしたちは、仏の言葉をとおして、諸法因縁生という大地の存在を知らされることがない限り、永遠に自分で自分の胴上げをしていくことになるのです。
「猶(なお)し大地のごとし、浄穢(じょうえ)・好悪(こうお)、異心(いしん)なきがゆえに」(真宗聖典55頁)。大地を知らされ、自らの胴上げから解放された仏弟子たちの感動の言葉です。】
(埴山和成・月刊『同朋』2002年3月号より
http://higashihonganji.or.jp/book/leaflet/word/word20.html#text02 )
歎異抄第四章
※ 表題 我慢
※ 本文
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
※現代語訳
愛には、人間の思いを中心とした愛と人間の思いを超えた愛の違いがある。人間の思いを中心とした愛というのは、いのちあるものに同感し同情し、いとおしみ育てることである。しかし、思いどおりに愛を実現し、相手を満たすことは大変難しい。
人間の思いを超えた愛というのは、「ひとを愛するこころの限界を自覚して、いち早く如来の前にすべてを投げ出すことによって、人間の思いを超えた如来の愛が自由自在に、ひとを救うはたらきをする」というべきである。
今の人生において、どれほどいとおしく、またかわいそうだと思ってみても、人間の思いどおりにはたすけられないのだから、この愛は徹底しないのである。そうであるから、如来の本願にすべてをまかせることだけが、徹底した大いなる愛なのである。
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn06.html)
※ 語意・語注
(一) 聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、あるいは教団の命脈を保とうとしてきたといわなければならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはだしい生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P7より)
(二) たすけとぐる
【およそ、たすけとげるということは、たすけられる必要のないようにするということです。たすけられる必要のないまでにたすけるということを宗教的救済というのであります。それを仏教では大慈悲と申してきました。ですから、たすけられる必要のないまでにたすけとげるということは、人をして仏たらしめる、成仏道に立たしめるということです。人をして、成仏道に立たしめるということは、自らもまたその道にたつこと、すなわち「念仏していそぎ仏となる」ということでなければなりません。つまり、共に仏道に向かうということでありましょう。】(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』137頁)
(三)きわめてありがたし。
【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
それ仏、難治の機を説きて、】(聖典251頁)
(三) 念仏して
【自分より悪いものが一人でもあったらお浄土へは参れぬぞ】(松原至遠)
(四) いそぎ仏になりて
【「いそぎ」とは時間概念ではない。絶対矛盾が全肯定されること。】
(五) 大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
【そして具体的に菩薩が「菩薩の死」を見ることになる動機の一つ、「堕悪道畏」というものを克服しえた菩薩として、こういう言葉があるんです。
『我れ布施を以っての故に、叫喚地獄に堕在す。我が施を受くる所の者、皆天上人に生ず。若ししからば、尚、応に常に布施を行ずべし。衆生は天上にあり、我は叫喚の苦を受く。』
と。ここで布施というのは、財施ではないわけです。法施です。すなわち地獄の中で、のたうっている者に、法施をしようと。阿弥陀仏の本願を伝達していこうと、そのことによって、その者を済度していこうということです。だからあえて叫喚地獄に落ちていこうという決断です。そして、むしろその地獄で苦悩する者に阿弥陀仏の本願を伝え、法施して、一切衆生を天上にさし上げていこうと。そういう地獄を恐れていた者が、地獄を選んで、地獄に堕ちていく。そして、永遠に助からない者になっていくという、そういう展開が称名念仏を通して、不退転地を獲得することを通して、はじまっていくのだということです。』(竹中智秀『いのちの願いに聞く七章』41~42頁)
【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』 信国淳選集第四巻P17より)
※ 所感
【どうも私共がヒューマニズムに弱いのは結局自分に弱いのです。自分で自分を肯定していくのです。だから、自分を本当に批判している現状にぶつかっていても、すり抜けてしまいます。】(本多弘之『親鸞におけるヒューマニズム批判』本多弘之講義集二 24頁)
【無上菩提を求める者において実際に何かをはじめると、途端にやっていくことのむずかしい問題が出てくるのです。その時にそれを切り捨ててしまうかたちで問題を解決していく、そのようなことを「二乗地に堕す」ということとして龍樹は問題提起するのです。
またこのことを「菩薩の死」とも言うのです。すなわち除外者をもつわけで、最後まで面倒を見て責任を負っていくと、自分自身がやれやれと言えない。そこで厄介な問題をかかえている人を切り捨てていき、そのことによって自分を助けようとするのです。何とかしてその人のかかえている問題を自分自身の問題としていこうと悪戦苦闘している時に、切り捨てることによって一挙に解決してしまおうとするのです。これが「二乗地に堕す」、「菩薩の死」の問題です。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【「悪の因縁」とは何も特別なことではなく、日常生活のことです。日常生活というのは単純なことの繰り返しですね。一人の時は、自分は仏法のために生きるのだと情熱をもち、意気込んでいるのですが、奥さんをもらい、子どもができ、家庭のなかで生活することになりますと、もう家のなかのやりくりで明け暮れ、疲れ果てて、仏法どころではなくなってしまうのです。日常性というのは海が川を呑み込んで何ということもないようにしてしまうように、何かえらく意気込んでいたことが日常生活のなかではいつの間にか、何もなかったことのように消えていってしまうのです。だから仏法と言っていたことも、夢のように吹っ飛んでしまって、それで済んでいくのです。
何かもう一つ満ち足りない、空しいものが残るには残るのだが、それもそこそこに日が過ぎていってしまうのです。もっと言えば世間的名利心です、それを世間体というのですが、何とか生活ができるようになれば、それで落ちついていくのです。社会的地位もできたし、一応、外聞をはばかることなしに社会的に通用する名もできた。こういうことが四十歳ぐらいになると自然と備わってきます。そうあわてることもないし、いらいらすることもないわけで、そこで落ちつけるのですね。落ちついてしまうと仏法など必要ないわけです。日常生活のなかで、結局のところ、求めていたことになる世間的名利がある程度確保されると、そこでおちついてしまうのです。
このようなことが悪の因縁に遇いて声聞・辟支仏、すなわち二乗に堕ちてしまうことになるのです。本人はそれでいいと思うかも知れないが、こんなかたちで落ちつくのが一番危険なのです。自覚症状がなくなるのが一番恐ろしいことなのです。自分はこのような生活のまま流されてしまったら大変で、これでは一生を棒に振ってしまうと、居ても立ってもいられないようなあせりの気持ちをもっている間はまだいいのです。落ちついてしまって、そんな思いもないまま生きていくのが「空過」していってしまうことです。
そういう者が本願力に遇うことによって、その問題を克服していくのです。本願力が不虚作住持功徳だというのは、そういう危機に瀕する者が本願力に遇いさえすれば、必ずその本願力がその者を救っていくのだということです。ほんのかりそめでもよい、ほんのちょっとでもよい、真実を見た者は、たとえ日常生活のなかでその真実を見失い、真実から遠ざかってしまうことがあるかも知れないが、真実そのものが遠ざかる者をそのままに捨てておかない。見た方が忘れようと、遠ざかろうとしても、真実そのものが私を見放さないのです。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【「本願力を観ずれば」とは二乗地に堕ちないで、それを克服してきた歴史を信じ、また克服してきた人たちを念ずることのなかで自分一人の力では乗り越えられないのだが、私が求道していく時、先生や友だちに恵まれているかぎり、二乗地に退転する危機があっても必ずその人たちが支えてくれるのです。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【私自身もそうですが、いろいろ言ってみても結局は見捨てていき、切ってしまいます。学生と生活を共にしていても、「最後には先生は切るのではないか」と言われるわけです。「先生はいろいろ言うけれど、それでは最後まで面倒を見てくれるのか。結局は最後は切ってしまうのではないか」といって見透かされてしまうのです。そういう時など切ない思いをします。普通ならば、「切らなければ生きていけないのだ、それが娑婆なんだ」と弁解してしまうでしょう。「お前だってそうやっているではないか。なぜ、私がそうやっては悪いか」と水掛け論で終わってしまいます。
しかし、現実は確かにそうかも知れない。だが、真実はどうかということになったら、何かを裏切るということがあったとしても、見捨てるということがあったとしても、それを正当化はできない。やはり真実の前に立つということ、それが如来に遇うことではないでしょうか。】(竹中智秀『無三宝処への往生』より)
【我慢(がまん)
胴上げが、合格発表の場面などでよく見うけられます。(遊びたい気持ちをよくガマンして勉強したね、おめでとう)。「我慢」のもとの意味は、実は「胴上げ」が象徴しています。「慢」という字は「思い上がりの心」を示しています。どのように思い上がるのかというと、我というものにこだわって、自分で自分を胴上げ?するのです。みんなから胴上げされるのと違って、ちょっと寂しいすがたです。
仏教は諸法因縁生(しょほういんねんしょう)を説いています。すべてのことはお互い因となり縁となりながら、深く関係しあって存在しているということです。そこに私たちを支えている大地があります。しかし、その諸法因縁生を無視すれば、自分を支える大地をも失ってしまい、あとは自分で自分を支えるしかありません。自らを高く挙げる(高挙)ことによってしか生きることができないと思い込んでいる私たち。我慢とは、諸法因縁生に暗いという「根本的な迷い」を生きる私たちのすがたを指し示しているのです。
たとえどんなに謙虚でガマン強い人でも例外ではありません。わたしたちは、仏の言葉をとおして、諸法因縁生という大地の存在を知らされることがない限り、永遠に自分で自分の胴上げをしていくことになるのです。
「猶(なお)し大地のごとし、浄穢(じょうえ)・好悪(こうお)、異心(いしん)なきがゆえに」(真宗聖典55頁)。大地を知らされ、自らの胴上げから解放された仏弟子たちの感動の言葉です。】
(埴山和成・月刊『同朋』2002年3月号より
http://higashihonganji.or.jp/book/leaflet/word/word20.html#text02 )