坊主の家計簿

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歎異抄第三章後半 

2012年07月20日 | 坊主の家計簿
歎異抄 第三章後半 
                         
※ 表題 『煩悩具足のわれら』

※ 本文

 煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

※現代語訳

 「末代の平等的悪人(-価値)」たる私たちは、いかなる行によっても自力では得悟も往生も不可能である。阿弥陀仏はそれを哀れんで、私たち「末代の平等的悪人(-価値)」を正機として救済すると誓われた。だから、その弥陀の意図を理解して他力の信仰に入った「他力の悪人(+価値)」が報土往生の正因なのである。そこで、「疑心の善人(-価値)」でも方便化土に往生できる、まして「他力の悪人(+価値)」の報土往生は当然だ、と親鸞聖人はおっしゃった。
( 平雅行氏『親鸞とその時代』161頁~162頁)

 自らの煩悩(欲望・不安・後悔等)に振り回されている私たちは、どれほど人間的な努力を尽くしてみても、そうした苦しみの生活から解放されることはありえない。このような私たちを深く悲しまれて、本願をおこしてくださったのである。その本願の御こころは、そのような悪人をこそ真に解放してくださるのである。だから、他力にすべてをおまかせする悪人の自覚こそ、真実の自己になる根本的要因なのである。
それで、善人でさえも真実の自己になれるのであれば、なおさら悪人はいうまでもないことである、とおっしゃったのである。
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn05.html)


※ 語意・語注

(一) 煩悩具足のわれら

【そもそも、人間という日常用語に相当するインドの言語は実に多用であります。(中略)
 その中で、私たちが仏典の中で最もよく耳にする漢訳語は、「衆生」、「有情」ということばです。この漢訳語に相当するサンスクリット語は「サットヴァ」。パーリー語はサッタというのですが、このことばについて原始仏典は、「存在するもの(サット)」よりも「執着するもの」(サンジュの過去分詞形)という解釈を採用しているのです。このことは、人間を「存在するもの」とみるのではなくて、「執着する存在」としてとらえていた点に特徴があったことを意味します。】
(雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』220頁~221頁)

(二) いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざる
【また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。】
(聖典359頁~360頁)

(三) あわれみたまいて、願をおこしたまう本意
【如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。】
(聖典8頁)

(四) 悪人成仏
【回心というても、悪人が善人になることではありません。具体的には回心は懺悔です。悪人が悪人の自覚をうることです。悪人成仏といいます。善人成仏ではありません。】
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』111頁)

(五) 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり
【いわゆる悪人とは、自力作善の人たる私どもが、私ども自身の凡夫の身、宿業の身に対してたたきつける憎しみの言葉であり、怒りの言葉であるのです。(信国淳著作集一巻360頁)

【この第三章において特に明らかにされていることは何かといえば、それはひとえに他力をたのむことによって、その他力から浄土の仏に成るべきことを命じられる念仏の信心は、実にまた、その使命を果たすために、いずれの行も及び難く、そのためただ悪人として地獄に閉じ込められ、ただ悪人として責め苛まれるほかない凡夫の身を、自ら救うものとならなければならぬものであるということであり、一方では悪人を捨てることなき浄土の仏と成るとともに、同時にまた他方では、地獄にあるその悪人を自らその浄土をもって摂取して、悪人の浄土への往生を実現させる「往生の正因」というものにならなければならぬものであるということであるのです。】(信国淳著作集一巻369~370頁)

(六) 善人だにこそ往生すれ、まして悪人は
【「だに」は、最低の例をあげる言葉である。それを「善人」につけ、往生が最も困難なものとして、不信と軽蔑を表わす。さらに「こそ」をつけていっそう強め、己然形「往生すれ」で受ける係り結びの語気を下へ続ける強調逆接法で、大きな振動をもって下の文に逆接する。この文を、そこに表われた感情的躍動を生かして訳すと、「善人みたいなものでさえ往生するのに、まして悪人が往生しないはずがあろうか」となる。】
(河田光夫『親鸞と被差別民』河田光夫著作集・第一巻70頁)

※ 関連語句

【イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」】
(新約聖書・新共同訳ヨハネ8-1~11)

【このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚きよ偽ぎをいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。】
(歎異抄第十三章より。現代語訳は親鸞仏教センター)

※ 所感

 6月9日の私が預かっている寺の報恩講以降、どうもボンヤリとしており、緊張感がなくiPhoneでゲームばかりしているので、いまいち様々な情報も追いきれていないが、大津市で中学2年生がイジメが原因とされる事で自死されたらしい。これを書いているのは7月10日深夜なのだが、中学と滋賀県庁に「謝罪しろ」という爆破予告があったらしい。その他にもインターネット上で加害者側の様々な個人情報が流れている。「警察が裁かないのならネットで裁く」というような意見まである。
 似た様な事は福島第一原発事故でもあった。東京電力社員や、その家族に対するいやがらせや、週刊誌などによる原発CMに出ていたタレント叩き。人権を重んじるはずの週刊金曜日でさえ、『電力会社が利用した文化人』の名前を表紙に持って来た。
 魔女狩りである。

【「俺の体は悪魔になった・・・だが人間の心は失わなかった! きさまらは人間の体を持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ! これが! これが! 俺が身を捨てて守ろうとした人間の正体か! 地獄へ落ちろ 人間ども!」】

 というセリフが映画『デビルマン』にあるらしい。
 魔女狩りをした人達を『魔女』にしてしまう。
 
 鍵主良敬先生が母校・大谷専修学院に来て下さった時に「恨みによらず『悲しいね』って言えるかどうか。南無阿弥陀仏って言えるかどうか」と仰っておられた。

【有名な「悪人正機」説は、個人の体験を契機として、まさしく親鸞聖人の血の滴るような苦悩に満ちた心の格闘を経て、練り上げられた絶対否定の論理なのです。それは、「生生流転、無縁解脱」の罪悪深重の衆生をすべて内包している無差別の、絶対平等の救済を示しているのです。
 このような親鸞聖人の絶対平等の救済は、常識的に理解されるような支配権力を対立相手と見なして戦うという民衆救済とは次元が違います。それは「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」(『歎異抄』)という言葉に裏づけられるように、一切の有情を絶対に平等に見る、対立項のない「無縁の救済」なのです。すなわち平等無差別の救済です。
 ここでもう一つ事実を申し上げて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。前に申し上げた「紅衛兵」の良のことですが、二十三年後の一九八九年、ちょうど文化大革命の 紅衛兵たちが自分の犯した罪を反省して、謝罪が行われた時期でした。五月一日のメーデーの日、私は良から彼の家庭パーティーへの招待状をもらいました。「改革開放」のなかで、良さんは奥さんと、シューマイの店を経営して、繁昌して、とても裕福な生活をしているということでした。
 「良」という名は、私を二十三年前の「文化大革命」時代に連れ戻し、あのつらかった出来事を思い出させます。二十三年来の恨みが湧き出てきて、行く気持ちにはなれませんでした。ところが、その招待状に込められた真意あふれる懺悔の感情に引かれ、とうとう行く決意をしました。
 パーティーに出てみると、十二人の参加者は、「文革」時代の良の仲間と、彼らによって迫害を受けた人たちでした。互いに顔を合わせると、何のために招待されたか、暗黙のうちにみんな了解していたようでした。パーティーが始まり、良がコップを挙げて、「皆さん、過去のこと……」と切り出した途端に、言葉が詰まりました。「乾杯!」という誰かの声が沈黙を破り、
「乾杯!乾杯!」
「忘れた、忘れた、過去のことは忘れた……」
 湧き出てきたみんなの声。それに伴う雑然としたコップのぶつかる音。私は、その声と音を聞きながら、隠された共有の傷跡がみんなの心の中でうずいているのだと、はっきり実感しました。
 良は、その後の武闘の中で片方の目を失いました。「文革」のあと、殺人容疑で審査されたり、拘禁されたりしたこともあったそうです。良の顔を見ると、豊かな生活に養われた艶のいい顔ですが、顔に刻まれた現在の年齢とかけ離れた深い皺と、皺から滲み出るように漂う苦渋の表情が、彼のけっして楽ではない心を語っています。良は、騒いでいる皆を眺めているうちに、抑えきれずに、涙を流しました。それを見たとたん、二十三年来、私の心のなかに溜っていた憎しみが大きな悲しみに揺さぶられてどうしようもない思いでした。もちろん、歴史において人間が犯した罪は追及しなければなりません。しかし、時代の嵐に弄ばれて、悪人にならざるを得なかった人びとの苦悩と悲哀の中に、罪を犯した者と犯さなかった者という二元対立を超えた人間そのもの共通する深層的な苦悩と悲哀があるのではありませんか。】
(張偉『海をこえて響くお念仏』38頁~42頁)

 本堂には報恩講の講師が書かれた『浄土宗のひとは愚者になりて往生す』という親鸞聖人が法然上人より頂いた言葉がホワイトボードに書かれたままであるが、最近の私はこの言葉を「愚者に往生する」と読んでいる。『愚者』=『 他力をたのみたてまつる悪人』である。
 私の『日ごろのこころ』は善人意識の塊であり、それ以外には一切ない。これはある先輩から指摘されたのだが、『娘がイジメられる側』の事しか考えられず、『娘がイジメる側』になる事を発想出来ない。

【今日、地球上では、さまざまな論理や正義によって戦いあい、殺しあう人間同士の闘争が続いています。長い歴史の中で育てられた人間心理は簡単に乗り越えられないようですが、それを乗り越えなければ、私たちはこの足下の大地に、いつまでも人間の手によって殺された死者の白い骨を埋め続けなければなりません。私たちはこのまま未来に向かっていいのでしょうか。
 親鸞聖人は、宿業の自覚を得て、隔たりのない世界を感得し、自他対立を超えた深い真実の境地を一語一語に披瀝され、「悪循環」を超える道を開いてくださいました。親鸞聖人の声は八百年の隔たりを超えて、今も響いています。】
( 張偉『海をこえて響くお念仏』44頁)


追記
 提出前日に読み返してみて、 語意・語注を少し差し替える。
 河田光夫氏の引用文の中に『軽蔑』という言葉が出て来るが、これはおかしい。法然上人は流罪途中で念仏往生に関して「不軽大士のごとく」と語っておられるらしい(絵伝。原典では未確認)、『不軽大士』=『常不軽菩薩』である。

【『紳士諸君よ、わたしはあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは、みな、求法者の修行をしたまえ。そうなさるならば、あなたがたは完全な「さとり」に到達した阿羅漢の如来になられるでしょう』】(岩波文庫『法華経下巻』133頁)
 
が、常不軽菩薩である。それが故に『常に軽蔑された男』(岩波文庫『法華経下巻』149頁)であり、常不軽菩薩である。故に『善人』に対する軽蔑はおかしい。

【平和運動には、多くの怒り、欲求不満、誤解があります。
 平和運動に携わる人たちは、とても上手に抗議文を書くことができます。しかし、愛の手紙を書くことができません。
 相手が捨ててしまうのでなく、相手が読みたくなるような手紙を、アメリカ合衆国議会や大統領に宛てて、書くことを学ぶ必要があります。
 あなたの話し方、理解の仕方、言葉の用い方が、相手にそっぽを向かせるものであってはなりません。大統領も、私たちの誰とも同じ人間です。】(ティクナットハン『ビーイングピース』中公文庫版117頁)

※参考文献

@安良岡康作『歎異抄全講読』大蔵出版
@高原覚正『歎異抄集記 上巻』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/Jikki/index.html)
@藤内和光『歎異抄に聞く』(http://park3.wakwak.com/~myokenji/tannisyou-mokuji.html)
@細川巌『歎異抄講読』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/index.html)
その他