【親鸞聖人の何かの折りにふとおっしゃった言葉が、唯円の胸に染み入り、年月を経るごとにいよいよ心に深く刻みこまれ、人生の節目節目に鮮やかに甦ってくる。】(狐野秀存『願生第153号』より)
という様な心の作用というか、信仰生活の働き、御念仏の働きを所謂『仏教学』というもので解説したりする事に増々興味を失いつつある昨今でございます。まあ、様々な意味を含めて余裕があれば「やろうかなぁ~」と思ったりもするのですが、いかんせん、母校の機関紙の口座振替をつい先程まで忘れていたわけでして…(笑)
今日は早朝の御参り一軒だけだったので、お休み気分。誰がなんと言おうとお休み気分。なので諸々の事務的な仕事を「しようかなぁ~♪」と。医療保険の結婚しての名義変更はインターネットでは出来ないらしい。けど、せっかく立ち上げたパソコンでポツポツと。
昨夜、どなたのリツイートか忘れたが、Twitterで田中角栄botの言葉が流れて来た。あ、映画『無人地帯』の藤原敏史監督か。
流れて来た言葉は
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
という言葉。田中角栄氏がどこで発言なされた言葉なのか知らないが、ネットの田中角栄語録でも紹介されていた。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku.htm
『宗教者』という言葉が気になる。
『宗教』という宗教教団はない。ひょっとしたらあるのかも知れないが、聞いた事がない。『宗教』という宗教がないにも関わらず『宗教者』という言葉はある。「我々は宗教者として…」云々。
私が中学か高校時代に最初に買った哲学の入門書の前書きか、最初の項目だったかに、「哲学は誰だってしているものです。八百屋さんには八百屋さんの哲学があるでしょうし、魚屋さんには魚屋さんの哲学がある」みたいな事が書いてあった。引越が多いので当然その本は手元にないし、なんというタイトルだったのか、誰が書いたのか一切覚えていないが、生意気だった(今もか)思春期真っ盛りの時代の私の心に響いたのだろう。44歳になったいまだに覚えているし、その言葉の持つ哲学性に共感する。
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
という言葉の田中角栄氏は、日本の高度成長期時代の象徴的な人物だろう。高度成長期の中では、いや、私(たち)の自我意識の中では
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
にしか成り得ないのだろう。
【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)
宗教者。
真宗教団で『宗教者』とは宗教法人の代表者(住職)や、あるいは、『僧侶』のみに限定されるのだろうか?それとも『真宗門徒』全体を指していうのだろうか?宗教法人云々の話は国法である。仏法云々の話ではない。
真宗教団での『宗教者』が真宗門徒全てを指すのであれば、それこそ、八百屋さんだったり、魚屋さんだったりも宗教者である。御念仏という宗教活動(行)を行っている。
『宗教』という宗教はない。あるのはそれぞれの宗教の教えであり、その教えに生きて居られる方々だ。教えが違う以上、「立派な宗教家」という概念自体がおかしい。日蓮宗の方々にとって、熱心な念仏者であればある程救い難い存在であるのだろう。
真宗門徒が
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
こういう言葉をいうとは思えないが、『宗教者』というフィルター、まあ、色眼鏡(偏見)でもって観た場合には「あの人は何の行動もせずに念仏しか申していない」という事になってしまうのだろうか?だとしたら、それは『真宗門徒という宗教者』としてどうなのだろうか?己の信仰を無視した宗教者にどういう意味があるのだろうか?
【神さま
信じている私に 信じていない私が
いつも 厳しく問いかけてきます
”お前の信仰はウソだ 心の底から
ほんとうに信じていない
お前の生活はなんだ
ほほえみながら 冷たい心で人を
憎みつつ 自分をごまかしている
愛の業 奉仕だといいながら
人が認めてくれないことに傷ついている
お前は 信仰者といいながら
偽善の不幸の中で いつも不平をいって
感謝も 喜びも忘れて生きている”
もうひとりの私の厳しいののしりの声に
私はひと言も答えることができないのです。
でも 神さま
信仰は何かをすることでしょうか
何かをしなければと思いつつ
何もできない痛みに苦しむ私を
愛をもって招いてくださる主のみ声を聞く耳
愛されることを感謝する心
信仰とはそんなことだと 私は思います
何をすることでもない ただ素直に単純に
率直にあなたを信じて 礼拝を守りつづけ
祈りを共にしていく力を 私にください】
(石井錦一『お前の信仰はウソだ』。日本基督教団出版局『信じられない日の祈り』より)
という様な心の作用というか、信仰生活の働き、御念仏の働きを所謂『仏教学』というもので解説したりする事に増々興味を失いつつある昨今でございます。まあ、様々な意味を含めて余裕があれば「やろうかなぁ~」と思ったりもするのですが、いかんせん、母校の機関紙の口座振替をつい先程まで忘れていたわけでして…(笑)
今日は早朝の御参り一軒だけだったので、お休み気分。誰がなんと言おうとお休み気分。なので諸々の事務的な仕事を「しようかなぁ~♪」と。医療保険の結婚しての名義変更はインターネットでは出来ないらしい。けど、せっかく立ち上げたパソコンでポツポツと。
昨夜、どなたのリツイートか忘れたが、Twitterで田中角栄botの言葉が流れて来た。あ、映画『無人地帯』の藤原敏史監督か。
流れて来た言葉は
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
という言葉。田中角栄氏がどこで発言なされた言葉なのか知らないが、ネットの田中角栄語録でも紹介されていた。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku.htm
『宗教者』という言葉が気になる。
『宗教』という宗教教団はない。ひょっとしたらあるのかも知れないが、聞いた事がない。『宗教』という宗教がないにも関わらず『宗教者』という言葉はある。「我々は宗教者として…」云々。
私が中学か高校時代に最初に買った哲学の入門書の前書きか、最初の項目だったかに、「哲学は誰だってしているものです。八百屋さんには八百屋さんの哲学があるでしょうし、魚屋さんには魚屋さんの哲学がある」みたいな事が書いてあった。引越が多いので当然その本は手元にないし、なんというタイトルだったのか、誰が書いたのか一切覚えていないが、生意気だった(今もか)思春期真っ盛りの時代の私の心に響いたのだろう。44歳になったいまだに覚えているし、その言葉の持つ哲学性に共感する。
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
という言葉の田中角栄氏は、日本の高度成長期時代の象徴的な人物だろう。高度成長期の中では、いや、私(たち)の自我意識の中では
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
にしか成り得ないのだろう。
【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)
宗教者。
真宗教団で『宗教者』とは宗教法人の代表者(住職)や、あるいは、『僧侶』のみに限定されるのだろうか?それとも『真宗門徒』全体を指していうのだろうか?宗教法人云々の話は国法である。仏法云々の話ではない。
真宗教団での『宗教者』が真宗門徒全てを指すのであれば、それこそ、八百屋さんだったり、魚屋さんだったりも宗教者である。御念仏という宗教活動(行)を行っている。
『宗教』という宗教はない。あるのはそれぞれの宗教の教えであり、その教えに生きて居られる方々だ。教えが違う以上、「立派な宗教家」という概念自体がおかしい。日蓮宗の方々にとって、熱心な念仏者であればある程救い難い存在であるのだろう。
真宗門徒が
【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】
こういう言葉をいうとは思えないが、『宗教者』というフィルター、まあ、色眼鏡(偏見)でもって観た場合には「あの人は何の行動もせずに念仏しか申していない」という事になってしまうのだろうか?だとしたら、それは『真宗門徒という宗教者』としてどうなのだろうか?己の信仰を無視した宗教者にどういう意味があるのだろうか?
【神さま
信じている私に 信じていない私が
いつも 厳しく問いかけてきます
”お前の信仰はウソだ 心の底から
ほんとうに信じていない
お前の生活はなんだ
ほほえみながら 冷たい心で人を
憎みつつ 自分をごまかしている
愛の業 奉仕だといいながら
人が認めてくれないことに傷ついている
お前は 信仰者といいながら
偽善の不幸の中で いつも不平をいって
感謝も 喜びも忘れて生きている”
もうひとりの私の厳しいののしりの声に
私はひと言も答えることができないのです。
でも 神さま
信仰は何かをすることでしょうか
何かをしなければと思いつつ
何もできない痛みに苦しむ私を
愛をもって招いてくださる主のみ声を聞く耳
愛されることを感謝する心
信仰とはそんなことだと 私は思います
何をすることでもない ただ素直に単純に
率直にあなたを信じて 礼拝を守りつづけ
祈りを共にしていく力を 私にください】
(石井錦一『お前の信仰はウソだ』。日本基督教団出版局『信じられない日の祈り』より)
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