一昨日より喉の調子悪し。咳き込むし、かなりうっとうしい。坊さんにとって声は商売道具でもあるので、声が出難いのはマイナス点である(個人意見)。やはり朗々とした声での宗教音楽、音楽療法としての声明は私にとっては大事な事。つーか、私の『僧侶』としての売りの最大セールスポイントですし。
一昨日からの喉の調子悪さだったのだが、一昨日は夏バテ状態でもあり、声がかなりピンチだったのだが、夕方からの外出帰りに「まだ酔いが足らん」と飲みに行ってしまって、終電。。。まあ、翌日(昨日)は一昨日より声は出てたが、その分、咳き込む。今日はバリバリ声は出てたが、咳き込む。咳き込むのは『僧侶』としてマイナスであり。。。(以下同文)
今朝からプチ禁煙。つーか、元々、飲みに行かない限り、あるいは葬儀の前とかでない限り、そんなにタバコは吸わない。何もなければ1日5本程度である。もっと少ない日もある。なんせ「朝の一服」も殆どしないし。
しかしながら、禁煙である。『禁煙=ストレスが貯まる』である。という事で、今日もツイッターで主に遊ぶ。
ツイッターは純粋ストレス発散の場である。ブログもストレス発散であるが、ツイッターで遊んでいる時は殆どシラフ状態なのでかなり暴力的になる。先日もある友人からツイッターで書いて居る事に対して「何もそこまで言わんでも」なんぞと指摘されたのだが、え~。。。暴力的です。
純粋ストレス発散の場なので、何か面白いネタを探す。そして面白いネタは色々落ちているので、今日も、主にそれで遊ぶ。
先日も書いた『制服向上委員会』の事に関して、所属事務所の代表がインタビューに答えたらしい。
http://exdroid.jp/d/17812/
謝罪文を出したはずなのだが、上記記事では、その謝罪文を否定する様なイメージを受けた。
関連してのツイッターまとめ
http://togetter.com/li/165305
まあ、色々と突っ込みどころ満載なので、諸々遊んでいた。
ん?「遊んで」という言葉は失礼だ。批判していた。
禁煙のストレスもあって、久々に「俺ってアラシ?」みたいな感じも受けつつ、批判。
同世代なのかよく知らないが、割としっかりした人とさっきまでやり取りをしていたのだが、寝はったみたいですね。当り前か(笑)
諸々書きつつ、かつ、上記リンク記事を読みつつ、『ロックの定義』って何なんだろうか?と、ふと疑問に思う。
といっても、私にとって「あいつはロックやのぉ。。。」と、「あいつはパンクやのぉ。。。」というボーダーは曖昧だったりするのだが。
例えば、先日久しぶりに再会したパンク兄ちゃんは『いのちの祭』という、オモクソ反原発の反文明の集会(屋外ライブイベントか?)に行った時に、川でシャンプーを使いながら髪の毛を洗ってリーゼントを決めていたらしい。これは「おお!パンクや!」と同時に「おお!ロックや!」とも感じる。
中島らもは確か自分の生き方について「ひねくれ者」みたいな事を書いていた。つまり、今ならば世の中の多くが反原発・脱原発に流れている。そういう状況の中で『ひねくれ者』としては「原発賛成!」であると(笑)まあ、世の中の価値観が1つになって行く様なムードに対する反抗なんだろう。なので、『反抗』がロックであるならば、今は「原発賛成!」の方がよりロックである(笑)
今日は11時からの法事。毎度の事ながら「何を喋ろう」である。丁度、着替えたり、焼香の準備をしている時に「時代やな」みたいな言葉が聞こえたので、何も考えてなかった私は地デジ化で喋る。何やら12時からアナログ放送が見れなくなるらしいし。丁度今月の寺通信に書いた世間用語としての『流行(りゅうこう)』と、仏教用語としての『流行(るぎょう)』について喋りつつ。
けど、失敗やったな。『法話』としては上手い事行ったのかも知れんが、少し場を弁えてなかった。一周忌で喋る事ではなかったな。あえて言葉を使い分けるが、『僧侶』としては良かったのかも知れんが、『葬式坊主』としては失格やな。寄り添う法話ではなかった。「顔見て喋れ」という事からは遠く離れていたな。
あ、『ロックの定義』
有名なロック評論家や、ロックミュージシャンから「お前はロックだ」と評価されたから「ロックだ」という段階で最早ロックではない。んなもん、「俺はロックやってまっせ」だけなのではないのか?もっと言うならば、そんな言葉も要らない。ロックを生きているだけの話だ。
『僧侶』という言葉は私的には職業としての言葉なので、生き方としての念仏者、仏弟子としての定義。条件としての称名念仏。「ただ、南無阿弥陀仏」であったりする。しかしながら、私的には、今日の法事に参加して居られた人達全てが念仏者であり、仏弟子である、という確信の認識。疑いは失礼の私の修行不足である。
「みんな、本当は南無阿弥陀仏と念仏申したいんや!」と、実はキライな先生に教えて頂いたので。え~。。。○○先生、演歌っぽい(笑)私は○○先生の、えーい面倒だ。延塚先生の演歌っぽい所がキライである。授業サボって法話を聞きに行ったが(笑)
え。。。純粋に趣味の問題です。私の限界です。
しっかし、『定義』って面白い。ホンマに「誰が決めるねん?」という話である。「誰に決める権限があるねん?」であり、「誰に奪う権限があるねん?」である。
人間の定義しかり。
最近、某機関誌を読んでたら、原発事故に関して「悪人を作ってしか生きて行けない私たち」みたいな文章があった。誰が書いたのか知らない(載ってても忘れてます)のだが、「おお!」である。あまり勉強しない私にとっては久々の「おお!」である。
昨夜、録画していた『朝まで生テレビ』を観ていた。ああいう分け方もどうかと思うのだが、まあ、テレビ的演出手法なんだろうが、『原発推進派』と『原発反対派』に別れての討論。
結構、面白かった。特に、『今まで与党だった原発推進派の人達』の意見が非常に参考になった。やはり、今回の原発事故に対して『より多くの』という言葉を付け足すが、責任を感じて居られるのは、いわゆる推進派の人達である。自分達がやって来たことであり、かつ、これからも出来れば進めたい事だからなんだろう。
先に『与党だった』と書いたが、やはり与党の責任なんだろう。そういう意味では、反原発、脱原発の論客は、これから与党になって行く事になるのだが、イマイチ、弱かった印象を受ける。
「天皇制に反対する人は中共の工作員である」とは笑い話の妄想にしか過ぎない。
同じく、え~。。。今日の私もそういう風に見られていたのかも知れないが、「脱原発路線に対して批判する人は、電力会社や推進派の工作員である」というのも笑い話の妄想にしか過ぎない。
え~。。。椅子に座ろうと思ったらケツから転けた。。。
戦争中には戦争中の正義が絶対であり、戦後は別の正義。原発行政の中での正義もあり、その神話が崩壊したら、別の正義が。
そういう中での原発労働者の問題。
先日の朝生の中でも『推進派』の席に座っていた医師でさえ、今の福島原発での労働者に対する扱いは「国家による犯罪である」と。
正義が変われば価値観が変わる。その価値観の中で「あんなヤツなんて」というのが、最末端の原発労働者の実体ではないのか?
あ、泥酔でふ。明日、御参りはないので。
時代の流行(りゅうこう)の正義だったり、定義は仮のものではないのか?しかしながら、そういう『仮』のものを『真』であると思い込んでしまう色眼鏡をかけてしまっているのが実体ではないのか?
【ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。(中略)
形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれども唯一「幼な児の涙」という被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。】(尾畑文正『親鸞への旅』より)
多分、尾畑先生とは意見が違って来るのかも知れないが、私は、『反原発』『脱原発』という時代の流れの中で敵視される人達に思いを馳せる。
「戦略的にまだ早い」でも構わない。「それは反動に繋がる」でも構わない。私の課題でしかないし。
最近、娘に対してよく怒る。「それはアカンって。」なんぞと。成長の証であり、元気の証であるのだが、「アカン!」と怒る事が増えて来た。「○○して!」なんぞとも。
所詮、ワガママでしかない。「早く寝な、明日しんどいって」なんぞと言ってしまうが、「早く寝ろ」という私の都合である。大好きな、大切な娘に対してもワガママを押し付けているのが私の生活実体である。
あ、早く寝ないとイケナイのは私の方やな。
一昨日からの喉の調子悪さだったのだが、一昨日は夏バテ状態でもあり、声がかなりピンチだったのだが、夕方からの外出帰りに「まだ酔いが足らん」と飲みに行ってしまって、終電。。。まあ、翌日(昨日)は一昨日より声は出てたが、その分、咳き込む。今日はバリバリ声は出てたが、咳き込む。咳き込むのは『僧侶』としてマイナスであり。。。(以下同文)
今朝からプチ禁煙。つーか、元々、飲みに行かない限り、あるいは葬儀の前とかでない限り、そんなにタバコは吸わない。何もなければ1日5本程度である。もっと少ない日もある。なんせ「朝の一服」も殆どしないし。
しかしながら、禁煙である。『禁煙=ストレスが貯まる』である。という事で、今日もツイッターで主に遊ぶ。
ツイッターは純粋ストレス発散の場である。ブログもストレス発散であるが、ツイッターで遊んでいる時は殆どシラフ状態なのでかなり暴力的になる。先日もある友人からツイッターで書いて居る事に対して「何もそこまで言わんでも」なんぞと指摘されたのだが、え~。。。暴力的です。
純粋ストレス発散の場なので、何か面白いネタを探す。そして面白いネタは色々落ちているので、今日も、主にそれで遊ぶ。
先日も書いた『制服向上委員会』の事に関して、所属事務所の代表がインタビューに答えたらしい。
http://exdroid.jp/d/17812/
謝罪文を出したはずなのだが、上記記事では、その謝罪文を否定する様なイメージを受けた。
関連してのツイッターまとめ
http://togetter.com/li/165305
まあ、色々と突っ込みどころ満載なので、諸々遊んでいた。
ん?「遊んで」という言葉は失礼だ。批判していた。
禁煙のストレスもあって、久々に「俺ってアラシ?」みたいな感じも受けつつ、批判。
同世代なのかよく知らないが、割としっかりした人とさっきまでやり取りをしていたのだが、寝はったみたいですね。当り前か(笑)
諸々書きつつ、かつ、上記リンク記事を読みつつ、『ロックの定義』って何なんだろうか?と、ふと疑問に思う。
といっても、私にとって「あいつはロックやのぉ。。。」と、「あいつはパンクやのぉ。。。」というボーダーは曖昧だったりするのだが。
例えば、先日久しぶりに再会したパンク兄ちゃんは『いのちの祭』という、オモクソ反原発の反文明の集会(屋外ライブイベントか?)に行った時に、川でシャンプーを使いながら髪の毛を洗ってリーゼントを決めていたらしい。これは「おお!パンクや!」と同時に「おお!ロックや!」とも感じる。
中島らもは確か自分の生き方について「ひねくれ者」みたいな事を書いていた。つまり、今ならば世の中の多くが反原発・脱原発に流れている。そういう状況の中で『ひねくれ者』としては「原発賛成!」であると(笑)まあ、世の中の価値観が1つになって行く様なムードに対する反抗なんだろう。なので、『反抗』がロックであるならば、今は「原発賛成!」の方がよりロックである(笑)
今日は11時からの法事。毎度の事ながら「何を喋ろう」である。丁度、着替えたり、焼香の準備をしている時に「時代やな」みたいな言葉が聞こえたので、何も考えてなかった私は地デジ化で喋る。何やら12時からアナログ放送が見れなくなるらしいし。丁度今月の寺通信に書いた世間用語としての『流行(りゅうこう)』と、仏教用語としての『流行(るぎょう)』について喋りつつ。
けど、失敗やったな。『法話』としては上手い事行ったのかも知れんが、少し場を弁えてなかった。一周忌で喋る事ではなかったな。あえて言葉を使い分けるが、『僧侶』としては良かったのかも知れんが、『葬式坊主』としては失格やな。寄り添う法話ではなかった。「顔見て喋れ」という事からは遠く離れていたな。
あ、『ロックの定義』
有名なロック評論家や、ロックミュージシャンから「お前はロックだ」と評価されたから「ロックだ」という段階で最早ロックではない。んなもん、「俺はロックやってまっせ」だけなのではないのか?もっと言うならば、そんな言葉も要らない。ロックを生きているだけの話だ。
『僧侶』という言葉は私的には職業としての言葉なので、生き方としての念仏者、仏弟子としての定義。条件としての称名念仏。「ただ、南無阿弥陀仏」であったりする。しかしながら、私的には、今日の法事に参加して居られた人達全てが念仏者であり、仏弟子である、という確信の認識。疑いは失礼の私の修行不足である。
「みんな、本当は南無阿弥陀仏と念仏申したいんや!」と、実はキライな先生に教えて頂いたので。え~。。。○○先生、演歌っぽい(笑)私は○○先生の、えーい面倒だ。延塚先生の演歌っぽい所がキライである。授業サボって法話を聞きに行ったが(笑)
え。。。純粋に趣味の問題です。私の限界です。
しっかし、『定義』って面白い。ホンマに「誰が決めるねん?」という話である。「誰に決める権限があるねん?」であり、「誰に奪う権限があるねん?」である。
人間の定義しかり。
最近、某機関誌を読んでたら、原発事故に関して「悪人を作ってしか生きて行けない私たち」みたいな文章があった。誰が書いたのか知らない(載ってても忘れてます)のだが、「おお!」である。あまり勉強しない私にとっては久々の「おお!」である。
昨夜、録画していた『朝まで生テレビ』を観ていた。ああいう分け方もどうかと思うのだが、まあ、テレビ的演出手法なんだろうが、『原発推進派』と『原発反対派』に別れての討論。
結構、面白かった。特に、『今まで与党だった原発推進派の人達』の意見が非常に参考になった。やはり、今回の原発事故に対して『より多くの』という言葉を付け足すが、責任を感じて居られるのは、いわゆる推進派の人達である。自分達がやって来たことであり、かつ、これからも出来れば進めたい事だからなんだろう。
先に『与党だった』と書いたが、やはり与党の責任なんだろう。そういう意味では、反原発、脱原発の論客は、これから与党になって行く事になるのだが、イマイチ、弱かった印象を受ける。
「天皇制に反対する人は中共の工作員である」とは笑い話の妄想にしか過ぎない。
同じく、え~。。。今日の私もそういう風に見られていたのかも知れないが、「脱原発路線に対して批判する人は、電力会社や推進派の工作員である」というのも笑い話の妄想にしか過ぎない。
え~。。。椅子に座ろうと思ったらケツから転けた。。。
戦争中には戦争中の正義が絶対であり、戦後は別の正義。原発行政の中での正義もあり、その神話が崩壊したら、別の正義が。
そういう中での原発労働者の問題。
先日の朝生の中でも『推進派』の席に座っていた医師でさえ、今の福島原発での労働者に対する扱いは「国家による犯罪である」と。
正義が変われば価値観が変わる。その価値観の中で「あんなヤツなんて」というのが、最末端の原発労働者の実体ではないのか?
あ、泥酔でふ。明日、御参りはないので。
時代の流行(りゅうこう)の正義だったり、定義は仮のものではないのか?しかしながら、そういう『仮』のものを『真』であると思い込んでしまう色眼鏡をかけてしまっているのが実体ではないのか?
【ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。(中略)
形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれども唯一「幼な児の涙」という被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。】(尾畑文正『親鸞への旅』より)
多分、尾畑先生とは意見が違って来るのかも知れないが、私は、『反原発』『脱原発』という時代の流れの中で敵視される人達に思いを馳せる。
「戦略的にまだ早い」でも構わない。「それは反動に繋がる」でも構わない。私の課題でしかないし。
最近、娘に対してよく怒る。「それはアカンって。」なんぞと。成長の証であり、元気の証であるのだが、「アカン!」と怒る事が増えて来た。「○○して!」なんぞとも。
所詮、ワガママでしかない。「早く寝な、明日しんどいって」なんぞと言ってしまうが、「早く寝ろ」という私の都合である。大好きな、大切な娘に対してもワガママを押し付けているのが私の生活実体である。
あ、早く寝ないとイケナイのは私の方やな。
俺らは、いのちの血祭りじゃー
て川で叫んではったよ、、、、、
そん時にフジオちゃんが、
ロックは規格外~
俺のレコードにJISマークはいらねえよとか
言うてたから、それ以来私にとって
ロックの定義は規格外デス
けど、「ロックは規格外」って、エエ言葉ですね。規格外野菜とかのイメージで(笑)