坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

青春は大変である

2009年03月26日 | 坊主の家計簿
 3月26日

 外食  かき揚げ蕎麦      294円
 食類  諸々          605円

 合計              899円
 3月累計          93731円

 雑用、雑用、また雑用。

 先日買ったSANYOデジタルムービー(http://www.sanyo-dsc.com/products/lineup/dmx_cg9/index.html)をいじる。
 説明書を読みながら、諸々実験していたのだが、脳味噌が疲れるのぉ。。。

 新しい事をする事は大変でっせ。

 以前に和田先生という大谷派の長老が、「最近は『妻』とか『家内』とか『奥さん』とか使ってはいけないようです。大変な時代になって来ました」と語られていた事を思い出す。
 そりゃ、そうだろう。当時の和田先生は70台だったはず。70歳も過ぎて、っちゅうか、その前からなんだろうが、それでも結構な年齢を生きている中で、「家内とか妻とか奥様という言葉は女性差別に繋がるので使ってはいけません」なんぞと云われたら、そりゃ大変でっせ。

 それでも、問われる。問われる事は常に大変である。その大変さを楽しそうに語られていたのが印象的である。

 日本の保守化というが、別に2大政党の政治状況だけでなく、基本は『問われる事』ではないのか?
 問われる事から逃げたい、避けたい、だから問われる事はイヤ。
 戦争責任でも、戦後の責任でも。
 他の様々な差別の問題にしても。

 「解ってしまう」という事は、自他の可能性を殺してしまう。

 でも「これはこうだ」とやはり決めつけてしまう。

【ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。(中略)
 形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれども唯一「幼な児の涙」という被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。(中略)
 ともかく、生きていることが苦しくてやりきれない現代のただなかで、そういう現実を無視してうちたてられようとする人間的主体(自己)の確立の思想を拒絶するところから、私たちの新しい信仰生活が始まるのではないかと思うことしきりの今日このごろである。】(尾畑文正『親鸞への旅』P104~105より)

 『出会い』は常に大変である。

 『変』=『チェンジ』
 チェンジし続けて行く。変わり続けて行く。

 固定化し、決めつける自他を問い続ける道。

 だから、和田先生は死ぬまで若かった。