坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

いやしきものの復習

2009年03月10日 | 坊主の家計簿
 3月10日

 雑費  レモンティー      120円
     缶ミルクティー     120円
     中華         2000円
 外食  豚味噌らーめん     750円

 合計             2990円
 3月累計          34590円

 学習会。なんだが、昨晩の酒がしんどい。。。
 んが、ラッキーな事に事務局(事実上の責任者)が「少し遅れます」との事だったので、余裕をこいて少し遅れて行く。え~。。。嘘つきめ(笑)15分遅れで到着したら、殆ど揃っとるやんけ。普段でも30分遅れぐらいでないと始まらん会と違うかったんかい。。。
 と云う事で、学習会に参加。
 
 今回は

【僧ぞ法師のその御名は とうときこととききしかど 提婆五邪の法ににて いやしきものになづけたり】

 っちゅう親鸞の和讃。

 ちょっとだけ復習。


 @僧

【「僧儀」というのは、日本では身分を表すことです。日本の身分制度の一番基礎になるのは僧か俗かです。しかもその僧の身分にしても俗の身分にしても、天皇より与えられ、定められるものです。そういうことを承元の法難の時にはじめて聖人は知られたわけです。僧といっても、それは身分のことだったのかということです。親鸞聖人は、身分としての僧ということは思っておられなかったのですけれども、現実としては、僧は身分であると知られたのです。それで改めて自覚としての仏弟子の名を、わざわざ「愚禿釈親鸞」と名告られたわけです。】(竹中智秀先生『浄土を本国としてこの世を生きる』249頁より)


 @提婆五邪の法

【『大集経』の五十一(巻五五)に言わく、「我が滅度の後、初めの五百年には、もろもろの比丘等、我が正法において解脱堅固ならん、初めに聖果を得、名づけて解脱とす。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん。白法隠没せん」と云云。この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒定慧の三法堅固に住することを得ん。すなわち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺已後は並びにこれ末法なり。】(真宗聖典361頁より)

【念仏は易きがゆえに一切に通ず。 諸行は難きがゆえに諸機に通ぜず。しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもって本願とせば、貧窮困乏の類は定めて往生の望みを絶たむ。しかも富貴の者は少なく貧賎の者は甚だ多し。もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定めて往生の望みを絶たむ。しかも智慧の者は少なく愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願とせば、少聞少見の輩は定めて往生の望みを絶たむ。しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願とせば、破戒無戒の人は定めて往生の望みを絶たむ。しかも持戒の者は少なく破戒の者は甚だ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
 まさに知るべし、上の諸行等をもって本願とせば、往生を得る者は少なく往生せざる者は多からむ。しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せむがために、造像起塔等の諸行をもって往生の本願となしたまはず。唯称名念仏一行をもってその本願となしたまへるなり。】(法然『選択本願念仏集』岩波本52~54頁よりより)

【竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、太上天皇諱尊成、今上諱為仁聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。
 これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。】(真宗聖典398~399頁より)

【問う。諸経律の中に、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なお爾なり、いかに況や無戒をやと。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして自らもって傷まんや、と。答う。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗誰か披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘あらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰が信ずべきや。】(真宗聖典362頁より)

【仏教を学んでいると世間を軽蔑してしまう。家族を養う為に一生懸命頑張っている人を、「俺はあんなヤツ等とは違うねん」と誇ってしまう。そういう時に先生が「君自身が一番仏教が解ってないよ」と言ってくれる先生を持つ事大事】(え~。。。龍樹『十住毘婆沙論 巻の第四 調伏心品 第七』のテキストに書いてあるメモやねんけど、多分、狐野先生が語りはった言葉の聞き書き。)

【愚禿というのは、これは凡夫ということです。凡夫というのは、如来、仏によって見出された者の自覚であり、名告りです。煩悩具足の凡夫、罪悪深重の凡夫と、仏によって見出された自分自身のことですから、仏との関係の中ではじめて自分自身を知らされて、自覚していく、そういう問題をはらんでいるのが愚禿ですから、当然「釈」なのです。
 なぜなら、煩悩具足なるが故に罪悪深重である凡夫が、仏の弟子として、仏の教えに示され、本願念仏の仏法によって、念仏者となって、仏になっていくことができるという、そういう大きな自覚と喜びの中での名告りとしての、愚禿釈親鸞であるからです。】(竹中智秀先生『浄土を本国としてこの世を生きる』249~250頁より)

 
 @発表者の超訳

【国家が名付けた僧侶とは、仏者を指すかと思いきや
 得手勝手に法を説き、仏道破壊を旨とする。】