坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

怨霊の横領

2008年08月30日 | 坊主の家計簿
 8月30日

 外食  かき揚げ蕎麦      326円
 食類  地鶏せせり       273円
     むき海老         98円
     餃子          138円
     しば漬け        128円
     マーガリン       158円
     もやし          29円
     キャベツ4分の1     40円

 合計             1190円
 8月累計         170417円

 明日は休み。部屋でマッタリと。
 テレビでやってた『インデペンデンス・デイ』を見る。
 
 「ウイルス注入完了!よし、攻撃命令だ!」
 「ダメです。攻撃が効きません。作戦は失敗のようです。」
 「何?何故だ、何故ウイルスが効かないのだ?」
 「ひよっとして。。。宇宙人はMacユーザーかも知れません。」

 と、見ながら、ふと思う。

 恩師から勧められた『井沢式「日本史入門」講座」を4巻まで読み終える。感想メールは、今度出そ。
 この本も突っ込み所満載。
 一例では、『天智天皇』の『天智』という言葉が不吉な言葉であると云う事を森鴎外の本から立証してはるのだが、森鴎外説が間違ってたらどうしまんねん。当然、井沢氏は学者でなく作家なので「面白ければ別にエエやんけ」なのかも知らんが。

 とは云え、『怨霊』に関して書かれてあり、その視点から日本史を読むと云うのは、別に井沢氏だけではないが、井沢氏も書かれている様にかなりの影響があったらしい。
 確か、ファミコンソフトで『源平合戦』のもんがあって、やらなかったのだが、確か怨霊がやたらと出てくるゲームだった記憶がある。それくらい、怨霊というもんにビビりまくっていたのだろう。
 というか、今はなんでも『地球温暖化』で、「ゲリラ豪雨も地球温暖化が原因」なんぞという声もあるが、あれが『怨霊』だったみたいな感じなんだろう。
 「この豪雨は菅原道真の怨霊に間違いない」なんぞで、天満宮を造ったりしたのだろう。

 『怨霊』という考え方は仏教にはないと思うのだが、でも、仏性はある。やはり「やっぱ、菅原さんには悪い事をしたよなぁ。。。」と、豪雨でもって気づく事が出来たら、それはそれでエエのではないかとも思う。
 んが、だったら、別に神社なんぞを建てて祀る事ではなく、「やっぱ、こういう事って、アカンで」と。
 例えば、井沢氏も本の中で指摘して居られたが、死刑囚の最終決断は法務大臣である。ん?名前、変わってないやんな。法務大臣がハンコを押す事によって死刑囚が死刑になる。よって、ハンコが押し難い。まあ、機械みたいにバンバン押す人もいるが。「押し難い」というのも怨霊信仰が元にあるのかも知れない。まあ、仏教徒の法務大臣は違うだろうが。
 「菅原さんには悪い事をしたなぁ。。。」なら、「二度とやらない」と誓うべきではないのか?当然、ナマモノの人間がそう簡単には行かないが、例えば

【政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し】(日本国憲法前文より)
 
 であり、
 
【われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。】(日本国憲法前文より)

 である。

 天満宮なんぞを造って「祟らんといてな」ではなく、慚愧し、その為に働きかける。
 天満宮を造るのであれば、「菅原道真氏に対してした事を私たちは決してしない」という誓いの場にすべきではないのか?

 しゃて、靖国神社。
 靖国神社には『遊就館』という施設がある。東京に行かれた際には、絶対に行くべき場所である。
 遊就館には人間魚雷や、戦車なんぞの展示もあり、まあ、私には戦争を賛美している様にしか思えない。
 決して、「二度とあなた達の様な戦死者を作り出しません」には思えない。

 靖国神社は宗教である。習俗ではない。あくまでも宗教でしかない。
 神社神道は自然感情ではなく、宗教である。

 半分、笑い話なんだが、イスラム圏で「イエス=キリスト』と云うと殺されるかも知れない。『キリスト』は『救世主』であり、当然、イスラム教で『イエス』は『キリスト』ではないのだろうし。ユダヤ教でも、そうなんだろう。

 神道と、仏教は、『違う宗教』である。歴史的に同じだった経緯もあるが、違う宗教である。
 宗教には当然、宗教観がある。
 靖国神社では英霊なんだろうが、仏教では英霊ではない。浄土には英霊は居ない。

 当然、様々な信仰を持たれておられる方々が居ても当然だと私は考える。また、その宗教をして居られる方々に対する敬意もはらうべきだとも考える。
 よって、例えば「大峰山の女性差別は時代遅れである」という理由でもって登山靴を履いて話し合いに行く事や、8月15日の靖国神社で南無阿弥陀仏の旗をもって抗議をする事は、その宗教に対して信仰を持たれている方々に無礼だと感じる。それは靖国神社が遺族感情を無視して『英霊』として祀っている事と根は同じではないかと考える。

 宗教は自由に選べる時代である。
 自由に選んでイイのだ。
 なければ、なくても構わない。
 けど、まあ、ある意味、仏教って無宗教なんだが(笑)

【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(釈尊)