坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

そのまま

2008年08月04日 | 坊主の家計簿
 8月4日

 食類  巻き寿司         200円
     イカさし         100円
     うどん玉2         56円
     茄子           158円
     エリンギ          48円

 合計               562円
 8月累計           35683円

 『陰日向に咲く』(http://www.kage-hinata.jp/index.html)を見る。
 クサい。宮崎あおいちゃんは変わらず素晴らしかったが、映画としてはなぁ。。。
 ついでに『陰日向』である。まあ、この映画は『陰日向』なのかも知れんが、それでも一生懸命に作った人達が居てるのだろう。よって「この映画こそが『陰日向』だろう」と云われると腹が立つだろう。この映画製作に関わった人達は腹が立つだろう。
 この映画にはそれがない。反骨精神がない。自分達が関わった、という主体がない。
 多分、映画の評価も悪いだろう。だが、製作した人が「この映画自体が『陰日向』である」とはならないはずである。
 そのくせ、この映画のタイトルは『陰日向に咲く』である。
 「舐めとるんか、われ?」である。
 「何を世間に自分の評価を売り渡しとるねん、ボケが。」という話でしかない。よって、『駄作』とも呼べない論外である。
 それは「私は世間からは『陰日向』と呼ばれてますが、私だって一生懸命生きているのです」ではない。先にも書いたが、この映画製作に関わった人達は、この映画こそが『陰日向』である、と呼ばれたら腹が立つであろうという精神がない。

 『仏天』という言葉を思い出す。
 まあ、
 『われら、一向に念仏を申して、仏天のもと、青草びととなりて、祖聖に続かん』(信国淳)
 という言葉を教えて貰ったからなのだが。
 仏天に『陰日向』なんぞない。あり得るとしたら、自分でそう思い込んでいるだけの話でしかない。つまり、「私は陰日向者です」等とアホな価値観を真に受けて、それを自分の中に取り込み、つまり価値観を支配されて、自分が『生きている現実』でなく、世間の価値観に魂を売り渡し、「私は陰日向者です」と腐っているだけの話でしかない。そして、そんな人生が面白いわけがない。

 連ちゃん遊びの疲れも癒え、夏休みの計画。
 今年は長野県に『石の鐘』(http://www.emori.com/sukoburu/ishinokane.htm)を見に行く予定。
 『石の鐘』とは、まあ、リンク先を見てもらうしかないのだが、日本の珍百景である。『ナニコレ珍百景』に登録されているかどうかは知らんが、かなり珍しい景色である。なんせ寺の鐘つき堂に大きな石がぶら下がっているのだから。
 なにやら、この寺のお婆ちゃんがかなりアナーキーでパンクな人らしい。で、戦時中に寺の鐘が国家により奪われた無念の気持ちを忘れない為に、いまだにずっと大きな石を吊るしているらしい。
 これは見たい。一度見てみたい。
 
 どうでもエエねんけど、『無力な念仏』も『力強い念仏』もあるわけがない。念仏は念仏でしかありえない。あり得るのは『こちら側の都合』だけでしかなく、『こちら側の都合』で戦時中でも、今でも念仏は利用されているのではないのか?それが一番危険な事ではないのか?
 「この念仏は無力で、この念仏は力強い」等は人の都合でしかない。人の都合からの解放が念仏ではないのか?なら、『無力な念仏』も『力強い念仏』もあり得るわけがなく、「あり得る」と云う人は単なる『仏様』ではないのか?念仏を使った人間の価値観、つまり思想の利用ではないのか?それが右派であろうが、左派であろうが、うっとうしい話だ。戦時中での『力強い念仏』は「念仏申して国家の為に死ね」だったのだろうし。
 まあ、『こちら側』は何時だって政治利用もしたがるし、時の価値観に迎合したがるわけだ。そんなもんに従わなければならない理由は一切ない。

 あ、『どうでもエエ話』が、長引いた。っちゅうか、どうでも良く無い話なんだが。
 
 『陰日向に咲く』。
 「日の当る所」と、「日の当らない所」
 そんなものは誰が決めるねん。誰に決めつける権利があるのだろうか?その決めつけられた偏見になぜ従わなければならないのだろうか?
 例えば『障害者』という言葉がある。
 障害者には障害者として問題がない。あり得るわけがない。あり得るのは、その人を受け入れる側の問題でしかない。だから『青い芝』と云う過激な障害者解放運動の影響を受けたあるオバはんは、障害者による障害者の為の講演会で「アンタ等、自分が障害者である事を忘れたらアカンで。忘れそうになったら自分の姿を鏡に映してみい。どっからどうみても障害者やんけ。どこに卑下して、隠す必要があるねん」と。
 障害者は決して日陰者でなく、『日陰者』と云う価値観でもって、つまり「世間にバレたら恥ずかしい」だのといって隠され、別の施設に預けられたりした歴史があり、そういう事があり、で、障害者にとっては『こちら側』に問題があるのではなく、『向こう側』に問題があると。つまり、事実存在している『人』を何かのレッテルを貼る事によって、何かの価値観でもって差別し、蔑視し、隠し、あるいは堕胎するような行為が問題なのであって、それを問題にしていく、いや、別に問題にしなくても、『外出』するだけで、つまり日陰者が『日の当る所』に出るだけ、世間に出るだけでもって、その行動自体が世間に問題提起する事になる。

 沖縄・読谷村にチビチリガマ(http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/okinawa/senseki/chibichiri.htm)という洞窟(ガマ)がある。
 ここにはまだ集団自決した人達の遺骨が残って居る。全てを回収したわけではないそうだ。とはいえ、行ったのが10数年前になるから、今は知らん。
 たまたま、当時の恋人と沖縄旅行で行った時に寄っただけなのだが、たまたま別の団体と一緒になり、ついでに案内して貰った。何やら説明をしていた知花昌一氏曰く「ここは隠された歴史である」と。もろ、戦時中の記憶が生々しく残って居る場所である、と。

 『石の鐘』。アナーキーでパンクな婆ちゃんが残して呉れているから今もある。
 別に隠す必要もなく、『そのまま』ある。