坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

無自覚な信仰

2008年08月27日 | 坊主の家計簿
 8月27日

 外食  回転寿司        504円
 雑費  グリーンティー     320円
     居酒屋        6555円

 合計             7379円
 8月累計         156520円

 酒、弱なったのぉ。。。
 昨日も終電まで飲んでたのだが、スタートは20時過ぎ。24時前まで飲んでたのだが、23時頃からはカンパリソーダで酔いを醒しつつ。
 今日も所用で外出。19時頃から飲み出して、22時にはしんどい。
 まあ、40になったし、19時から朝まで飲むのは無理か。っちゅうか、そんなに飲まんでもエエやんけ、っちゅう話でもあるのだが。

 全く関係なく。
 葬儀。今はやる事が当り前であり、また多くの人が仏式での葬儀をされている。当然、『仏教徒』であるから仏式の葬儀をするわけだ。
 だが、誰かが死んで、昔の京都なら化野や、鳥辺野のなんかに死体を置く。あるいは土葬したり、火葬したりする。その時に例えば花なんかを供えたり、あるいは心の中で感謝の意を現したりする。それだけでも葬儀である。
 寺や葬儀会館なんぞで僧侶を呼んでやる『のも』葬儀であるが、葬儀なんぞの概念は幅広い。
 今でなら病院で亡くなられる方が殆どだが、病院から火葬場に直行するのも葬儀である。亡くなられた時に病室で花を供えたり、涙を流したりするのだろうし。
 別によくいわれる『いわゆる葬儀』だけが葬儀ではない。

 当然、日本には『死は穢れである』という概念があり、穢れを祓う為に活躍した宗教者も多いが、親鸞は「賀茂川に捨てて魚の餌にしろ」だし、葬儀なんぞ全く望んでいない。
 法然は遺言で
【孝養のために、精舎建立の営みをなすことなかれ。志あらば、おのおの群集せず、念仏して恩を報ずべし。もし群集あれば闘争の因縁なり。】
 と、これだけを読むと、いわゆる葬儀を望んでいるとは全く思えない。
 だから法然の弟子たちは念仏相続としての仏事をした。

 仏式の葬儀。当然の事ながらやりたい人はやればイイだけの話である。
 やりたくない人は宗教者抜きでやればイイだけの話である。
 当然の事ながら、死は穢れではなく、穢れでないのであれば穢れを祓う必要も全くない。
 仏式で葬儀をやらなくとも、何ら宗教者が居なくとも、間違いなく『怨霊』になる事はあり得ない。怨霊なんぞ居ないのだから。
 何ら、一切問題がない。
 あるのは世間体だけである。
 
 世間体と宗教は全く違うものである。
 最近考えた笑い話なんだが、誰か親族が亡くなる。葬儀社の人がやって来て「宗派はどこですか?」と。田舎なんぞに電話してどうやら真言宗である事が解った。葬儀社の人から紹介された真言宗の御布施が高額であった。
 「残念でしたね。真宗なら最安値の御布施で済むのですが、禅宗や真言宗は御布施の相場が高いんですよ」と、葬儀社の人。
 「クソ!なんでやねん。俺の家系は呪われているのか?」と、遺族。

 当然、笑い話のネタである。
 だが、信仰を持たれていない人の実感であるような気もするのだが。
 
 当然、宗教なんである。基本は宗教なんである。
 御自分が信仰している宗派があり、寺がある。そこの僧侶に来て貰うにあたってのカンパである。
 ちなみに『布施』は『笑顔』でも布施である。金銭で限定しているのなら、んなもんは『支援カンパ』というのが一番解りやすい。

 支援カンパ。当然、その団体に支援したい気持があるから支援するのだろう。
 「私は真宗大谷派の教えを信仰している。故に真宗大谷派に対してカンパするし、また、○○という僧侶、○○という寺に対してカンパしたいから葬儀を御願い致します」
 というのが基本である。

 真言宗等の布施の相場は高いが、信仰があれば当然の事である。それが宗教である。
 「支援したい」という気持がなければ、当然の如く、「なんでこんなに高額な布施を払わんとアカンねん」でしかない。
 そして、主に都市部新興住宅街に住まれて居られる方々なんぞはそうでしか無い場合が多いのではないのか?
 具体的なら葬儀社を通じて紹介してもらった『家の宗派』の僧侶に対する布施。
 不満が出て、当然である。
 単純な話である。
 信仰がないわけなんだから。家族がなくなって田舎に電話して自分の信仰を聞くのは本来、笑い話でしかない。
 まったく、自覚がない信仰なんぞあり得ない。それは単なる習俗である。