エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

すずらん

2015年04月25日 | ポエム
スズランの花言葉は・・・。
「幸福が訪れる」「純潔」「純愛」「繊細」「優雅」である。



スズランは、結婚式の良く似合う花である。
英国王室の婚姻儀式では、スズランが使われることも多いのだと云う。

スズランが咲き始めると、ぼくは八ヶ岳の麓が無性に恋しくなる。
とりわけ北杜市は、スズランの里である。



甘く匂う。
この花を通り過ぎるだけで、鼻孔が甘く染まる。







「スズラや小顔美人の白き肌」







だからと言っては、余りにもハマりすぎて恐縮だけれど・・・。
この歌が良く似合うのである。



慕 情  佐藤しのぶ UPC‐0095






スズランは正しく、春のニンフである。
しかして、小顔美人である。




      荒 野人

再び貝母(ばいも)

2015年04月24日 | ポエム
今までは、白系の貝母しかお見せできなかった。
今日は、赤系の貝母をお見せしよう。

優れもの・・・といったら言いだろうか!
色彩の魔術とでも云う、しっとりと落ち着いた色合いで見せてくれるのである。



年に数回はお目もじできる貝母である。
けれど、見ようとして出かけないとお目にはかかれない。







「抱き竦む赤き貝母の俯ける」







普通は、この色合いである。
これなら、誰もが一度は出会っているのだろうと思う。



だがしかし、こうして花に出会えるのは幸せである。
色は違えど、どれもランプ・シェードに使いたい姿形である。



白は楚々としているし・・・。



赤系は、白系よりもほんの少し自己主張している。
控え目な自己主張が好もしいのである。



        荒 野人

蕊降る

2015年04月23日 | ポエム
桜の季節が終わり、葉桜へと移行する。
そのほんの束の間、蕊降る候が自然界を訪なうのである。

舗道を染め上げ、時として人の肩にも降りかかる。
なまめかしい一瞬である。



見上げても、俯いても・・・蕊の赤が飛び込んでくる。
それもまた楽しい。
確かな自然の歩が感じ取れるからである。







「蕊降るやバギーの母子の心径」







桜の樹の下と、空を仰ぐ空間とでくっきりと道路が分たれる。
面白い現象であるけれど、春の嵐の後ではこうはならない。

しかしながら、蕊だと云いおいてはいけない。
森羅万象の役者の一人である。



この季節。
束の間の季節は、確実に心象風景の中に在る。



      荒 野人

紅みつまた

2015年04月22日 | ポエム
紅三椏の花と久しぶりに出会った。
もう少し早ければ、もっともっと綺麗だっただろうと残念である。



花は、そろそろ終りである。
さかりの美しさの、残滓と云った感じであろうか。

けれども、黄色の三椏よりも鮮やかに色彩が残っている。
そこが健気である。







「三椏の花赤々と備えたる」







この紅三椏は、神奈川県の城山という地区の里山にある。
ぼくたちが目にする三椏は、黄色だけれどこの三椏は赤い。
この樹皮が、和紙の原料として優れているかどうかは浅学にして知らない。

けれど、紅三椏が少ないところを見れば「それほど品質が」優れていないのかもしれない。



とまれ、あたかも「赤備え」のようでもあり神経が鼓舞される赤である。
徳川家康の家臣団でも「井伊の赤備え」は有名だし、あの真田幸村も「赤備え」であった。

赤は、目立つし強さが増幅される。
言い換えれば、突出して見えるのである。

赤は、面白い。



      荒 野人

レンゲ

2015年04月21日 | ポエム
レンゲの、ほのぼのとしたピンクが良い。
レンゲは子どもの頃の、温かい思い出である。



誰が何と言っても、レンゲはレンゲである。
ゲンゲとも云うけれど、レンゲである。



レンゲ畑がだんだん少なくなって、田んぼのそこここに咲いている程度となってしまった。
これも農薬の功罪である。

以前は、レンゲの種を蒔いたものだ。
レンゲが肥しになって、田を豊かにする。







「儚きやレンゲの色の仄々と」







レンゲの花言葉は・・・。
「あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ」「心がやわらぐ」である。



かつての豊かな農作業が、蘇ってくることを祈る。
機械化が進み、農村は荒廃した。
そして「田園は正に荒れている」のである。


「手に取るなやはり野に置け蓮華草」

遊女を身請しようとした友人を止めるため、江戸時代に「滝野瓢水」が詠んだ俳句である。
蓮華(遊女)は野に咲いている(自分のものではない)から美しい。
だから、自分のものにするとその美しさは失われてしまうという意味だ。
転じて、そのものにふさわしい環境に置くことがよいというたとえとして使われるのである。



放置された水田。
段々畑の荒廃。
田園風景が無くなっている。

いま正に交渉が進むTTPは、国際競争力の美名の下に日本の農を破壊する。
TTPへの参加が間違っているのではない。
そのバックアップ体制の整備が進んでいない現状では、農の破壊だと言っているのである。

レンゲの儚さに、夢を見続けたいものである。



       荒 野人