ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

年初のご挨拶・文豪短歌

2024-01-18 | 雑読日記(古典からSFまで)。
 令和6年は、「おめでとう」という言葉で迎えられない年明けになってしまいました。被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げます。また、救助・捜索・医療および復旧活動にあたられている関係者の方々に感謝を申し上げます。






 前回の更新から、年をまたいで一ヶ月以上が過ぎているので、このかんの近況を申し述べると、師走の前半はもっぱらyoutubeで宇多丸さんの映画時評を聞いていた。前回の記事で書いたとおり、劇場映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がきっかけで宇多丸さんのレビューに初めて接し(これまで映画批評家としての令名は耳にしていたものの、レビューそのものにふれたことはなかった)、その該博な知識と見識の高さに一驚して、youtubeに上がっている口演を片端から聴いていったわけだ。そのほとんどがTBSラジオの番組内で放送されたものなのだが、公式にアップされているものとは別に、ファンの方が過去の音源を録音したものも含まれており、かなりの量になっている。ぼくは近年、まるっきり映画に疎くなってるもんで、大半が未知の作品なんだけど、聴いてるだけで面白く、おおいに勉強になった。
 なにしろ本業がラッパーだから口跡がいい。加えて内容も、そのまま書籍化できるくらいのレベル。たいした才人である。それにしても本物のシネフィル、シネフリークってのは大変なものだ。こういった方々に比べれば、「近年」どころか、これまでの全人生において、ぼくなどは映画をまるで観てないに等しい。
 批評ってものは、「基本的にはストリートに足場を置きつつ、アカデミックなところもきっちりと抑えている。」たぐいのやつがいちばん面白いのだが、宇多丸さんのはまさしくそれだ。ぼくにとっての同時代最良の映画レビューアーはこれまで菊地成孔さんだったが、2023年の12月をもってそのポジションは宇多丸氏にかわった。
 そんな塩梅で12月前期の余暇は潰れていったのだが、年末が近づく頃には映画の話にも飽きてきて(ぼくはたいそう飽きっぽいのである)、こんどは短歌に入れあげていた。この件は、「ゲゲゲ」の記事のさらに一ヶ月まえ、AIさんとやった短歌の話につながっている。
 もともとぼくは短歌好きなのだ。高校3年くらいだったと思うが、本屋で見つけた角川文庫の『寺山修司青春歌集』がきっかけで(180円だった)、ノートにちょこちょこ自作の短歌を書くようになった。そのころは小説は書いてなかったし、書けるとも思ってなかったので、課題で出された作文以外で自ら「創作」に手を染めたのは短歌が最初だったということになる。いや、だからどうってこともないんだけども、ようするに自分はかなり昔から短歌が好きだってことを言いたかった。
 あのときの記事では、ネット上で発見した「菫野」さんのことを賞賛していたが、そのあと菫野さんの発表される短歌は、ぼくの好む文語調が薄れて、口語体の作品が多くなってきた。それで、自分としてはいくぶん興味が褪せてしまった。勝手に入れあげて勝手に醒めてるんだからいい気なもんだが、ほんとにどうにも、ぼくってやつはつくづく飽きっぽいのである。
 菫野さんは、「いやしの本棚」というアカウント名でX(旧ツイッター)をやっておられる方が短歌を発表する際にお使いになる筆名である。短歌のことを別にしても、「いやしの本棚」は読書サイト、美術サイトとして愉しい。
 その中で、菫野さんが影響を受けた歌人のひとりとして、水原紫苑の名が挙がっていた。こちらはプロの歌人である。現代短歌を代表する一人だ。
 水原さんのことは、ずいぶん前からアンソロジーで知っていて、気にかかってはいたのだが、歌集をきちんと読んだことはなかった。そもそも歌集というのは高価であり、小さめの書肆から少部数で発行されるものであり(『サラダ記念日』はとてつもない例外である)、手に取る機会はなかなかない。
 ほんとうは、第一歌集の『びあんか』と第二歌集の『うたうら』を読みたかったが、入手が難しいので、「深夜叢書社」というところから出ている『水原紫苑の世界』なる書籍を、3000円を超す定価だったため相当に迷ったんだけど、とりあえず購入した。巻末に、「水原紫苑自選五百首」として、これまでの全歌集の中からご自身が選りすぐった500の歌が載っている。
 それらの歌に触発されて、ずいぶんと久しぶりに、自分でもちょっと詠んでみた。一首のうちに文豪の名前を織り込みつつ、彼らの作品に対する自分なりの批評を試みたものである。
 こんな感じだ。








 辿り来て幽冥境に至りなば泉の鏡に映る花影






 夏の夜の夢覚めやらで草枕 猫目石(キャッツアイ)にて漱(くちそそ)ぐ朝






 鷗立ち立つ海原、かのやうに森の外(と)あはれ舞姫の舞ふ






 ものかたり蒐めて昏き淵となり芥の川に龍も棲みける






 百の鬼 内に犇めく園なれば冥途の道もわづかな閒(あいだ)






 宮くぐり沢を渡りて賢しくもこの地治むる星に見(まみ)ゆる






 稲の穂の足るゝ歌垣ゆたかにて星と暮らせし一千一秒






 大宰府の治者失格を宣せられ黄泉へと流る、桜桃もなく






 綾錦 花野潤い谷ふかく崎はするどくそそり立ちける






 この川を渡ればあの世その端の隧道くぐれば雪國ならむ






 三木(さんぼく)に三鳥、三草、三嶋と、幽鬼の翁より伝授を受けぬ






 かの村の上より来たる春風にノルウェイの森の樹々らも揺れて










 こういう独り遊びをしていると、時間なんてあっという間に過ぎていく。おカネは掛からず、しかも愉しい。そんなぐあいにわたくしの2023/令和5年は暮れていったのだった(いや、これはあくまで遊び時間の話であって、ほかにいろいろやるべきことはやってますけどね勿論)。






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