もう1つのテーマ「ここではない何処かへ。」を担うもう1人の主人公が、玉木マリだ(愛称はキマリ。CV・水瀬いのり)。
報瀬はいわば「裏の主人公」であり、表の主人公はキマリである。彼女の担うテーマのほうが、10代の若者にとってはより普遍的だし、彼女のキャラも、報瀬よりも親しみやすいからだ。
文学たると映画たるとドラマたるマンガたるとポップス(ロック)たるとを問わず、「ここではない何処かへ。」は青春ものに欠かせぬテーマで、これを扱った作品は枚挙にいとまがない。いやむしろ、このテーマに関わりをもたない青春ものを探すほうが難しいだろう。
「ここではない何処かへ。」とは、ほぼ「青春」と不可分一体の初期衝動ではあるまいか。
たとえば谷川俊太郎の詩「GO」の冒頭8行、
さあ。いこう。何処へいこう。
と 我が友詩人の藤森安和君は云った
さあ いこう
ひとまずいこう とにかくいこう
ここはしめっぽい ここはくさっている
ここはごきぶりで一杯だ ここは顔のない他人で一杯だ
ここはいかさない
だからいく いくんだ とにかくいく
あるいは、ランボーのあまりにも有名な詩句、
俺たちの舟は、動かぬ霧の中を、纜(ともづな)を解いて……
とか、
俺たちは清らかな光の発見に志す身ではないのか?
季節のうえに死滅する連中から遠く離れて
などが典型的だ。五木寛之の小説で、「青年は荒野をめざす」というのもあった。10代半ばくらいの齢で、こういう詩句を見て何となく体がアツくならない人はちょっとどうなんだろうと思う。ま、アツくなったからってどうってこともないわけだけど。
キマリのばあい、「ここではない何処かへ」行きたいという思いは心の底に強くある。その延長として、「青春、したい。」という思いもある。だが、いざとなると「怖くなって」しまい、どうしても一歩を踏み出すことができない。そんなふうなまま高2の日々を過ごしている。
お話は、キマリがベッドで惰眠を貪っているシーンから始まり、そのまま彼女の視点で進んでいく。
そんなキマリが、ある日とつぜん報瀬と出会う。ガール・ミーツ・ガールだ。
クールビューティーな外見と、突っ張るだけ突っ張った物腰にも似合わず、じつは相当なドジっ子でもある報瀬は、駅のホームで階段を駆け上がっているとき、封筒に入れた虎の子の100万円を、うかつにも鞄から落としてしまう。
それをたまたまキマリが拾い(ふたりは同じ高校の同期だが、クラスが違い、それまでまったく面識がなかった)、翌日学校で返したことから、ぐんぐん親しくなっていく。
南極に寄せる報瀬の思いを聞いたキマリは、感激して、「応援するよ!」というのだが、報瀬はそれでは良しとせず、「じゃあ一緒に行く?」と誘う。
報瀬もやはり、根はふつうの高2女子であり、友達は欲しいのだ。ただ、馴れ合って毎日を一緒に過ごす相手なんかは論外だし、南極への思いをわかってくれる相手であっても、たんなる理解者ではダメなのだ。
志を同じくし、共に行動してくれる相手でなくてはいけない。ここらが非常に「めんどくさい」ところである。
いきなりハードルを最上段まで上げられて、キマリはもとより困惑するが、一晩中、悶々と考え抜いたあげく、ついに南極行きを決意する。
その決意の強さをあらわす挿話として、それまで散らかし放題だった部屋のなかを、彼女がきれいに片づける脚本が秀逸だった。
そこまでの気持になれたのは、むろん報瀬に惹きつけられたからだけど、その根底には彼女じしんの情熱が眠っていたのである。
第4話にて、訓練のためにキャンプを張った山頂の岩の上で隊長(藤堂吟。CV・能登麻美子)と向き合ったキマリは、彼女とこんな対話をする。
「どうして南極に? あの子に誘われた?」
「はい……でも、決めたのは私です。一緒に行きたいって。このまま高校生活が終わるのイヤだって。ここじゃない何処かに行きたいって。でも、日向ちゃんと知り合って、結月ちゃんと知り合って、観測隊の人の気持を知って、隊長と報瀬ちゃんのこと聞いて思いました。何処か、じゃない。南極だ、って!」
「ここではない何処かへ」という、漠然たる初期衝動にはっきりした形を与え、方向を整えてくれたのは、まずは報瀬への、そしてほかの友達と仲間たちに寄せる思いの厚さなのだった(念のため書くが「厚さ」は「熱さ」の誤変換ではない)。そのうえで、自分自身で決断した。本編の映像ではこのシーン、「南極だ、って!」と笑顔で言い切ったキマリの髪を一陣の風が揺らして過ぎる。忘れがたい名場面のひとつだ。