ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『源氏物語』について 24.01.27

2024-01-27 | 雑読日記(古典からSFまで)。

 今年の大河ドラマは、OPテーマ曲が殊の外すばらしく、それだけで、とりあえず三話まで付き合ってしまった。


◎大河ドラマ「光る君へ」| オープニング (ノンクレジットVer.) メインテーマ | NHK
https://www.youtube.com/watch?v=zjf1BNejRjc



 「ラフマニノフみたい」というコメントも見たが、それは通俗的でセンチメンタルなピアノのソロはたいていラフマニノフ調に聴こえるわけで、そこよりもやはり、特筆すべきは主旋律だろう。アート・オブ・ノイズの「ロビンソン・クルーソー」によく似ている。


Robinson Crusoe/Art Of Noise
https://www.youtube.com/watch?v=jH6lLDg2Aq0



 これはかつてFNラジオ「ジェットストリーム」のEDに使われていた曲だから、ある年齢以上の者は懐かしさを禁じえまい。作曲者は冬野ユミという方で、ぼくはこの方についてさっきウィキペディアで読んだばかりの知識しかないため、なにもわからないのだが、さほど年配ではなかろう(ウィキに年齢が書いてないのである)。とはいえしかし、「ロビンソン・クルーソー」を踏まえて作っておられるのは間違いない。この換骨奪胎はうまくいってると思う。


 それで、まあ、本編のドラマだけれども、いきなり第一話のラスト近くで主人公まひろ(のちの紫式部 演・吉高由里子)の実母(演・国仲涼子)が通り魔どうぜんの犯行によって横死を遂げる、というショッキングな展開があり、しかもその犯人は行きずりの野盗などではなくて、時の最高権力者・藤原兼家(演・段田安則)の三男(正妻の嫡子としては次男)たる道兼(この犯行時の年齢は16歳くらい 演・玉置玲央)であったという出鱈目ぶりで、「これは真面目な視聴者は怒るんじゃないか。」とぼくなんかは心配したが、のちほどツイッターをざっと見たところ、「すぐに脚本家を替えろ。」とまで激怒している方はお一人だけだった。


 「大河ドラマは現代における講談である。」と以前にぼくは書いたけれども、もっというなら歴史に材をとったメロドラマ(これは「昼メロ」みたいな軽い意味ではなく、文芸用語としての「メロドラマ」である)であって、ようするにサブカルなのだ。だから幼い子供や学生さんが鵜呑みにしたらまずいんだけど、いまどきの視聴者を惹きつけるには、これくらいのどぎつさが必要なのかな……とは思う。それでも、平安貴族が「穢れ」をいかに恐れたか、それを考えれば絶対にありえぬ……という見地からの苦言がネットの上にいくつか出ている。「いや……そこもたしかに重要だけど、道兼の名誉って点はどうなんだ。後年の所業に鑑みて、『あいつなら若気の激情に任せてこれくらいのことはやりかねん。』とでも思われてるのかな?」などと思ったりもするが、それはそれとして、ぼく個人としては妙なリアリティーを覚えたのも確かだ。


 いちおう建前のうえでは「民主主義」に基づく「法治国家」ということになっている現代ニッポンにおいてさえ、いちぶ上級国民はまったくやりたい放題で、税金はいっさい納めぬわ、公金を着服して私財を蓄えるわ、事故を起こしても有耶無耶にするわ、あたかも傍らに国民など無きが如しである。それで罪に問われるどころか、職を追われることすらない。この調子では、裏で何人ものひとを死に追いやっていてもまったく不思議ではない。まして千年前においてをや。ドラマの中では兼家の庇護下にあるまひろの父・藤原為時(演・岸谷五朗)がまひろに厳命して事件そのものを揉み消してしまう。母の死は病死にされてしまうのだ。コネとカネに裏打ちされた強大な権力の前には道理などまるで通用しない。そういったくだりに、脚本家たる大石静さんの世相に対する批評を感じた。


 時代設定が地味、出演陣もいまひとつ地味……ということで、放送前から視聴率が危ぶまれていたが、はたして、あまり振るわないらしい。ただ、その数字は昔ながらの「リアルタイム視聴」だけで、録画なども含めた総合的な数字を見れば「まずまずの健闘……」だという記事もネットで見た。いずれにしても、大河ドラマは一年という長尺であり、一大イベントには違いない。例年、出版業界でも関連本……もっとロコツにいうなら便乗本……があれこれ出るのが常だけれども、さっきアマゾンを見ていたら、ちょっと目についただけでこれくらい出ていた。


『紫式部と男たち』木村朗子 文春新書
『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』服藤早苗 NHK出版新書
『藤原道長と紫式部』関幸彦 朝日新書
『源氏物語の作者を知っていますか』高木和子 大和書房
『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』山本淳子 朝日選書
『「源氏物語」のリアル』繁田信一 PHP新書
『嫉妬と階級の「源氏物語」』大塚ひかり 新潮選書
『謎の平安前期——桓武天皇から「源氏物語」誕生までの200年』榎村寛之 中公新書
『紫式部 女房たちの宮廷生活』福家俊幸 平凡社新書
『やばい源氏物語』大塚ひかり ポプラ社
『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』倉本一宏 NHK出版新書
『紫式部と藤原道長』倉本一宏 講談社現代新書
(なおこの倉本一宏氏は、ドラマの時代考証を担当している。)



 どれも面白そうなので、もし手元にあれば目を通すが、買うとなったら大変である。本はほんとに高くなった。さほど厚からぬ新書ですら千円がふつうだ。仮にぜんぶ買ったら軽く一万円を超えてしまう。書籍費はせめて軽減税率の対象にしなけりゃおかしい。先進国はみなそうしている。これではとりわけ若い世代が書物から遠ざかるばかりだ。あげくにお笑い芸人やらIT長者やら自称なんとかかんとかの得体の知れぬ新自由主義系ウヨクらがカリスマ的なオピニオンリーダーになってしまう。言論は腐り、文化の根幹が痩せ細る。これはニッポンの将来にとっての痛恨事である。


 それはそうと、ぼくは源氏物語を全巻とおして読んではいない。原文はおろか、現代語訳でもだ。源氏の訳といえば谷崎潤一郎のものがたぶん長らくもっとも権威あるものとされてきたはずだ。與謝野晶子訳も有名だけどいかにも古い。ぼくが学生の頃には円地文子訳が「生彩に富んでいる。」と評されていたが、さっき見たら新潮文庫版は絶版で、電子書籍化もされていない。いっぽう、中公文庫の谷崎訳、角川文庫の與謝野訳は装丁をかえて読み継がれているらしい。このあたり、読み比べたことがないからわからぬが、どういう機微があるのだろうか。田辺聖子訳は抄訳だから、いまもっともポピュラーな全訳は講談社文庫の瀬戸内寂聴訳だろう……と思っていたが、よく調べると、『八日目の蝉』で知られる角田光代さんの訳が河出文庫から出ている。電子書籍版をネットで立ち読みしてみたが、きびきびした、読みやすい訳文である。読売文学賞を取っているとのこと。若い人にはこれが最適かもしれない。ほかに、さきほどの目録の中にも名のあった大塚ひかり訳もあるが、こちらはちくま文庫版が品切れ状態。


 ぼくの手元にあるのは1990年代の後半に講談社からでた瀬戸内訳の全十巻で、文庫ではなく単行本のほうだ。リアルタイムで購ったわけではない。ずいぶん後になって古書店で見つけ、そのときにはもう文庫が出ていたが、そちらをまとめて買うより安かったので思い切って買った。これを折にふれてちょいちょい拾い読みしてきた。あとは、ご存じ大和和紀さんの名作『あさきゆめみし』(講談社)。こちらはもちろん全巻、一気呵成に読んだ。それと角川文庫の『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 源氏物語』と、ほかにも入門書の類いはけっこう読んできた。そうそう。丸谷才一さんの『輝く日の宮』(講談社文庫)も忘れちゃいけない。そして、おそらく何より役に立ったのが浜島書店の『常用国語便覧』。高校教科書の副読本で、手元にあるのは2004年に出た版だが、これがまことにありがたい。図版も美麗だし、物語の梗概を詳細な年表にしてくれているのである。


 そういったていどのごくごく浅いお付き合いである。自分が源氏をろくに読めない理由は明瞭で、ひとことでいえば不愉快だからだ。好色、乱倫、傲慢、この男、あけすけにいえば色情狂だと思う。紫の上の件を思えば、あきらかに犯罪者ですらある。何をやっても許される。まさに究極の上級国民。ちなみに源氏が若紫を誘拐したのは、『光る君へ』において道兼がまひろの母堂を刺殺したのとおおむね同じ年頃だけども、甘やかされた世襲のガキの横暴ぶりという点でまさに軌を一にしている。もとより偶然ではあるけれども……。漫画『あさきゆめみし』の中でも、若紫の寝所に源氏が押し入ってくる場面はたいそう痛々しく、全編でいちばん印象が強烈であった。


 もちろん、千年も昔の物語、しかも明らかに虚構の世界とわかっている話の登場人物を今日の倫理の物差しで測るのはおかしい。それは百も二百も承知してはいるのだけれど、理屈は抜きにして読んでるだけで腹の底から怒りが込み上げてくるんだからしょうがない。とりわけ、源氏が目星をつけた女性に対してねちねちうだうだ言い寄るあたりがもう虫酸が走るくらいに厭だ。ほんとにまったく気色がわるい。「お前ちょっと額に汗して働いてみろ。お前の毎日食ってるお米は誰が作ってると思ってんだ。」と言ってやりたくなる。おまえがしょうもない色恋沙汰にうつつをぬかしてる時にどれだけの民百姓が飢えや病気に苦しんでいるか。ほんの少しでも想像力を働かせてみろ、と言ってやりたくなるのである。


 これではまるっきりプロレタリア文学批評であり、そんなことを言ってたら百人一首も鑑賞できなくなっちまうわけだが、「源氏物語」のばあい、地の文において作者の人がむやみやたらと源氏のことを手を変え品を変え褒め上げるもんで、ついついこちらも反撥しちまう次第である。あげく、作中の描写が雅になればなるほど、読んでるこちらは柄が悪くなっていく寸法で、どうにも困ったものである。


 物語論の見地からすれば、光源氏ってのはギリシャ神話でいう「英雄」、すなわち、人でありつつ半ば「神」たる存在であり、だからこそこういう書き方が行われているわけだ。そこもまた、じゅうじゅう弁えてはいるのだけども、やはり不愉快なものは不愉快だ。ところが、そういった反撥なり抵抗なりを一蹴する読み方がひとつある。河合隼雄さんによる『源氏物語と日本人 紫マンダラ』(講談社α文庫/岩波現代文庫)が提示しているもので、ここで河合氏は、たんなる物語論を超えて、ユング学徒の立場から、『「女性的なるもの」のあらゆる諸相を紫式部が自身のうちから抽出し、源氏を取り巻く女性たちに仮託して余すところなく描き切った。』という意味のことを述べておられる。


 「源氏は主人公のようでじつは主人公ではなく、狂言回しというべき存在。本当の主役は彼にかかわる女性たち」という指摘は生前の瀬戸内さんがよく仰っていたが、瀬戸内さんとも親交があった河合さんの説は、さらにそれを推し進めて、「つまり光源氏とは空虚な中心なのだ。」といっておられるわけである。「空虚なる中心」としての光源氏。それを前提として読むならば、少なくとも腹は立たないが、たとえば皆川博子さんの小説を読むような具合に、「貪り読む」という体にはなかなかならない。こちらとしてももっと修業が必要なようだ。





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