ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第7回・中沢けい「入江を越えて」その②

2016-03-24 | 戦後短篇小説再発見
 ティーンエイジでの受賞が強烈だったので、つい綿矢りさにばかり言及してしまうが、思えば同時受賞の金原ひとみもまだ当時は20歳で、二人して丸山健二の記録を抜いたんだった。「蹴りたい背中」は性的な要素をさっぱりと排した作品だったが、「蛇にピアス」のほうは、もう思いっきりセックス&バイオレンス&すっげえイタそうな身体改造。の世界で、「時代とともに爛熟していく性意識」てなことを言うのであれば、まっさきに事例(というか症例と呼びたい気もするが)として参照すべき作品であろう。
 ただ、映画版で吉高由里子が演じたヒロインの19歳女子はたいへん開けたセックスライフを送ってらっしゃるが、作中ではその手の行為がねちねちと描写されるわけではなく、さらりと小粋に流してあるので、彼女の壊れっぷりはよく伝わる一方、いやらしい感じはしない。文体は抑制がきいて的確、しゃれたユーモアも交えてある。余計なことは書き込まず、主要キャラをきっちり3人に絞った構成もいい。リアリズムの見地からみるならば、ぼくにとってこの小説に描かれた世界は1500万光年くらい遠い彼方のできごとであり、1ミリたりとも近づきたくないが、虚心にひとつの作品としてみたばあい、優れたものであるのは認めざるをえない。
 この「蛇にピアス」のヒロインの姓が、「海を感じる時」のヒロインおよび作者とおなじく「中沢」なのである。中沢けいが18歳で書いたあの処女作(ところでこの「処女作」って言い方、フェミニズム的にはどうなんだろう?)の語り手・兼・ヒロインの名は「中沢恵美子」で、この折衷ぐあいが作者とヒロインとの微妙な距離感をあらわしていた。「蛇にピアス」のほうは「中沢ルイ」である。
 1978年における「海を感じる時」の登場が吉行淳之介の評のとおり「文学上の事件」であったなら、2003年に「蛇にピアス」を書いた金原さんは、あとになってそのことを知り(なにしろ当時はまだ生まれてもいなかったもんね)、いくぶんかはそれを意識したのだろうか。それともたんなる偶然か。だけどもし偶然だとしても、そこには当事者の意図を超えた「文学史的必然」みたいなものが働いてるんじゃないか、とぼく個人は夢想する。文学の神サマによるちょっとした悪戯とでもいいましょうか。
 文学史の射程をできるだけ広く取るならば、「蛇にピアス」にぼくはまずボードレール、ついでジャン・ジュネの匂いを嗅ぎつけたけれど、もっと狭いスパンでいえば、「海を感じる時」と「蛇にピアス」とのあいだ(きっかり4半世紀)には山田詠美をはじめとするたくさんの女性の表現者がいる。それは必ずしも小説家とは限らぬだろうし、ぼくが名前を知らないひともいるだろう。それだけの蓄積を経て、ゼロ年代初頭、ついに「そっち系」の小説が芥川賞を得るまでになったかと思えば、このかんの文化史やら社会構造の変化やらの一端がうかがえて面白い。
 ただ、芸術ってものはwindowsと違って毎年更新されていくものではない。過去のものだから劣っている、とはいえない。「蹴りたい背中」「蛇にピアス」と、「海を感じる時」あるいはこの「入江を越えて」とを読み比べたならば、ほとんどの読者は「やっぱ古くさいネ」と感じるのかもしれないが、ぼく個人は中沢さんの作品のほうに、とりわけその文体にずっと豊かな可能性を感じるのだ。今回はいつもとは趣向をかえて、そのことを中心に述べていきたい。前回の末尾で「私的で我流のものになる」とお断りしたのはそれゆえである。
 いつにもまして前置きが長くなった。最初にざっくり明かしてしまうと、「入江を越えて」はひとりの女子高生の夏の初体験を描いた短篇である。舞台は「鴨川駅からバスで一時間ほど、房総丘陵の中央部に入ったところにあるキャンプ場」で、「入江」というのはそこに向かう際に彼女が電車で越えていく湾のことなのだけれど、このタイトルが「一線を越える」という慣用句を裏にひそめているのはどなたにもおわかりいただけるであろう。発表は1983年。「海を感じる時」から5年後だ。


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