ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第8回・田中康夫「昔みたい」その②

2018-11-15 | 戦後短篇小説再発見
「昔みたい」のヒロイン・兼・語り手は、典子という若いОLさんで、「大手町にオフィスがあるコンサルティング会社で副社長秘書を務め」ている。
 副社長は、「ベルギー人とのハーフで、まだ30代後半」とのことで、どうやらこの会社自体が外資系らしい。
 自宅は、「新宿から神奈川方面に向けて出ている私鉄電車で多摩川を渡ってしばらく行ったところ」。これ、多摩ニュータウンという理解でよろしいんでしょうか。80年代には、多摩ニュータウンに住むのはステイタスだった。むろん一戸建てである。父は勤め人ではなく、自分で会社を経営しているらしい。母は専業主婦。きょうだいはいない。
 「幼稚園から大学まで」の一貫校で学び、大学時代にはヨーロッパ・ツアーに行った。フィレンツェで美術館にも寄った。そういうことが当たり前になりはじめた時代だが、いくらかは時代に先んじていたかもしれない。
 婚約者がおり、結婚式の日取りも決まっている。2歳上の彼はテレビ局の報道記者で、いまはフィリピンに取材に行っている。作品中には書かれてないので補足しておくと、この少し前、フィリピンではアキノ上院議員が暗殺されて、政情が不安定となり、世界の注目が集まっていた。
 まあ、昨今の世界情勢と比べたら、日本にはぜんぜん対岸の火事で、のんきなものではあったけどね。
 裕一郎という名のその婚約者は、たぶんルックスもいいのだろう、つい昨日も、マニラ市街から衛星中継でレポートを送ってきた。テレビニュースでその映像をみた彼女は、ふと、取り残されたような気分になる。
 若い人のために念を押しておくと、当時はまだ、スマホもネットもない。
 田中康夫的ヒロインの例にもれず、この典子さんも派手ではないが恋多き女性であった。学生時代は、7歳上の勝彦をメインに、何人かの彼氏と付き合った。勝彦は輸入家具を扱う会社を経営していて羽振りが良く、聡明で優しいオトナの男ではあったが、そういう男の常として、複数の女性と付き合っていた。まあどっちもどっちである。
 だから、典子は勝彦が好きだったけれど、「結婚は無理なんだろうな。」とも思っていた。そんな折、テレビ局に勤める裕一郎と出会って、そちらに乗り換えたわけだ。この小説は典子の語りで綴られるので、「乗り換えた」なんて下世話な表現はしてないが。
 すでにお互いの両親も交えて式の日取りまで決めたくらいだから、彼女は裕一郎くんが好きなのである。それは間違いないけれど、マリッジ・ブルーっていうか、なんだか少し揺れている。事実上の遠距離離恋愛だし、裕一郎が自分とは別世界のような華々しい舞台に立ってるせいもある。
 そんなわけで、彼女はひそかに勝彦と再会し、ホテルのフレンチレストランで食事をする(明記はされないが、とうぜん向こうの奢りである)。ささやかなようでも、れっきとしたデートであり、はっきりいって浮気だ。
 このホテルにも、レストランにも、ついでにいえば、典子の通ってた大学にも、もとよりモデルはあるんだろうけど、面倒なのでその考察は略。
 とにかく、典子のその「揺れる思い」が、この短篇の主題である。
 しかしまあ、今さら言うまでもないけれど、なんとも贅沢な境遇であり、贅沢なお悩みなんである。丸山健二「バス停」(1977年)のトルコ嬢(あえて当時の用語を使う)と比べれば、天と地ほどの開きがある。それは二つの短篇のあいだの10年という歳月以上に、田中康夫と丸山健二との違いであろう。
 そういえば丸山さんはあの頃、「最近はアンノン族ふうの美学で書かれたゴミのような小説ばかりだ。」とエッセイのなかで吐き捨てていた。名前は出してないにせよ、田中康夫が念頭になかったはずはない。
 ぼくはたいへん育ちが悪くて、丸山健二寄りだから、典子さんにはとても同情する気にはなれない。お嬢さんがなんか言ってるなあ、という感じだ。
 これも明記されてないのだが、このデート、典子のほうから誘ったことは間違いない。なのに、ざっと読み流しただけだと、「なんとなく」デートすることになりました、みたいに書かれている。そんなふうに典子が語っている。ずるい。どこまで作者の計算なのかは不明だが、こういうところはうまいなあと思う。
 まあ、勝彦がなんのためらいもなくその誘いを承諾したのも確かだろうが。オトコってのは、「昔のオンナ」から「会いたいんだけど、どうかな?」と言われたら、よほどのことがないかぎりすっ飛んでいく。むろん、下心があるからである。
 もちろんそこでガツガツしたそぶりを見せたら即アウトだけれど、勝彦くんは育ちもいいしオトナなので、そんなへまはしない。
 しかし典子もそこはさるもので、レストランで席に就いて早々、「今日は、あまり遅くなれないの」と釘を刺す。本日はお食事だけですよ、という含意である。
 「4時に弁護士が家に来るから」というのがその理由だ。ここらあたりもいかにも田中康夫流なのだが、「両親の資産を、今から少しずつ典子名義に替えていくので、その相談のため」である。
 「今日は食事当番やから早よ帰ってご飯炊かんとあかんねん。」とか、そういうことではないんである。どこまでも厭味なんである。
 弁護士が来る、というのはあくまで口実なのだが、「名義変更しなくてはという話が家族の間で出ていたのは本当」だそうだ。勝手にせい。
 昔のオンナから「会いたいの」てなことを言われ、流行りの高級フレンチレストランを予約してすっ飛んできた勝彦くんにしてみれば、いきなり冷や水を浴びせられたようなものだが、彼はオトナであるからして、そんな気持は顔にも態度にも出さない。
 それどころか、「いつ結婚するの? 日にち、決まった?」と、自分からその話をふる。
 嫉妬はもとより、もはや未練とてないのである。ただ、ちょっぴり下心はある。こういうところはどんなオトコも一緒だが、ただ、うまくやれる人とやれない人がいる。しかし、国ぜんたいが貧しくなると、うまくやれないほうが増えていく。そうして未婚率が上がり、出生率は減り、人口が激減して移民政策を取る羽目となって日本は滅んでいくわけだが、もうその話はいいか。
 そのあと二人は結婚式の話をする。内容はまあ、いかにもプチブルの家庭の結婚式にありがちな話で、今でいう「結婚式・披露宴の準備あるある」みたいなネタなんだけど、それにしても、そんな話を淡々と聞き、的確な受け答えをしている勝彦くんの様子は、ぼくから見ても好もしい。
 なんか前回からこの小説のことをボロカス言ってきたけれど、こういうシーンの上品かつ軽妙な駆け引きなんかを読み込んでいくと、この短篇、まあ風俗小説としてはなかなかよく出来てるんじゃないかと思えてきた。やはりテキストってものはきちんと付き合って読んでやらなきゃいけないね。
 レストランを出て(上にも書いたが、勝彦が支払ったことは疑いない)、ふたりは中二階へ出る。辺りに人けはない。昔いつもそうしてたように、勝彦はホテルの部屋を予約しているはずだが、そんなそぶりは暖気(おくび)にも見せない。ただ、ロビーを見下ろす中二階からの階段の途中で、キスを求める。そしてふたりは、ほんの1、2秒、軽いキスを交わす。



「結婚する前に、もう一度、会えるといいね」
 彼は最後にそう言った。私は黙って頷いた。今度、会ったならば抱かれることになるのだろうな。一段一段、ロビーへの階段を下りながら、頭の中でぼんやりと考えた。



 ぼくはあえて時系列に沿って再編集しながらあらすじを叙してきたのだが、じつはこの場面は回想シーンである。勝彦とのデートが土曜日で、その翌日、日曜日に裕一郎がマニラから国際電話をかけてきてくれた。そんな彼とお喋りしながら、典子は勝彦のことを思い出し、「今度、会ったならば抱かれることになるのだろうな。」などと考えてるわけだ。
 そうはいってももちろん、裕一郎の声を聞けばうれしいし、「裕一郎のこと、好きなのだわ。」とも、典子は感じてるわけである。基本的には裕一郎でOKなんだけど、彼が傍にいてくれないので昔のオトコにもちらちら気が向く。揺れてるのだ。
 こういう心情は、べつにバブル時代がどうこうではなく、普遍てきなものだとは思う。「クラシック」という川村湊さんの評価も納得できるように思えてきた。この短篇そのものは、イヤミではあっても小説としてはなにもそれほどダメではない。ただやはり、置かれた場所がわるかったのだ。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。