ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第7回・中沢けい「入江を越えて」その➈

2016-06-03 | 戦後短篇小説再発見
 「何がしたいのとたずねた時、稔がそんなことがしたいんじゃないんだと声を荒げた」のは「数日前」のできごとだけど、時間的には隔たっていても、話の流れとしてはすんなり繋がっている。放課後の学校の裏門から、近くにある小高い山地まで、ゆるやかで陰気な「鬼ごっこ」をつづけながら、苑枝はなおも「稔の望みは何だろうか」と考えている。例の上田と田元みたいに、「いっしょに歩いたり、並んで勉強してみたいと思っているようには思えない」。かといって、「そんなことがしたいんじゃないんだ」というセリフも嘘ではないだろう。
 女子である苑枝さんの心情には付いていけないぼくだけれども、稔くんの気持ちは推量できる。べつだん彼は、ただちに何がしたいというのでなく、ひとまずはゆっくり話がしたいのだ。からだの関係をもったあと、相手がいきなりよそよそしくなって自分を避けたら、とりあえず追いかけてどういうつもりか問い質したくなるのは人情だろうし、その点においてオンナもオトコも変わりはないはずだ。だからむしろこの状況下で「稔の望みは何なのか」と訝しむ苑枝のほうがちょっと不可解である。幼いという以上に、どこか情緒に欠落があるのではないか、とさえ思う。
 いやべつに、苑枝がおかしいわけじゃなく、ティーンエイジャーなんて大方はそんなものだ、という意見もあるかもしれない。これまで読んだ小説の中の女子高生たちも、ぼくなんかの感覚からすると、ひどく冷淡な子が多かった。
 いや、それもまたオトコもオンナもない話で、この年頃はたいていそんなぐあいなんだろうか。世間知が身についてないうえに、自分のことに手一杯で、他人の心情にまで気が回らない……。現実の自分を思い返しても、ずいぶんと傍若無人に日々を送っていた気がしないでもない。
 ただこの短篇にかんしていえば、稔のほうは苑枝にあるていど気を遣ってるように思う。少なくとも苑枝が稔に気を遣うよりかは。それに、けっこう温厚な性格のようだし。
 しかしいかに温厚であれ、おのずと受忍限度というものはある。


 歩き疲れて立ち止まると、稔の顔には露骨に怒りが現れていた。おこっていても、稔の目鼻立ちには、もともと微笑に似たものが含まれている。…………(略)………… しかし、苑枝の喉からはまともな言葉はひとつも出てこなくなっていた。警戒心ばかりが先に立ち、「好きとか嫌いとか、あたしは一言も言わなかったじゃない。」と、気持ちの底に澱んでいた言葉が、開いた唇から飛び出してきた。…………(略)…………

 
 目じりの垂れた、人の好さそうな顔なんだろうな稔くん。それにしても苑枝さん、ようやく言葉が出てきたと思ったらこれである。コミュニケーション・ブレイクダウンもいいところだ。結局のところ、ここから作品の終了まで、彼女が稔に向かって口にしたのはこの一語のみ。
 さすがの稔も激昂し、唇をふるわせながら大股で苑枝に近づく。あとずさる苑枝。しかし稔は、かろうじて自分を抑え、肩で息をして苑枝の顔を見詰める。「見詰める」と、中沢さんは書いている。苑枝は彼を正視できていない。つまり顔を背けているわけで、たぶん俯いてるんだと思うが、俯いてる相手の顔を見詰めるってのはなかなかに難しいんじゃないか。まあ、おおよその表情はわかるか。
 ぼくがもし稔くんの同級生で、この一件につき彼から相談を受けたなら、「そんなめんどくさい女は諦めなよ」と助言をしたであろうと思う。あるいは、めんどくさい、ではなくもっと率直に「そんな訳のわからん女は」と口走ったかもしれない。
 それくらい、苑枝さんの態度は難儀なものである。しかしこれまで書いてきたとおり、この「入江を越えて」は、いわば「中沢けい初期短編群」の掉尾を飾る一作であり、苑枝のキャラは形を変えて繰り返し変奏されている。それを順に読んでいけば、彼女のこの屈折した性格の依って来たる所以もまんざら分からぬわけではない。とはいえ、独立した一篇として読むならば、やっぱり彼女は面倒くさい。
 「少し歩こう」と、まだ怒りの消え残った声で稔はいう。ここまでさんざん歩いてきて、少し歩こうもないもんだと苑枝は思ってわずかに気を緩めるが、打ち解けるまではぜんぜんいかない。それでも彼の提案には従う。しかも、「彼女の歩調に合わせるでもなく、早く進み過ぎるでもなく稔は歩く。」というんだから、今度は前後ではなくいちおう肩を並べて歩いてはいるわけである。
 ここで最後のクライマックスシーンが描かれる。前々回(ずいぶん昔になっちゃったが)、ぼくが「あの初体験の夜の回想シーンの入江の情景に劣らず、濃密で生々しくってエロティック」と称した場面だ。やれやれ。ここに来るまでえらく時間がかかってしまった。
 稔の分身である「槙の実」が、より大きくて重くてねっとりと中身の詰まった「からすうり」へとグレードアップして、作品のなかにぶちまけられるのである。ここはぜひとも引用させていただかねばならない。

 …………登り坂が続いた。道の片側の生垣には、からすうりが熟している。てらてらと光るからすうりの実は、かれかかった茎に重く、今日落ちるか明日落ちるか、落ちる時を待っていた。

 さらに、

 肩に入っていた力が抜けてみると、まともな話し言葉が身体の中で溶け始める。こわばっていた喉が柔らかくなるが、何かしゃべろうとすると、ゼラチン状になった言葉が喉の奥へと滑り落ちていった。稔の掌の中で、からすうりがひとつ、無残に潰れ、あたりに生ぐさい臭いを放つ。一度、手を汚してしまうと、熟し過ぎた実をもぎ取るのも苦にならないのか、稔は次から次へとからすうりを取っては、コンクリート舗装の坂道にたたきつけた。炸裂して飛び散った果肉は、稔の形にならない言葉を含んでいるように、苑枝には見えた。むろん、意味は解らない。コンクリートの上のオレンジ色の染みを踏み越えて登る坂道の先へ先へと稔はからすうりを投げる。苑枝の爪先でオレンジ色の染みが、ぬるりとした危うさを彼女の身体に伝えた。



 超絶技巧ふたたびである。地面に叩きつけられ、炸裂して飛び散り、生ぐさい臭いを放つからすうりの果肉は、稔の「形にならない言葉」、つまりは鬱積した思いそのものだ。それはまた、苑枝じしんの身体にわだかまっている「ゼラチン状になった言葉」と響き合ってもいるのだが、それも遂には形を成さず、ただ彼女の喉の奥を滑り落ちていくだけだ。どこまでも互いの内面のなかでのことなのである。
 それにしても、彼女の行く手をオレンジ色の染みとなって累々と埋め尽くし、「ぬるりとした危うさを彼女の身体に伝え」るからすうりの残骸はまさしく危うい。「蛇にピアス」のなかのスキャンダラスな性描写より、こっちのほうがやばいんじゃないのと思うほどである。粗っぽい娯楽小説なんかで、破壊された町の描写などを見かけるが、それよりもイメージとしては強烈だ。これこそが純文学の凄みである。
 彼女なりに手さぐりするのだが、苑枝は自らのなかに言葉を見出すことができない。自分の言葉も見つからないし、かつて稔が自分に言ったことすら思い出せない。徹底して「言葉」から隔てられている。



 ………… もう、あんなことといった曖昧な言葉は使えそうになかった。あんなことは、依然として雲だか霞だか判然としないものを被ってはいる。けれども、白く煙った向う側に、槙の実や波が騒ぎ、稔らしき男がいる。あんなことと口に出しても、二人の間を空気より軽く飛び交ったりはしない。



 この一節もそれこそ曖昧で判然としないが、苑枝の心象のなかで稔を中心とするさまざまなものが雲だか霞だかを被り、白く煙った向う側に浮かんでぼんやりしているという感じはわかる。そういうニュアンスを醸し出すためのくだりだから、文章自体も曖昧で判然としてなくていいのだ。
 そんなこんなで、ふたりは坂道を登りきる。短いながらもこれもまた一種の「道行き」か。ミシマの「雨のなかの噴水」、小川国夫の「相良油田」、そしてまたここでも道行きだ。いまだ家庭を成さない青春小説のカップルには、道行きがよく似合うのだ。
 「もう帰ろう」と稔はいう。ちなみに、このラストシーンでの彼のセリフは、さっきの「少し歩こう」とこの「もう帰ろう」だけだ。苑枝に振り回され、あとを追いかけているようでも、じっさいに行動を促す言葉を口にするのは彼のほうで、それに苑枝がけっこう素直に従ってるのも興味ぶかい。むろん偶然ではなく、これも作者の計算のうちだ。そして彼は、苑枝の返事も待たずに、ひとりでさっさと坂道をくだりはじめる。苑枝は後ろにつづく。


 自分の作った染みの跡をたどる稔の後姿を眺めながら、苑枝は明日も彼は帰り道にたちふさがっているのかしらと考えた。透明で音を伝えやすい空気に、田で焼く稲わらの煙がただよっていた。煙の色と見えていたものが、坂をくだりきらぬうちに、薄茶色の日暮れに変った。



 今更ながら、ただ嘆賞するよりない風景描写だ。それにしても、変則的ではあれ、彼女と一緒に「坂の上」まで登りつめ、あまつさえ、地面に盛大に思いの丈をぶちまけたんだから、稔が「明日も帰り道にたちふさがっている」わけはない。彼の鬱懐はひとまずはここでカタルシスを迎えたと見ていいはずだ。そんなことすらわからぬくらい、やっぱり彼女は幼いのである。



 …………(略)…………彼女は言葉が欲しかった。稔と交す言葉と、自分の脅えの正体を眺めるための言葉。それに記憶を岸にしっかりとつなぎとめて、離さない言葉が欲しい。



 これが作品の〆である。ここにもまた彼女の幼さがあらわれていると思うのは、言葉なんてものは体の底から勝手にぼこぼこ沸いてくるものではなくて、相手との心の交わりの中で少しずつ育まれるものなのに、それに苑枝がまるっきり気づいてないからだ。
 もはや言うまでもないことだろうけど、いちどは体を交わしながらも、彼女はずっと自分の殻に籠っていて、稔とほんとうに心を触れ合わせたり、通わせたりすることはなかった。その未熟さ、生硬さを、さながら琥珀に眠る古生代の化石のように、一篇のうちに鮮やかに封じ込めて、「入江を越えて」は青春小説の佳品となった。
 ただ、「記憶を岸にしっかりとつなぎとめて、離さない言葉」とは、毎日のコミュニケーションのための言葉とは趣を異にするようである。それはあるいは小説の言葉なのであろうか。だとすれば作品の末尾で彼女は表現者へのあこがれを抱いたということになるやも知れぬが、ひとりの幼い女子高生が創作へと向かうプロセスをていねいに描いた作品は、欧米にはともかく、中沢さんをも含めて、このニッポンにはほとんどないと言っていい。しかしそれはまた別の話だ。



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