ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第6回・丸山健二「バス停」その⑧

2016-03-22 | 戦後短篇小説再発見
 前回までのところで、じつはこの短篇は9割くらい終わっている。☆をはさんで、残るは「結」のパートのみ。ページ数にして二枚半である。
 炎天下、一人ぼっちでがたがたと震えつづける娘はどうなったのか。
 かなり迷ったのだが、ここはもう、原文をそのまま書き写させていただきたい。原著者と版元には申しわけないのだけれど、どう考えても、ぼくが余計な口を差し挟むより、そのほうがずっといいからだ。


 しかし、誰も通らなかった。あたしはまだ膝のあいだに顔を埋めるようにして、小刻みに体を震わせていた。寒く感じているのに汗がポタポタと垂れ、地面に吸いこまれたり歩いている蟻の上に落ちたりした。
 ふと顔をあげると、そこには母が立っていた。あたしはまったく気づかなかった。母はいつのまにか戻っていたのだ。そのときの母は生き生きとして見えた。あたしのほうがはるかにみじめったらしく、老けこんでいるように思えてならなかった。
 母は無表情のまま、立ち上がったあたしが体についた砂を手で払ったりハンドバッグを持ち直したりするのをじっと見つめていた。
 母の右手がするすると伸びてきたかと思うと、あたしの顔が柔らかい布切れで覆われた。母はハンカチの代りにいつも持っているタオルであたしの汗を拭いてくれようとしたのだ。汗だけではなく、鼻までかんでくれようとした。
 あたしの震えはぴたりととまった。あたしは化粧が台なしになるのを心配して「もう、いい」と言った。母はタオルを大切そうにふところへしまいこんだ。



 震えがぴたりと止まったのは、もちろん、彼女がふたたび世界との繋がりを取り戻したからである。人間ってのはえらいもんで、全世界から見放されたように感じていても、たった一人の相手に承認されることで回復できる時がある(むろん、できない場合も多々あるが)。それにつけてもこのシーン、黙劇を見ているようで大好きだ。映画で観てみたい気もするが、その際は、台詞はもとより音楽さえ入れずになるべく静謐に撮りたいところだ。夏の盛りとて、蝉の声くらいはバックに入るのかもしれないが。


 もしそこへバスが来てくれなかったら、あたしはその不思議な時間をどうやって潰していいのかわからなかったろう。バスは予定より十五分も遅れて、暗い谷間から現れた。


 嬉しいんだか気まずいんだか照れくさいんだか甘酸っぱいんだかわからない。実際それは不思議な時間と呼ぶよりほかにないのかもしれない。母は懸命に手を振って運転手に合図を送る。ふたりの居るのが、バス停から少し離れた場所だからだ。エンジンの熱気が押し寄せ、タイヤが地面をこする。娘が荷物を持って乗り込むさい、母は運転手に何度も頭を下げる。それは「この子を頼む」という意味の、昔からの癖なのだった。娘がまだ子どもで、バスで町の歯医者に通っていたころ、母はそうやって彼女をバスに乗せていたのだ。
 ぼくが連載の「その⑤」で述べた、「十何年も前」の「まだ若かった頃の母の姿」とは、そのことだったのである。あの記述はこの伏線として敷かれていた。言い換えれば、「バス停」という特別な場所を契機として、娘はあのとき、いつも自分をそこまで送ってくれ、そうやってバスに乗せてくれていた母の姿を思い起こしていたわけだ。もちろん、それに伴って彼女のなかには、母にまつわる子ども時分からの思い出が一斉にどっと湧き上がっていたに違いない。そこまで想像を巡らせねば、小説を読んだことにはなりません。
 ほかに乗客はなく、バスは彼女が腰を下ろすとすぐ発車する。たぶんこれ、お袋さんが合図しなかったら徐行もせずに行き過ぎてたんだろうねえ。母はこちらに向かって大きく手を振る。むかしのままだ。娘もまた、ちょっとだけ手を振る。これもむかしのままである。違っていたのはそのあとだ。彼女はバッグから大急ぎで財布を取り出し、札を一枚抜き取って、窓の外へと放る。それは土埃といっしょに母のほうへと流れていく。
 しかし、彼女はそのあとのことを見届けない。前を向き、二度と後ろを振り返らない。だから気づいた母が慌てふためいてそれを拾ったのか、気づかぬままにまだこちらに向かって手を振り続けているのか、それは彼女にも、そしてまたわれわれ読者にもわからない。
 いったん追っ払われた母親が、もういちど娘のところに戻ってきたのは、いうまでもなくおカネが欲しかったからではない。あきらかに様子のおかしかった娘のことが心配で、どうしてもそのままにしておけなかったから戻ったのである。それは文字どおり「無償の行為」であった。娘にもそのことはわかっている。感謝もしている。ただ、彼女はその気持を「おカネ」という媒体を使ってしか表すことができない。これはいかにも切なくもあるし、一面、ひどくリアルだともいえる。
 母が戻ってきてくれたとき、「ありがとう。助かったよ」と口にしていればそりゃコミュニケーションとしては上出来だけれど、それでは嘘臭くなってしまう。この小説の成り立ちとしても嘘くさくなるし、ぼくたちの生きるこの現実に当てはめてみてもやっぱり嘘くさい。そう簡単に素直になれたら、揉め事なんて起らない。
 娘が窓から投げたお札を母は慌てふためいて拾ったのか、それとも気づかずに手を振り続けたのか、まるでカードを伏せるようにして、それを読者に明らかにしないラストは作者の含羞のあらわれとも思える。絵柄としては、とうぜん、気づかずに手を振り続けてるほうがきれいだろう。慌てて札に飛びついてたら、せっかくの美談が台なしだけど、とはいえ実際にはそれだって十分ありそうである。なにも欲の皮が突っ張って浅ましく拾いに行くというのではなしに、目の前に札が飛んできたら、誰だって反射的に体が動いてしまうはずだから。ゆえにここは、こう書いておくところだろう。
 バスの中は涼しい。陽光は遮られているし、窓からの風もある。娘はさっき母がふれた自分の鼻に手をやってみる。形を変えるためにさしこんであるプラスチックのために、その先端はひんやりしている。娘はすっかり元気を取り戻し、あらためて、冷えたビールに思いを馳せる。
 すがすがしいハッピーエンド、という感じではないが、けして暗鬱な作品とはいえまい。このたびの帰郷で娘は最後にひとつ貴重なものを得たわけだし、それで何かが、ほんの少しだけれど何かが彼女の中で変わったと思う。とはいえ、だからといって都会での彼女の暮らしが楽になるわけでは勿論ない(むしろ悪い予感しかしない)。そういう点ではまことに苦い短篇で、丸山健二とは昔も今もそういう作品を書くひとである。


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