ウィキペディアによれば、この短編はすべて現実の場所をモデルにしているらしい。明男が雅子に別れ話(?)を持ち出したのは丸ビルの中の喫茶店。念願かなってうっとりしていたのもつかのま、すぐに明男は、周囲の大人たちからの好奇の視線に耐えられなくなって、泣き続ける彼女を連れて外へ飛び出す。しかし「連れて」という言葉が正確かどうか。明男はべつに「行こう」と声をかけたわけでもなく、雅子のほうが勝手に付き従っている格好ではある。されども明男は彼女を振り払うどころか、傘を広げて親切に入れてやっているのである。「相合傘だって、ただの世間体のためだ」などと自分に言い訳しながら……。おいおい兄ちゃん、いま別れようっつったんじゃないのかい? しかし、この優柔不断ぶりこそが、つまりは「戦後」ってものなのかもしれない。という気もする。
雨のなか、明男は(つまり二人は)「広い歩道を宮城のほうへ向って歩く」。宮城とは皇居のことである。やはり《天皇》にまつわる言葉がミシマ作品に出てくるとドキッとさせられる。そういえばヒロインの名前さえ、完全なる偶然なのだが(なにしろ1963年の作品なのだ)妙に予見的だったりもする。なぜ自分が宮城のほうへ向かっているのか、初め明男は自分でもよくわかってないのだが、公園の噴水が目当てなのだとそのうちに気づく。「雨のなかの噴水。あれと雅子の涙とを対比させてやろう。いくら雅子だって、あれには負けちゃう筈だ。……(中略)……こいつもきっと諦めて泣き止むだろう。このお荷物も何とかなるだろう。……」この皇居前の公園というのが、和田倉噴水公園のことだ。
べつに小説を読みなれてない人でも、この短編がしつこいくらい「水」のイメージに浸されてることは否応なしに感じるだろう。まったくもってびちゃびちゃである。まず雨が降っている。女の子は、人間とは思えぬ勢い+持続力で泣き続けている。彼女の泣きっぷりってぇものは、ほとんどシュールリアリスティックといっていいほどだ。そのなかを、明男(と雅子)は噴水のほうへと向かっていく。本物の噴水に対峙させることで彼女の目からの「噴水」を止める! 《水を以て水を制す。》とでもいうべき独特な明男の発想であるが、物語論的な見地からいえば、ようするに彼は一篇を律する《水》のイメージに捉えられ、《水》がより大量に、勢いよく湧き出るほうへとひたすら誘引されているわけである。
いったいに、《水》のみならず《火》や《風》や《土》、さらには《光》など、古代ギリシアの賢人たちが万物の根源とみなした原型的なイメージに留意することは、小説を味読するうえでの要諦のひとつといっていい。原型的なイメージとはそれくらい重要なものなのだ。ミシマ本人は新潮文庫版『真夏の死』巻末の自作解説において、「リラダンの『ヴィルジニイとポオル』のような、残酷さと俗悪さと詩がまじった可愛らしいコントを試みた」という意味のことを述べており、世間の読解もこの解説に従うものが多いが、それはそれとして、どこまでも《水》に翻弄される少年のお話、として「雨のなかの噴水」を読んでみるのも一興であろう。つまり「雅子」という少女は漱石の『草枕』にでてくるあの那美さんと同じ《水の女》の系譜に属する娘、その庶民バージョンってわけだ。
だから物語論的な見地からは、明男と雅子との勝負の帰趨は最初から決まっているといっていい。《水の女》に勝てる男などこの世にいないのである。雅子は白いレインコートと白いブーツに身を固めている。いっぽうの明男は軽装で、靴下などはもう濡れた若布みたいなありさまである。降りしきる雨と雅子の涙とに全身を絡め取られているのだ。
「オフィスの退けどきにはまだ間があるので、歩道は閑散だった。二人は横断歩道を渡って、和田倉橋のほうへ歩いた。古風な木の欄干と擬宝珠(ぎぼし)を持った橋の袂(たもと)に立つと、左方には雨のお濠(ほり)に浮ぶ白鳥が見え、右方にはお濠を隔てて、Pホテルの食堂の白い卓布や赤い椅子の列が、雨に曇ったガラスごしにおぼろに見えた。橋をわたる。高い石垣の間をとおって左折すると、噴水公園へ出るのである。」
べつにわざわざ書き写すほどの箇所でもないが、ぼくは志ん生の「黄金餅」が大好きで、延々と情景を綴って主人公が移動していくくだりにシビれる質(たち)なもんで、つい引用しちまった。「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へ出て、三枚橋から上野広小路へ出まして、御成街道から五軒町へ出て、………………」というやつだ。こうして二人は公園へ向う。雅子はもちろん、そのかんもずっと泣きつづけている。ひとことも言葉を発することなしに。「別れよう」という一句を明男が(はなはだ不明瞭に)口にして以降、ここまで二人はまったく言葉を交わしていない。
公園を入ったところに大きな西洋東屋(アーバー)があって、二人はいったんそこに落ち着く。雅子は相かわらず目を見開いたまま、人事不省に陥ったかのように涙を噴き出し続けている。彼方では噴水が盛んに水を吹き上げているが、一向にそちらを見ようともしない。だから視点はあくまで明男からのものだ。「ここからは大小三つの噴水が縦に重なってみえ、水音は雨に消されて遠くすがれているが、八方へ別れる水の線は、飛沫のぼかしが遠目に映らぬために、却って硝子の管の曲線のように明瞭に見えている。」
この短編の陰の主役というべき「噴水」が、かくしていよいよ作品のなかに姿をあらわす。ほかに人影はまったくない。雨のなか、舞台の上には明男と雅子とのふたりきりである。
その③につづく。
「黄金餅」って、けっこう陰(いん)な噺のはずなんですけどね。「らくだ」もそうだけど、「死」(というか「屍」?)を扱ってるのに、なんか可笑しいんですね。志ん生のは、あすこのくだりがほんとにゆったりしてる。ふつうだったらダレちまうところが、そうはならなくて、そこでお客が沸いたりする。息子の志ん朝のは、てきぱきと、めりはりをつけてサッと流す感じでした。志ん生みたく演れるひとは、金輪際もう出ないでしょうなァ……。
志ん生は今でも仕事をしながら聞く事があるのですが、あの「間」はあれ?回ってる?と確かめたくなるほどのゆっくりさで、今の会話のペースからはもう取り戻せない緩さですね。
ちょっと高橋和巳を思わせる風貌の繊細な方で、自分にとって恩師といえる人がもし居たとすればあの先生だけですね。「大江健三郎はグロテスクだから嫌い」とおっしゃっていて、その点では意見が合わなかったけど、中上健次は評価しておられた。そうそう、島田雅彦のデビュー作については、「これのどこが左翼じゃああ」と本気で怒ってましたね(笑)。
あと高校時代の思い出といえば、K君という友人がいて、ぼくがおカネがなくて本が買えないと困っていたら、「立て替えとくよ」と言って何冊もほいほい買ってくれた。バイト代だったらしいんですが、いま考えるとむちゃくちゃな話で、同級生(男子)に貢いでもらってどうするんだという……。「新人賞を取ったら倍にして返す。」と約束をしていたんですが、ついにこの齢になってもデビューできぬまま、消息がわからなくなってしまいました。振り返れば悔やむことばかりの年の瀬です。
ティーンエイジの女子の場合好きな先生と授業がどうしても一致してしまい、苦手な先生の科目を得意とするのがなかなかできず、化学や物理など高校で難しくなる教科は特に苦労しました。
私の場合は地学の先生と相性が良く、科学的な思考方法の全ては地学で学びました。
70年代前半だったので若手の先生は大学紛争を体験しており、まぁ教師になっているのだからなんだかんだ言っても卒業はしているのだからそこそこの経験だろうけれど、生徒よりもラディカルで、「雨の日にわざわざ来るほど意味のある事をしていないから休講」とか喫煙を注意され「先生、吸った事も無いのに禁止っておかしくない?」の反抗の言葉を真に受けて吸い始めてヘビースモカ―になってしまったり、「どうしても読みたい本があるので、図書館にいます」が授業に出ない理由になったり、自由気ままな3年間でした。
最低の出席日数だけを守り点数がとれれば単位は貰えた。その分受験は苦労で、これまた授業にも出ないで受験勉強をしていました(笑 共通一次以前の事です(笑
高校の地学というと、天文学に気象学に地質学に……といった塩梅で、範囲が広くてぼくにはちょっと捉えどころのない印象でしたが……。理系の教科は、物理も化学も生物も、本を読んでる分には面白いけど、テストになったらとたんに嫌になっちまうんですよね。
今回のコメントを見ると、なるほど70年代の「自由」というのはそんな具合だったのかあ、と感じますが……。ぼくらの頃は、先生方はまるっきりサラリーマンで、それだけに、文学青年くさい国語の先生に強烈な親近感を覚えたんですね。