ダウンワード・パラダイス

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『秘太刀 馬の骨』の「犯人」とは?

2016-06-18 | 物語(ロマン)の愉楽

『秘太刀 馬の骨』の「犯人」とは?

 初めてこのタイトルで記事を書いたのは2010年1月のこと。幸いにしてグーグル検索で上位にランクされ、その後、BSでドラマ版が再放送されたこともあって累計で1万件を超すアクセスを頂いた。だからこの問題(?)にはもう片がついたと思っていたが、amazonで『秘太刀 馬の骨』のブックレビューを見たら、思いのほか浸透していない。ままならぬものである。



その①
初出 2010年01月13日


 藤沢周平の『秘太刀 馬の骨』といえば、NHKでドラマにもなって、知名度の高い作品だけど、いっぽうでは「隠れた名作」などと微妙な言い方をされたりもする。なるほど、この中編の勘所がただたんに「犯人さがし」の興趣に尽きるものなら、それは滅法面白い読み物ではあっても、軽々に「名作」とは呼びがたいだろう。

 しかし、この作品から受ける感銘は、藤沢さんの他の名作群と比べても、けして劣るものではない。ただしそれを身をもって知るには、作品の末尾に置かれた断章の意味を、正しく読み取らなくてはいけない。

 その指針となるのは、文春文庫版に附された出久根達郎の「解説」なのだけれど、このたびネットを見ていたら、この「解説」に対する曲解が出回っているので驚いた。これでは出久根氏に失礼だし、『秘太刀 馬の骨』という作品そのものも浮かばれない。この記事は、ぜひ文春文庫『秘太刀 馬の骨』をお手元に置いてお読みいただきたい。それだけの値打ちのある一冊だから。

 問題は、文庫版317ページの文章だ。出久根さんはここで、「真犯人は杉江だ。」などと、珍説を唱えているのではない。この『秘太刀 馬の骨』という作品の主眼が、じつは「秘太刀」をめぐる伝承者さがしでも、お家騒動の顛末でもなくて、杉江という真摯で健気な、それだけに思い込みが激しく、頑なな所のある女性が、愛息を死なせた哀しみから回復するところにある、と指摘しているのだ。

 つまり、『秘太刀 馬の骨』というタイトルには、まさにそれこそ「秘められた」もう一つの意味があるのですよ、と、出久根さんは作者の意図を読みほどいているわけである。杉江は小太刀の遣い手であり、だからこそ「秘剣」ではなく「秘太刀」なのだ。

 剣客でもなければ、お家の大事に関わっているわけでもない、たかだか嫁入り前に剣術をかじっただけの「どこの馬の骨」とも知れない武家の奥方が、ここぞという時に意を決して振るった太刀。それがタイトルの裏の意味なのである。そもそも解説の表題も、〝意外な「犯人」〟と、ちゃんと括弧でくくってあるではないか。この「犯人」とは、「真犯人=伝承者」のことではなく、「この作品の眼目となる人物」という含意なのだ。


 だから伊助の報告として語られる最終段のパラグラフは、たんなる後日談でもなければ、殺伐たる作品の空気を和らげるための清涼剤でもない。まさにこの断章のためにこそ、『秘太刀 馬の骨』全編が書かれていると言っていいほどのものなのである。


 「馬の骨」がどれほど恐るべき剣であろうと、所詮それは、人を斬り、生を断ち切るためのものでしかない。しかし杉江が振るったのは、窮地の男の子を救い、ひいては彼女自身を絶望の淵から蘇らせる剣であった。これこそ真の「秘太刀」ではないか、というのがこの作品を書いた藤沢さんの意図であり、出久根さんはそれを言っているのである。


 たしかに出久根さんの書きぶりにも、読み手に混乱を与えて楽しむがごとき、いささかお茶目すぎるきらいはある。だけど藤沢文学の愛好者なら(すなわち、藤沢周平さんの心優しさを十分に弁えている人なら)、ぼくがここで述べたようなことは、すんなりと了解できているものだと思っていた。ところがあながちそうでもないようなので、こんな記事を書いた次第だ。



 註) ただし、高弟五名を含む七名の候補者のうち、藤沢さん自身が最後に提示している「伝承者=真犯人」が、完全な整合性を備えているか否かはまた別の話だ(しかもその人物は、雑誌掲載分と単行本とで変更されているというではないか)。この点については、植島啓司さんの推理が卓抜なので、興味のある向きはぜひご覧いただきたい。

追記)ここにリンクを張っていたのだが、のちに確認したらサイトがなくなっていた。残念だ。 


 ◎「雑誌の初出と単行本とで継承者が変更された」件については、次のサイトを参考にさせて頂きました。記して謝意を申し述べます。







その②
初出 2010年02月03日(のちに一部を改稿)


 1月13日の記事《『秘太刀 馬の骨』の「犯人」とは?》に対するアクセスがたいへん多い。その中でぼくは、あの作品の勘所は、じつは「真犯人=伝承者」探しではなくて、半十郎の妻・杉江が、愛息を死なせた悲しみから回復するところにあるのだと述べた。

 「馬の骨」という呼称が、馬の体を骨まで断ち切るほどの豪剣にして、一撃必殺の暗殺剣でもある恐るべき技のことを指すのは言うまでもない。しかしそれはあくまで表の意味にすぎず、本当は彼女が、行きずりの旅籠で男の子を救うために意を決して振るった太刀(木刀だけど)こそが「秘太刀 馬の骨」なのである。文春文庫の解説で、出久根達郎さんが《意外な「犯人」》と書いているのはそのことだ(藩の家老あたりから見れば、彼女など、「どこの馬の骨」とも知れない存在でしかない)。

 もちろん杉江の挿話は脇筋にすぎない。彼女自身の登場シーンも多くはない。倦怠期を迎えて久しい働き盛りの男性読者にすれば、彼女の気鬱から来る家庭内の不和は、主人公を悩ませる心労のひとつにしか見えないだろう(そういう意味では、大方の読者にとってさえ、杉江は「どこかの馬の骨」にすぎない)。しかし、作家という商売はそれほど浅薄なものではないし、まして藤沢周平ほどの心やさしい人間通が、そのような所で筆を留めるはずもないのである。

 「馬の骨」は人を斬り捨てる剣である。しかし杉江が振るったのは、ひとを救い、彼女自身をも絶望の淵から甦らせる剣であった。最後の断章まで読み進むと、それまで脇筋でしかなかった杉江の話が一挙に前面に迫り上がってきて、彼女にスポットライトが当たる。いわば地と図がくるりと反転する。それと同時に、『秘太刀 馬の骨』というタイトルの真の意味が、読者の前に明らかになる。これこそ希有の「どんでん返し」であり、あの名作が名作たる所以なのである。

 雑誌掲載分と単行本とで藤沢さんが「真犯人=伝承者」を変更しているということも、主筋がじつは脇筋で、脇筋がじつは主筋だとする、ぼくの見解の傍証になるであろう(……さて、ここからは作中人物の実名を挙げてのネタバレとなるので、未読の方はくれぐれもご注意されたい。できればこれ以上はお読みになられぬほうがよろしいだろう。)

 「秘太刀馬の骨 真犯人」というキーワードで検索をしてここに辿り着いた方々も、一応はこれで満足して頂けたと思うのだけど、それでもやっぱり、「じゃあお前は、作者が提示している通り、真犯人=伝承者が矢野藤蔵ということでいいのか?」と訊きたい方もおられるかも知れない。いくら「主筋」が「脇筋」だと言っても、ここをおろそかにしては作品そのものが成り立たない。プロ中のプロたる藤沢さんが、そんないい加減な仕事を遺すはずはないのである。

 結論からいうと、ぼくは矢野藤蔵でいいと思っている。藤沢さん自身もそのつもりでおられたであろう。先にも書いたが、雑誌(オール讀物)掲載分と単行本とで、犯人が変更されているのである(雑誌では家僕の庄六だった)。矢野藤蔵でないのなら、どうしてわざわざそんな手の込んだことをするであろうか? 矢野藤蔵に変えたのは、それがいちばん自然だから、言い換えれば、推理物に必須の「意外性」を保ったうえで、なおかつ不整合がもっとも少なくなるとみたからだろう。じっさい、それで矛盾が生じるとは思えない。覆面の下を晒さなかったのは、そこまで描いてしまうと野暮になるからで、それ以上の意図はないはずだ。

 ただし、1月13日の記事でも紹介した植島啓司さんの見解はとても魅力的である。この方は、そういえば昔ペダンティックすぎるSM小説(?)を出版されていたけれど、いわゆる文学のプロではなく、残念ながら出久根さんの解説をまともに読めてはいないようだ。けれどここで、「狂言家元の奥方である友人の由美さん」の推理として紹介されている見解は、たしかに傾聴に値する。ぜひ一読をお薦めしたいが、あえて端折って要約するなら、およそこういうことになる。

 「真犯人=伝承者」は北爪平九郎である。なぜなら、北爪家は由緒正しい名家で、当人も御番頭という重職を勤め、藩主に非常に近い位置にいる。「馬の骨」は藩の命運を担う剣だから、伝承者は藩主に忠実であり、個人の利害を離れて常に藩全体の将来を考え、行動する人間でなければならない。そのような条件に当てはまるのは、高弟五人を含む候補者七人のうちで彼しかいない。

 それとも関連しているが、平九郎は「変り者」との世評の一方、きわめて老獪であり、政治家としても一流で、半十郎(と銀次郎)を手のひらで転がし、むしろ利用している節もある。じっさい、物語の終盤において藩の政争の内幕を半十郎に説き、その考えを一変させて、小出派から離反せしめるのは彼ではないか。このことから見ても彼の重要性は、七人の中で突出している。また、矢野藤蔵に対してあれこれと心配りをしているのは、本来なら嫡子が伝授されるべき秘太刀を、他人の自分が受け継いでしまったことへの後ろめたさゆえだろう。

 銀次郎は、平九郎と対決したとき、あれは「馬の骨」ではなかったと断言しているが、平九郎の技量は銀次郎より上であり、その勝負に「馬の骨」を遣うまでもなかった。あの場面で「馬の骨」を出さなかったのは、彼が「真犯人=伝承者」でないという証拠にはならない。

 クライマックスの前段で、「北爪平九郎は横になっていた。しかも顔と言わず手と言わずあちこちに晒を巻きつけて、この前の石橋銀次郎よりもさらにひどい姿だった。」とあるのは、偽装工作としか思えない。いかに赤松が難剣の遣い手とはいえ、そこまで手ひどくやられるだろうか。また、銀次郎が江戸へ戻るに当たって、沖山茂兵衛、長坂権平、飯塚孫之丞の三人に警護させながら、より重要な人物、石渡新三郎をたった二人で護衛したというのも解せない。犠牲者を一人でも減らし、それでもなお新三郎を守りきる自信があったからだろう。あとで小出家老に罠を仕掛けておびき出し、ひそかに成敗するためには、赤松もろともでなければならない。そのためには、友人(沖山茂兵衛)を見殺しにすることになっても、やむを得ないと見切ったのではないか。

 「黒装束の男」と平九郎の雰囲気には共通点がある。「男は頭巾の中からまだこちらを見ている。長い凝視だった。その凝視に、半十郎はふと血も凍る不気味なものを感じたとき、男はくるりと背をむけた。すたすたと橋を渡り、その先の町の暗やみに消えて行った。」 平九郎もまた、眼光鋭い男として描写されている。また、由緒正しい名家の主でありながら、どことなく得体のしれない不気味な存在であるともされる。

 秘太刀は存在さえも隠匿されているからこそ秘太刀である。しかし黒装束の男は、赤松を橋の上までおびき寄せ、遮るもののない見通しのよい場所で討った。それは半十郎らに「馬の骨」を見せてやったということだ。友情か御礼か褒美か、理由は定かではないが、いずれにせよ彼は、半十郎が見たものを誰にも口外しないという確信を持っている。つまり、半十郎が慎重で、思慮深く、心から藩の将来を思っていることを知悉している。それは自分が動けないのを口実にして、権平と孫之丞を止めてほしいと頼み、半十郎をまんまと小出家老・赤松討ちの目撃者にしてしまった平九郎以外にはあり得ない。

 ただ一つの問題は、「(黒装束の)男は目立たない中肉中背だった」とあるのに対し、平九郎は「提灯をさげた長身の武家」「すり寄るように平九郎の長身が……」と描写されていることだ。しかし、「赤松は長身から鋭い豪剣をつぎつぎと放つ」とあるように、赤松のからだが大きいので、それに比べて小さく見えたということは考えられる。



 ……以上、ずいぶんと美味しい所を切り捨ててしまったが、おおよそこれが「由美さん」の見解だ。繰り返しになるが、傾聴に値する意見だと思う。だけどやっぱり、これをそのまま受け容れる気にはならない。だって、皆さんもいちど書き手の身になって考えてみてください。終盤になって北爪平九郎の重要性がぐんと増すのは、さもなくば話が収束しないからである。「真犯人=伝承者」が誰かという問題のほかに、お家騒動の顛末にも決着を付けておかねばならない。そのためには「内幕=真相」を「視点的人物」たる半十郎に教示する人物が必要となってくるのだが、この役を担うのは、それこそ「平九郎以外にあり得ない」のである。

 ラスト間際、橋の上での死闘および「馬の骨」を半十郎が目の当たりにするのも、もちろん、そうでなきゃ読者が承服できないからだ。もしこれが、「半十郎が駆けつけると、そこにはもう赤松の屍が転がっていた。その切り口に目をやって、彼は思わず息をのんだ。『おお……これが、馬の骨か……』」とかだったら、読んでるほうはがっくりくる。前衛小説じゃなくエンタテイメントなのだから、「馬の骨」は最後にぜったい描いておかねばだめなのだ。だとしたら、不自然だろうとなんだろうと、そのシーンを半十郎に目撃させるしかないではないか。

 要するに、北爪平九郎が作品のなかで身に纏っている怪しさ(なんというかそれは、作品のもつ論理体系の「淀み」とか「歪み」とでもよぶべきものだ)は、彼が「真犯人=伝承者」であるからではなく、いわば作品そのものが、彼に対してやむにやまれず要請しているものなのである。「由美さん」の見解は、ほんとうに丁寧で示唆に富むものではあるけれど、この二つの位相の「怪しさ」を混同しているのだと思う。

 いずれにせよ、こういった解釈合戦は知的遊戯として愉しいけれど、それは本筋の読みではない。改めていうが、「真犯人=伝承者」は矢野藤蔵。しかしこの物語の主眼となる人物は杉江。それこそが重要なのである。なお、「牛若丸のような身のこなしでその刃の下を掻いくぐられました。」という件りに過剰な意味を読み込む方もおられるようだが、失礼ながらそれは「生産的誤読」ではない、たんなる読み間違いと言わざるを得ない。これは杉江が暴漢に比べてひどく小柄に見えたこと(じっさいに小柄な女性だったのだろう)、この救出劇が生半可なものでなく、本当に命がけだったこと、そして、杉江がこの時もうすでに、絶望から脱し、新しい生の方向に向かって躍動を始めていたことを示しているのである。




 ……さて、ここまでが6年前に書いた過去記事の再掲だ。いま読み返すと、言い落したことがいくつかある。たんに「脇筋」がくるりと「本筋」に反転するのが面白いばかりではなくて、平十郎が探索の過程でいろいろな人に会い、そのなかでほかの夫婦や恋人たちの内情にもふれて、そのことを家で杉江に告げる。それによってこの夫妻の心もまたふたたび通い合っていき、杉江が少しずつ寛解していく。その流れがすばらしいのである。だから281ページで、「義兄の谷村新兵衛」は「杉江もだいぶぐあいがよくなったらしいの」と口にする。ただ、それだけではまだ十分ではない。じっさい杉江は、愛娘を襲った猛犬を退けることができない。いましばらく時間が熟さなければならない。それだけの「溜め」をつくっておいて、ラストシーン、伊助の報告で話が一気にカタルシスを迎える。だからこそ最後の一行が、出久根氏のいうとおり、「世にも美しく、胸に迫る」のである。



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