ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『魔法少女まどか☆マギカ』について。

2019-10-04 | プリキュア・シリーズ
 中世の話はいったん置いて、本日はこのお題にて。




 『魔法少女まどか☆マギカ』は、プリキュアシリーズを見慣れた私にとってすら、ずっと敷居が高かったですね。全12話の放送が終わった2011年の10月に「ユリイカ」が特集を組んだんで(それも臨時増刊号だぜ)、いちおう買って読んだものの、なんせ本編を観てないもんで、個々の論考は面白かったけど、全体としてはよくわからなかった。ま、当たり前ですが。
 2011(平成23)年といえば、このgooブログに越してくる前で、私はまだ「物語の愉楽」に目覚めておらず、ガッチガチの純文学脳でしたしね。「社会現象」といえるくらいの話題をまいていたのは知っていたけど、どうしても見る気にはなれなかった。
 いや、なにが敷居高いって、まずキャラクターの造形ですよ。






 これですからね。もはや「萌え絵」ですらないという。ほぼ限界まで記号化された「女の子」像。そりゃ可愛いっちゃあ可愛いんだろうけど、ギャグをまぶした日常系4コマまんがのキャラデザですよね。
 とくに顔の輪郭がね。シンプルなのはいいとして、なぜこう横に広いのか。聞けば、テレビ画面の縦横比において、もっとも無駄がなく、表情を豊かに描けるサイズらしいんですよ。きちんと計算されてるわけだ。
 それにしても、歴代プリキュアのキャラだと、馬越嘉彦氏による『ハートキャッチプリキュア!』を除いて、ここまでシンプルなものはないよね。東映動画の伝統なのかもしれないけど、これと比べたら劇画チックにすらみえる。だからその分、アクションシーンでは動かすのが大変そうだ。
 「まどマギ」のキャラデザは、じつはアクションに向いている。とはいえここまで可愛らしいと、よほどメルヘンチックなものしかつくれない……はずなんだよね本来は。ところがそれで、思いっきりディープでハードなダークファンタジーをやった。そこがまず、制作陣の鮮やかな戦略であったと。
 むろん戦略だけではここまで売れません。ちゃんと裏打ちがある。その「ディープでハードなダークファンタジー」を支えるのは、緻密で堅牢な背景美術です。




















 こちらは劇場映画版の映像なんで、テレビ版よりずっと丁寧に造りこまれているけど、新海誠作品にも引けを取らない美麗さでしょう。これだけ切り取っても鑑賞に耐える。
 つまり、背景美術とキャラクターデザインとがそぐわないんだよね。でもそれは、けっして乖離してるってことじゃなく、その逆で、このミスマッチがただならぬ相乗効果を生んでいく。
 しかも、このリアリスティックな背景の中に、もうひとつ別の位相の空間が混入してくる。制作陣のなかに、「異空間設計」なるポジションがわざわざ設けられていた。これは放送当時から評判になってたようですが。







 主人公の鹿目まどかたちは、「魔法少女」に変身して「魔女」と戦うわけだけど、その魔女たちはそれぞれ固有の「結界」をもっており、その中に人を引きずり込む。その「結界」の中のイメージってのがこんな感じなわけです。こちらも映画版から引用させて頂いたものだけど、きわめて情報量が多い。上は「不思議の国のアリス」、下は「白鳥の湖」がモティーフになってるようですが、他にもぎっしり詰め込まれてて、たやすくは解読しきれません。
 影響関係については、マックス・エルンストの『百頭女』ほか、いろいろなものが連想されるとこだけど、私が読んだうちでもっとも詳しかったのは、『超解読 まどかマギカ』(三才ムック vol.421)中の、屋根裏☆3世氏による考察「シュルレアリズムと劇団イヌカレー空間」ですね(「劇団イヌカレー」というのが、この「異空間設計」を担当した工房です)。そこにはロシアのユーリ・ノルシュテイン、チェコのヤン・シュバンクマイエルといった有名どころに加えて、日本のflashアーティストのお名前なども挙がってます。
 シンプルでキュートなキャラデザと、緻密かつ堅牢かつ美麗なる背景、そして独特の「イヌカレー空間」。これら三層のレイヤーが織り成す空間造形はほんとに見事で、ほとんど幻惑的といっていい。
 そしてそこに、梶浦由記さんによるBGMが被さる。『歴史秘話ヒストリア』の音楽担当といえば「ああ。」と思われる方も多いでしょう。ミサ曲のように荘厳でありつつ、あくまでもポップな曲づくり。この方の存在ももちろん欠かせません。
 そしてもちろん、練りに練ったシナリオと、声優陣の熱演……。多くの人が魅了されたのも無理はない。


 さっきから劇場版劇場版といってますが、「まどか☆マギカ」は2011年に全12話が放送されたあと(東日本大震災の影響で、最終話の放送を巡ってはかなり曲折があったそうだけど)、劇場用映画として3部作が制作・公開されたんですね。2012年の10月に『[前編]始まりの物語』『[後編]永遠の物語』の2作。これはテレビシリーズを編集し、新たなカットを加えたり、アテレコをほぼ総入れ替えするなどして再構成したもの。
 そしてその続編として、『[新編]叛逆の物語』が2013年10月に公開。こちらは完全なる新作でしたが、テレビシリーズの結末を覆すもので、ファンの間で賛否が割れたと聞いてます。そういったことを配慮してか、総監督の新房昭之氏は、「新作は劇場版の続きであり、テレビシリーズの続きではない。」との趣旨の発言をされたとか。別の世界線……というやつでしょうか。テレビシリーズはテレビシリーズ、劇場版は劇場版。近頃はそういうのも珍しくなくなりましたね。


 『叛逆の物語』は、表層の次元においては、チャイコフスキーの三大バレエ「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」をモティーフにしてると思います。「白鳥の湖」は、上記の画像でも出てましたね。
 しかし、もっと深い次元では、あれはポスト・イギリス・ルネサンス期の大詩人ジョン・ミルトン(John Milton 1608 慶長13~1674 延宝2)の『失楽園』ですね。「叛逆」は、永井豪のあの問題作『デビルマン』を媒介として、『失楽園』につながっている。まさに至高の神に叛逆するルシファーの話なんだ。
 ルシファーは明けの明星と同一視される。明けの明星。暁に燃える美しい星。暁美ほむらじゃないですか。


「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。/お前は地に投げ落とされた/(……中略……)/お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。」
(「イザヤ書」第14章)
 エンディングテーマ後のあのショッキングなラストにしても、つまりはそういうことなのだと、私は解釈しています。もとより暫定的ですが。


 ……失礼しました。つい先走って、「まどか☆マギカ」を知らない方にもわかるように書く、という方針を忘れてしまいました。「暁美ほむら」とは、この作品のヒロインです。主人公はタイトルロールの「まどか(鹿目まどか)」で、これに対する「ヒロイン」が暁美ほむらなんですね。総勢5名の「魔法少女」が登場しますが、要となるのはこの2人です。映画のほうは、まどかのために自ら望んで「悪魔」となったほむらが、夜、断ち斬られたような偃月の下、これも同じく真っ二つに断ち斬られた丘の上で、ひとしきりバレエのステップを踊ったあと、ふっと微笑み、画面の右側へ倒れこむように身を投げる、という謎めいたシーンのロングショットで終わります。


崖ではなく、丘陵が真っ二つに断ち斬られて、こんな具合になっている



これも半月ではない。真っ二つに断ち斬られた月。本来ならば「まどか」がいる筈の側が「空虚」になっている


ふと立ち上がり、ひとりでダンスを


そして、ゆっくりと身を傾けて……


ラスト(の一つ手前の)カット





 ああそうか。もうひとつ補足が要りますね。テレビシリーズ全12話(および劇場版2作)のラストにて、主人公まどかはすべての魔法少女たちの悲惨なる末路を救済すべく、自分一人があらゆる因果を背負って「神」にもまがう存在となります。その代わり、人間であった時の記録はこの宇宙から抹消され、肉親の記憶からさえ消えてしまう。生まれてきたこと自体が「なかったこと」になってしまうわけですね。『叛逆の物語』は、そうして「神」となったまどかに対し、ヒロインほむらが「人間としてのまどか」を取り戻すべく叛逆に出る、文字どおり叛逆の物語でありました。


 『失楽園』と違うのは、こちらのルシファーは、「神」を心の底から「愛して」おり、その幸福だけを願っていること。そのためなら、我と我が身を犠牲にするのも厭わない。世界設定が「聖書」のそれより遥かに捩じくれているために、彼女の情念もより屈折して、ボルテージ高くならざるを得ない。うーん……ロマン主義の極北とでも申しましょうか。
 クライマックスシーンで、暁美ほむらはこう口にします。
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの…………愛よ。」
 美しいけれど、「純文学」ではぜったいに書けないセリフですね。虚淵玄氏によるシナリオを読んでも、ノベライズ版を読んでも、コミック版を見ても、きっと心に響かないでしょう。「何のこっちゃ」という感じでね……。しかし、上で述べたような映像表現と音楽、そして声優(斎藤千和)さんの演技が加わると、それがまっすぐこちらに届く。どころか、そのまま突き刺さってきて、不覚にも、ひどく揺さぶれてしまう。まったくもってアニメってのは怖いメディアだなあと、今更のように感じますが。
 「文学」の領野でここまで激しい感情を描いて、こちらの心を揺さぶるものは、もうギリシア悲劇とシェイクスピア、あとはエミリ・ブロンテの『嵐が丘』くらいしか、私には思い当たりません。




 ところで、ギリシア悲劇やシェイクスピアをすら彷彿とさせるこの情念の劇を演じるのが、なぜ「少女」たちでなきゃならないんだろう。そんなギモンが浮かびました。もちろん、「少女」とはいっても現実の存在ではなく、抽象化され、純化されたイメージとしての少女なんだけど、それにしても、って話ですよ。
 すこし考えたんだけど、おそらくそれは、「(表象化された)少女」がほぼ「感情そのもの」の具現者たりうるからではないか。つまりまあ、まだ生活の重みを背負ってなくて、くたびれてないってことですね。それならば「少年」だってよさそうだけど、なにか足りない気がするのは、やはり奥底にひそむ「母性」の有無なのかなあ。
 冒頭でふれた「ユリイカ」の特集で、斎藤環さん(肩書は「表象精神分析」)はこう書いてます。






 漫画と、その派生物であるアニメという表現形式において、実質的に物語を駆動するのは「感情」にほかならない。より正確に言い換えるなら、意志も欲望も論理も、およそ人間の「動機」を構成するエレメントは全て、いったん「感情」として表出されねば物語が進行しない、ということである。






 それは実際そうなんで、コトバだったら「彼はこれこれこういう理由でこれこれの所業を行いました。」と地の文で説明できるけど、アニメだとそうはいかないからね。たいていのばあい、キャラたちは感情を剥き出しにしてぶつかり合う。そこが面白いわけね。しかもそれが、「宇宙の理(ことわり)を改変してしまうほどの愛」なんて壮大な感情であるならば(そういう物語なんですよ「まどか☆マギカ」は……)、それを担えるキャラクターは、どうしても「少女」のかたちをしていなければならないんじゃないか……。




 その意味では、「まどか☆マギカ」とプリキュアシリーズはまるっきり真逆のものですね。たんに深夜放送のダークファンタジーとニチアサの健全なポップファンタジーとの相違なんてレベルじゃない。
 プリキュアシリーズは児童文学なんですよ。リアリズムから飛躍はしても、つまりは近代の枠組のなかにある。明るい未来へ向かって「進歩」していくって前提がある。日々の暮らしの中で周りの人たちと協調して人格を陶冶し、それが社会人であるか、家庭人としての良きママ、良きパパであるのかはともかく、然るべき「未来の自分」へと成長する。そういう正の感性を育むお話なわけ。まさに「近代」ですね。
 いっぽう、「まどか☆マギカ」のほうは、プレモダン(前近代)でありポストモダン(近代以後)である。けして近代小説ではない。少女たちは少女の姿のまま、ひたすら時間をループする。こんな近代小説なんてない。だったら何か? 神話ですよね。
 しかも、本編および『叛逆の物語』においては、まがりなりにも「神」と「悪魔」の誕生を描いてしまった。だから、私が当ブログにて濫用する比喩としての「神話」ではなくて、文字どおりの神話なわけだ。




 私は昔からニーチェが好きなんで、「キリスト教とは?」みたいな本もすこし齧ったんだけど、理屈ではともかく、「身に沁みてわかる」という按配には結局ならなかった。いちばん響いてきたのは岩波文庫の『アベラールとエロイーズ 愛と修道の手紙』(旧版)だけど、『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』は、あるいはそれを凌ぐかもしれない。「信仰」ってものが生まれ出る機微が、ほんの少しだけわかったような。そんな気さえしてます。やっぱりアニメってのは、怖いメディアですねえ……。













2 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-06-24 21:46:13
正義の魔法少女ってアニメイトの店員に聞いたところ、まどかマギカを勧められた。
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なるほど。 (eminus(当ブログ管理人))
2021-06-24 22:16:12
 そうですか。でも魔法少女ってたいてい正義の側じゃないかなあ。さいきんは色々とヴァリエーションがあるみたいだから、必ずしもそうとは言えないのかな。
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