ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

1945年以前を舞台にした映画リスト。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
初出 2013/09/29(のち一部を改稿)


 「ある特定の時代に書かれた小説/作られた映画」を調べ上げるのは容易いけれど、「ある特定の時代を舞台にした小説や映画」について調べるのは厄介だ。ためしに『1930年代を舞台にした(あるいは、「背景にした」)映画』というワードで検索を掛けてみたけども、思わしい結果は得られなかった。腰を据えてやったわけじゃないので不備があるかも知れないが、ネット文化の盲点といえる気もする。こんなときにはやはり書物のほうが役に立つ。

 手元にある映画関連の本を見ると、子供の頃に「日曜洋画劇場」や「金曜ロードショー」なんかで観た有名な映画がけっこう意外な時代を舞台にしていて面白かった。ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード主演のニュー・スタイル西部劇『明日に向かって撃て!』は1969年の作品だが、舞台は1900年つまり明治33年なのだ。「西部劇」といったらせいぜい19世紀の半ばくらいじゃないかと思ってしまうが、じっさいにはアメリカの一角では20世紀の初頭まで無法者たちがパンパン撃ち合いをやってたわけだ。今もなお社会に暗い影を落とす「銃への信仰」のルーツの一端が垣間見えるようだ。しかしこの時代にはもう「映画」というジャンルは誕生しており、ゆえに「最初の西部劇」といわれる1903年の「大列車強盗」なんてのはじつは「同時代映画」であったということになる。

 作品としてはたんなる大げさなメロドラマだが、記録的な興行収入を上げて賞も貰った『タイタニック』は1912年つまり大正元年が舞台。これは史実に即しているから分かりやすい。しかしあの映画を観たひとのうち何人くらいが「これは大正元年のことなんだ……」と認識していたか怪しいように思うので、いちおうここに書いとこう。なお、「タイタニックの悲劇」を描いた映画で、あれほどカネは掛かっていないが優れたものは他にもっとたくさんありますよ。

 『風立ちぬ』のコメント欄で話に出たウォーレン・ベイティーの『レッズ』は、1917年つまり大正6年のロシア革命に衝撃を受けて母国アメリカに共産主義運動を根付かせようとした実在のジャーナリスト/社会活動家ジョン・リードを描いた作品。「レッズ」とはまさに日本語でいう「アカ」である。長く重厚な作品だが、これが封切られたのが1981年つまり昭和56年というのが興味ぶかいところ。時あたかもタカ派のR・レーガン(思えばこの人も元俳優)が大統領の座に就き、「新自由主義」の原点のひとつ「レーガノミクス」を推し進めていた時期であった。ハリウッドの映画人たちが気骨を示したということか。1917年はまた第一次大戦のさなかでもあって、ピーター・オトゥール主演の『アラビアのロレンス』もこの時代が舞台ということになる。製作は1962年。高校の世界史の若い女性の先生がこの映画の(そしてたぶんピーター・オトゥールの)大ファンだったのをいま思い出した。

 映画そのものを観たことがない若い人でも主題歌だけは必ずどこかで耳にしているジーン・ケリーの『雨に唄えば』は1928年つまり昭和3年が舞台。無声映画からトーキーに移り変わる映画界のウラ事情が背景となっている。作られたのは1952年。1950年代には1920年代を描いた佳作がいろいろ作られており、マリリン・モンローの代表作のひとつ『お熱いのがお好き』もその中の一本だ。「聖バレンタインデーの虐殺」を目撃してしまったばかりにマフィアから狙われ、女装して逃げ回るトニー・カーチスとジャック・レモンの珍道中を描いた喜劇。製作は1959年だけど、舞台は1929年つまり昭和4年。1920年代はジャズエイジと呼ばれるが、アル・カポネを筆頭にギャングの跳梁した物騒な時代でもあった。もちろん1929年は、NY市場の大暴落に端を発した世界恐慌勃発の年でもある。海の向こう、ニュルンベルクではナチスが60万人を集めて党大会を開催した。第二次世界大戦の胎動は少しずつ高まり始めていたのである。

 続いて1930年代を舞台にした映画をリストアップ。「忙中自ずから閑あり」ってやつで、暇を見つけて気分転換に書いてるので、とうてい網羅的なものではない。まあ茶飲み話と思ってお読みください。まず1930年つまり昭和5年といえば、前年の世界恐慌の余波が隅々まで行きわたり、失業者が街にあふれた年。この年のニューヨークのありさまを描いたハリウッド映画がないはずはないと思うんだけど、ぼくにはちょっと思いつかない。心当たりのある向きはコメント欄でご教示を賜れば幸いだけど、とりあえずここでは名匠ジョン・フォードが1930年の中西部の惨状を描いた『怒りの葡萄』を挙げておきましょう。原作は言わずと知れたスタインベックの同題の名作。作られたのは1940年とかなり早くて、ほぼ同時代と言える。スポットが当てられているのは都市生活者ではなくオクラホマに住む農民だけど、アメリカ流のプロレタリア文学というべき一大叙事詩で、今も新潮文庫で手に入る。

 そんな中でもエンパイア・ステート・ビルなんてものをぶっ建ててしまうのがアメリカって国の凄いところ。摩天楼という言葉はここから生まれた。1931年つまり昭和6年に完成したこのエンパイア・ステート・ビルをさっそく舞台にしたのが2年後の1933年に作られた『キング・コング』。追い詰められたコングは愛する美女を守ってこの天辺から墜落する。まあ地上最大のストーカーというべきか。特撮怪獣映画の原点でもあり、この作品自体が一つの「記念碑」と呼べるかもしれない。キング・コングはアメリカ人の琴線にふれるのか、このあとも繰り返しリメイクされる。

 ライアン・オニールと実娘のテイタム・オニールが共演し、テイタムが史上最年少(この記録はまだ破られていない)でアカデミーを取った『ペーパー・ムーン』は1973年つまり昭和48年の作品だが、1932年つまり昭和7年を舞台にしている。このあいだ続編が公開されたフルCGアニメ『怪盗グルーの月泥棒』や、コンゲームものの要素を加味した『マッチスティック・メン』など、「要領よく世の中を渡ってきた無責任な男が、ある日とつぜん《子ども》を得ることによって生活が激変し、人間として成長していく」という物語類型のおそらくこれが原点かと思う。日本のドラマでも手を変え品を変えこのパターンは作られており、脚本家と演出家と主演男優と子役の力量がキビしく問われる次第となっている。

 1934年つまり昭和9年ごろの、「行き場のない若者たちの焦燥と暴走」を描いた作品といえば何といっても『俺たちに明日はない』。主演はウォーレン・ベイティーとフェイ・ダナウェイ。ふたりの演じた「ボニーとクライド」は固有名ではなくもはやほとんど普遍名詞であり(宇多田ヒカルの歌にもある)、この作品もまたひとつの物語類型の原点といえよう。公開は1967年つまり昭和42年で、ベトナム戦争の真っ只中だった。そういった時代背景へのメッセージが込められてるのは言うまでもない。

 1936年つまり昭和11年はベルリン五輪、226事件、スペイン内乱と内外で大きな出来事があった。ベルリン・オリンピックを神々しく撮った記録映画が女性監督レニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』。むろん国策映画なのだが圧倒的な完成度を誇る名作であり、その芸術性は認めざるをえない。7年後の東京五輪でもひょっとしたら類似の企画が立てられるかもしれないが、だれが監督に選ばれたとしてもこれを超えるのは至難であろう。スペイン内戦を扱った作品としては、じっさいに従軍したヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』が1943年にゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演で映画化されている。戦時下において『風と共に去りぬ』や『誰がために鐘は鳴る』なんかを作っちゃう国と戦争しちゃあいけません。

 1938年つまり昭和13年になると、欧州全域にヒトラーのナチス・ドイツの恐怖が行きわたる。これを痛烈に風刺したのがご存知チャップリンの『独裁者』。子供のころに観たときはただ笑い転げただけだったが、20代半ばで再見した際はご多分に漏れずあの演説シーンで涙が出た。「チャップリンのああいうところが好きになれない。」と言ってバスター・キートンのほうを支持する喜劇通の方も少なくないようにお見受けするが、やっぱりチャップリンの偉大さは否定できないと思う。彼がこれを作ったのは1940年で、だからさあ、戦時下において『独裁者』なんかを作っちゃう国と戦争したら駄目だっての。

 1938年を舞台にした映画で、もう一つ忘れてはならないのが『サウンド・オブ・ミュージック』。製作は1965年つまり昭和40年だけど、超大作『クレオパトラ』のせいで会社が傾いた20世紀フォックスは、この作品の思いもよらぬ大ヒットのおかげで持ち直したといわれる。ジュリー・アンドリュース演じる修道院出身のマリアが、トラップ一家の7人の子供と共にアルプスを越えてスイスに亡命するのは、オーストリアがナチス・ドイツに併合されたためだった。彼女と子供たちとの関係性もまた、ひとつの「物語類型」として、その後のいろいろなドラマに影響を与えているに違いない。

 このあとはいよいよ戦争の影が世界を覆い、「この時代を舞台にした映画」といえばたいていが戦争ものということになる。そろそろ時間もなくなってきたし、1942年つまり昭和17年を舞台にした名作中の名作を最後に挙げておきますか。そう。もちろん『カサブランカ』。しかもこの映画、その1942年に製作されているわけで、じつは同時代映画なのである。だから戦時下において『カサブランカ』なんかを……もういいか。

 モロッコのカサブランカが舞台となっているのは、戦火のヨーロッパを逃れてアメリカに渡ろうとする人たちが、この地でリスボン経由アメリカ行きの切符を手に入れたいがためである。数々の名シーン、名せりふに彩られた作品ながら、なにぶん戦時下ゆえに現場はかなり混乱しており、ラストシーンでイルザが夫と逃げるかハンフリー・ボガートのもとに留まるか、ぎりぎりまでシナリオが決まらなかったという話もある。イングリッド・バーグマンが困っていたそうだ。それであれだけのものに仕上がっちゃうんだからなあ……。この名作もまた、その後に続くたくさんのドラマに決定的な影響を与えているのはいうまでもない。「乾杯だ。こうやって、ここで君を見ていられることにね。」を「君の瞳に乾杯。」と訳したのは、当時の字幕屋さんの大手柄であった。








映画評 『王の男』/『墨攻』

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
『王の男』




初出 2007/01/16

 シンクロニズムというべきか、このあいだ映画について書いたあと、知り合いからチケットを譲られたのである。「このところ妙に目が肥えちゃって、近ごろの映画はどうもね」などと生意気を言っていたものの、そこはおれも根が映画好き、ただでスクリーンで見られるとなると、いそいそと上映館に足を運んだのだった。

 作品は、韓国映画『王の男』。もとよりおれは韓流ブームとやらの蚊帳の外におり、ヨン様にもチャングムにも特に興味はなかったが、ただ一本の映画によって、「韓国映画、侮りがたし」との感を抱いてはいたのだった。それは1996年にイム・グォンテクなる監督の撮った『祝祭』って作品で、これも偶然に観たんだけど、感心した。繁茂する蔦のように縺れ合い絡み合う縁戚関係が圧巻で、中上健次を思い起こした。なるほど中上亡きあと、日本文学が貧血気味なのも無理はないなと思ったもんである。

 ただし今回、『王の男』に関しては、始まるまでは期待半分ってとこだった。それも道理で、タイトルやポスターの売り線と、作品の本旨とがずいぶん違う(ま、そういうことってよくあるけど)。原題は『王と道化』で、当然こちらがテーマに近い。女形の芸妓が美貌を生かして宮廷に入りこみ、王の寵愛を奪う話かと思ったら、そうじゃないのだ。

 今も上映中の映画だし、詳しいことはネタバレになるから控えるけれども、これは身分卑しき二人の大道芸人と、権力機構の頂点にある王(しかもこの王、李朝史上最悪の暴君でもある)との、凄絶にしてプラトニックな三角関係の話なのである。

 とにかく主演の三人の男優がいい。フィガロや吉四六に通じるトリックスター的知性と、ヒーローにふさわしい鉄の信念とを兼ね備えたチャンセン役のカン・ウソン、妖艶というよりむしろ、見ているうちに哀切さが胸に迫ってくるコンギル役のイ・ジュンギ、そして何より、癇癖と幼児性とを醸し出しつつも、全編を引き締めるに足る王の威厳と、不幸な生い立ちから来る孤独を見事に演じた燕山君役のチョン・ジニョン。この三人のうち誰が欠けても、この映画は成立しなかった。

 この『王の男』、もとは舞台劇だったとのことで、芸人たちの演じる仮面を用いた道化芝居をはじめ、人形劇や影絵など、劇中劇が多用される。それに加えて絶対権力者たる王と、社会のあらゆる機構から外れた芸人たちとが交錯するとなると、これはもう、シェイクスピアの世界である。現実と虚構、真実と悪ふざけ、聖と賤、権威と卑俗、高雅と猥雑、規律と退廃、大人の厳粛さと子供じみた哄笑、愛と残虐、栄光と失墜、そして、男性性と女性性。これら無数の対立項が、目まぐるしく混在しながらせめぎあう世界。少なくともおれは、当代の日本映画において、ここまでシェイクスピアを自家薬籠中のものにした監督ってのを思い出せない。

 のみならず、美しい女形と、逞しい男役との強い絆といったらチェン・カイコーの『さらば、わが愛 覇王別姫』(1993年)だし、孤独な王が虚無の翳りを漂わせながら悦楽に興じる情景は、ヴィスコンティーを思わせる。つまりこの監督は勉強熱心なのであり、その勉強が優れた俳優たちを得て鮮やかに具象化したのがこの作品であって、あげく、おれは鼻水と涙でぐしゃぐしゃになるほど泣かされちまったのだった。

 だいたいおれは、ふだんは冷血漢のくせに、スクリーンの前では他愛なく泣き上戸になっちまうんだけど、しかしここまで泣いたのは、ジュゼッペ・トルナトーレの『明日を夢見て』(1995年。イタリア)か、ホセ・ルイス・クルエダの『蝶の舌』(1999年。スペイン)以来であろう。じっさい、良い映画だと思う。『硫黄島からの手紙』と並んで、微力ながら、ぜひ推薦しておきたいのだ。それとともに、日本映画よ、もうちょっとしっかりせんかい、韓国映画に負けとるやないか、と、この場を借りてなぜか大阪弁で檄を飛ばさせていただきたいのである。

 付記 じつは私は韓国に対してかなり屈折した思いを抱いているが、しかし優れた芸術ってやつが、わだかまりを超えて直截に胸に迫ってくるのは確かである。まさに文化は最上の外交手段だと言うべきだ。戦後、クロサワ映画の果たした役割は、いかなる外交官よりもたぶん大きいものであったろう。そういえば黒澤明(1910 明治43~1998 平成10)こそ、私の知る限り、シェイクスピアをもっとも深く血肉化した日本映画の作り手だった。



『墨攻』



初出 2007/02/06

 舞台は紀元前370年ごろの中国。秦が初めて全土を統一する前の、いわゆる戦国時代で、斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の七つの国が乱立し、互いに食うか食われるかの争いを繰り広げている。さらにそれ以外にも、正史には名を留めぬほどの、国とも呼べない小規模の邑(むら)があちこちにある。これらは周りを城壁で囲み、いちおうの独立を保ってはいるが、大国が本気で攻め立ててくればひとたまりもない。いわば、王とは名ばかりの地方豪族が率いる城塞都市だ。

 ここに「墨家」という集団がいた。兼愛(博愛)を説き、平和を尊び、大国に対しては周りの小邑を侵略せぬよう勧告するが、その勧告が受け入れられぬと見るや、標的にされた邑に赴き、それを助けて防衛に努める。とうぜん策謀にも優れ、軍事技術にも長けている。しかし傭兵とは異なり、見返りは一切要求しない。さらに、その軍略は守勢に徹し、けしてこちらから攻めることはない。「墨守」という言葉はここから生まれた。さながら「実践的平和主義」とでもいうか、儒家、法家、道家(老荘)など、個性豊かな思想集団があまた現れたこの時代においても、際立って特異な存在だった。アンディ・ラウの演じる主人公の革離は、そんな邑のひとつ「梁」の王に請われて、趙の侵略からこの「国」を護るべく、単身、救援に駆けつける。

 『墨攻』は、中・韓・香港・日の合作映画だ。まずは、アジアの映画界からハリウッドの大作に匹敵するほどの重厚な作品が生み出されたことを素直に寿ぎたい。しかも、徹底して全編のテーマを「戦争の惨苦」に絞りこみ、主人公の側から見た「敵兵」の痛みにまで気を配っていた点は、まことに良心的だと思う。

 さて。料金を払って映画館で見るに値する映画だということを前提にした上で、個人的にはいくつか言いたいことがある。何よりもまず、アンディ・ラウを起用した時点で、この映画には一定の制約が課せられることになった。彼の演じる革離は理系の軍事技術者であり、本来その職務は城砦の整備・武器の製造・人材の育成といった地味な作業なのだが、映画ではそういった細部の描写を割愛して、アクションシーンを含めた派手な見せ場を作らなければならない。その分だけ流れが粗くなったのは否めない。

 ファン・ビンビンの呆れるほどの美しさも、残念ながら作品のリアリティーを損なっていた。いかに名将の娘であっても、若い女性が騎馬隊長という設定はどうか。しかも彼女が、あの非常時において、親しげに革離のもとに通うのは合点がいかぬ。酒見賢一の原作(新潮文庫『墨攻』)では、戦時下における男女の交流は死に値する罪だと全員の前で革離自身が宣言しており、当然かくあるべきだと思う。

 最大の問題点は、「非戦」を旨とする革離が、そもそもの初めになぜ降伏案を退け、徹底抗戦を主張したのかがいまひとつ分かりにくいことだ。それが墨者としての使命だからというのは理由にならない。原作を読めば納得できるが、映画の観客にしぜんとそれが伝わらなければ駄目なので、あれでは革離は梁王一派にただ利用されただけとも見える。そのため、戦の悲惨さが執拗に描かれれば描かれるほど、革離の当初の判断が疑わしく思え、感情移入が難しくなるのだ。

 ハリウッドのライターであれば、たぶん冒頭に革離の少年時代のシーンを置いたはずだ。幼い革離の住む邑(むら)が大国に狙われ、大人しく降伏したにも関わらず、兵士たちに蹂躙されて、住民は皆殺しにされる。そんな中、かろうじて彼だけが生き延び、墨家の集団に拾われる。そんなエピソードを作って挿入しておけば、説得力が遥かに増した。

 ついでにいうと、ハリウッドのライターであれば、後半部分のプロットは次のようにしただろう。革離の見事な指揮のもと、梁は大国・趙を追い払い、趙軍は退却する。すると梁王はたちまち態度を翻し、革離に謀反の濡れ衣を着せて、牢に閉じ込めてしまう。しかし退却したと見えた趙軍は、とんぼ返りで兵を戻して攻めかかり、革離のいない梁軍は、脆くも城砦を破られてしまう。そこで梁王はまたも態度を翻し、革離に再度の助力を請う。逸悦(ファン・ビンビン)はそんな梁王に愛想を尽かし、二人きりで逃げようと革離に言うが、民衆を見捨てられない革離は彼女の誘いを振りきって、決死の抗戦に打って出る。逸悦も死を覚悟して彼に従う。  これがハリウッド製ヒーローものの定跡だ。

 『墨攻』があえてこの定跡を外し、ごちゃごちゃと捻った展開にしたのは、ハリウッドとアジア映画とは違うと言いかったのか。とは言え、梁王とその側近たちのキャラクター設定は絶妙だった。あのような小国の太守や将軍なんて、まさにあんな感じだと思う。猜疑心が強く、保身だけを考え、大局が見えない。梁王や牛将軍の描き方において、映画は原作をはっきり上回っていた。

 勝手なことを書き散らしたが、戦闘シーンの迫力といい、徹底して戦争の惨苦を訴えたテーマといい、『墨攻』がアジアの生んだA級の作品であることは間違いない。そのことは最後に改めて強調しておこう。

俳優・原田芳雄の思い出

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽






初出 2011年07月20日


 ピーター・フォークのあと、こう立て続けに好きな俳優の追悼文を書くことになるとは思わなかった。ただしフォーク氏の場合、すでに現役を退いていたし、ここ数年は重度のアルツハイマーという報道もあって、こちらにも或る程度の覚悟はあった。しかし原田さんは、『火の魚』での白いスーツに身を包んだ姿があまりに颯爽としていたから、まったくそんな心配はしていなかった。三年前(2008年)に大腸癌の手術をされたのは知ってはいたが、早期とのことであったし、大事に至らず乗り越えられたものだとばかり思っていたのである。遺作となった『大鹿村騒動記』の試写会がこの11日に行われ、車椅子でその場に臨まれたのだが、すでに言葉を発することができず、メッセージは石橋蓮司さんが代読した。そのときの映像を初めて今朝のニュースで見た。頭髪はなく、痩せ衰えて痛々しかった。死因は肺炎とのことだが、腸閉塞を併発されていたそうだから、やはり癌の影響があったのだろう。享年71歳は、弟分だった松田優作の40歳と比べれば、「早すぎる」とまでは言えないが、やはりショックは拭えない。老境に足を踏み入れ、いっそう円熟味を増して、村田省三のような魅力あふれる人物像をもっとたくさん見せて欲しかった。大物政治家や大企業の重役などよりも、やはり芳雄さんには幾つになっても市井のアウトローっぽい役柄が似合う。しかしこのように考えていくと、『火の魚』というテレビドラマが名優・原田芳雄への深いリスペクトに基づいて作られた作品だったことがつくづく分かる。

 1940(昭和15)年生まれといったら、アメリカだとアル・パチーノと同い年である。ダスティン・ホフマンとジャック・ニコルソンは三歳上、ロバート・デ・ニーロは三歳下だ(ちなみにピーター・フォークは1927年生まれで、ずっと上の世代になる)。日米の映画界を単純に比較はできないが、これらの俳優たちが台頭してきた1960年代後半から1970年代にかけては、従来の撮影所のシステムが崩れ、テーマのうえでも手法の面でも、「映画」というメディアが大きな変貌を遂げた時期であった。もちろん政治の季節でもあった。ベトナム反戦を主幹に据えた反体制ムーブメントを背景に、いわゆるアメリカン・ニュー・シネマの動きが燎原の火のごとく燃え盛っていた頃である。日本では、日本アート・シアター・ギルド(ATG)が、いわばジャパニーズ・ニュー・シネマの中心を担った。ぼくなんか、原田芳雄といえば真っ先にATGを思い浮かべる。そのことはこのブログでも何度か書いてきたけれど、しかし平成生まれの若い人には、そのATGのことから説明せねばならないんだろうなあ。手近に適当な資料がないので、またしても「困ったときのウィキ頼み」になってしまうんだけど、ウィキペディアによれば、「日本アート・シアター・ギルドは、1961年から1980年代にかけて活動した日本の映画会社。他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を担う人物を育成した」組織ってことになる。ウィキの記述をさらに引く。

 「良質のアート系映画をより多くの人々に届けるという趣旨のもとに設立され、年会費を払って会員になると多くの他では見られない映画を割安の価格で観られたため、若者たちの支持を得た。60年代から70年代初めの学生運動、ベトナム反戦運動、自主演劇などの盛り上がりの中で、シリアスな、あるいはオルタナティブな映画に対する関心は高かった。当時は御茶ノ水近辺に主要な大学が集中しており、新宿が若者文化の中心となっていて、ATGの最も重要な上映館であった新宿文化は、話題の映画の上映となると満員の盛況であった。……(中略)…… ATGの活動は、主に外国映画の配給を行っていた第1期、低予算での映画製作を行った第2期、若手監督を積極的に採用した第3期に大別することができる。…………」

 つまりは、「松竹・東宝・東映」といった既成の大手が制作・配給するお仕着せの作品に飽き足りなくなった映画人たちが立ち上げ、良質のファンが支えた新世代の映画集団と要約してもいいかと思う。原田芳雄は、この「低予算での映画製作を行った第2期」を代表する役者のひとりであった。松田優作との初共演ということもあり、半ば「伝説」のように扱われている『竜馬暗殺』をはじめ(ただ二人の絡みのシーンはさほど多くはなかったが)、『田園に死す』『祭りの準備』など、ぼくの脳裡に焼き付いている初期原田芳雄のイメージはほとんどATGの作品である。ただし、原田芳雄という役者はけっしてそういう「アングラ」一辺倒のひとではなくて、大手メジャーの作品はもちろん、テレビドラマにもしょっちゅう出ていた。そもそも俳優座に籍をおきながら役者としてデビューを果たしたのはフジテレビのドラマだったし、そこで演じた「純朴な青年」像を打ち破り、のちに繋がる「ワイルドなアウトロー」路線へと転換を果たしたのも松竹映画『復讐の歌が聞える』であった。当時の演劇青年のあいだには、舞台こそを役者の仕事の第一義とし、映画やテレビを低く見る傾向があったようだが(そしてそれは、とても真っ当で健全な考えだと思うが)、原田さんたちの世代は日本においてそういう風潮をかえる先鞭をつけたといえるかもしれない(時代の趨勢とは言いながら、そのことに批判的な意見を持つ層ももちろんいるであろう)。

 ぼくはおじさんだけどそれほどの齢でもないので、その時代のことを肌で知っているわけではない。しかしぼくが青春期を過ごした80年代前半(バブル前夜)にはまだそこそこ70年代の余熱が残っており、深夜テレビでけっこうATGの作品をやっていたのである。『竜馬暗殺』も『祭りの準備』も、高校の頃にテレビで観たのだ。『田園に死す』はNHK教育テレビで観たと思う。ほぼ5~10年くらいのタイムラグで、ATG全盛期の熱気に触れていたことになる。そのことはおそらくぼくの映画観やらドラマ観、さらには芸術全般や社会に対する考えの基礎にもなっていると思うのだが、バブルの到来によって、その頃の空気は一掃されてしまった。だから90年代以降に産まれた世代と、どれくらい感覚が共有できているものか、いつもブログを書きつつ心もとない気分でいる。

 ところで、じつはぼくが初めて原田芳雄の顔と名前を覚えたのは映画でもなければドラマでさえなかった。タモリが土曜の夜にやっていた、本邦のテレビ史上唯一の大人のためのバラエティーショー、「今夜は最高!」だったのである。タモさんをホストに、毎回男女ひとりずつのゲストを迎えてトークやコントや歌を楽しむ愉快な番組で、その夜のもう一人のゲストは、忘れもしない大原麗子だった(この方も故人になってしまった……)。番組冒頭でちょっとした寸劇をやる趣向があって、原田芳雄は私立探偵、大原麗子は彼に仕事を依頼しに来る謎めいた美女という設定だった。いかにもありがちなパターンで、まあパロディーみたいなもんなのだが、お二人とも、余興の寸劇にしてはもったいないほどカッコよくて様になっていた。なにしろあの声音である。ぼくはわりあい声に敏感なほうだと思うのだが、あの頃の芳雄さんの声は今にも増して、びんびんと体の奥に伝わってくる感じであった。鋼のように芯が通っていながら色気があってしなやかで、ああいう声質はほかにジャニス・ジョプリンくらいしか思い当たらない(最近では、スガシカオがちょっと近いかな?)。それに麗子さんのあのハスキーな甘い声が絡むのだからたまらない。

 「存在感」という言葉が当時まだ残っていたけれど、とにもかくにも、これほど存在感をたたえた役者はほかにいなかった。「な、な、なんだこの人は?」と思い、その時からたちまちファンになってしまった。『B級パラダイス』という写真入りのエッセイ集(同名の歌もある)を買って、高校を出るまで愛読していたものだ。「ダウンワード・パラダイス」はナイン・インチ・ネイルズ「ダウンワード・スパイラル」のもじりだけれど、ブログをやるに際してぜひ「パラダイス」という単語を入れたいと思ったのにはその影響もあったのだ。

 80年代前半の原田芳雄は、そのほかにも、宇崎竜堂、松田優作両氏とともにビールのCMに出たり、田村正和とコンビで洒落た大人の恋愛ドラマ『夏に恋する女たち』に出たりと、テレビにけっこう露出して、楽しげにやっているように見えた。しかし当時を代表する一作といえば何といっても鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』であろう。これは生涯を通じて百本以上の映画に出た原田芳雄の代表作といっていいと思うし、日本映画を代表する傑作でもある。ぼくにとってもまた、黒澤明の『生きる』や川島雄三の『幕末太陽伝』と並び、十代後半といういちばん柔らかな時期に観て、決定的なインパクトを受けた作品であった。このうち『生きる』は1952年、『幕末太陽伝』は1957年の作品だから、同時代の映画としては、『ツィゴイネルワイゼン』と、その姉妹編というべき『陽炎座』の二作とが、自分にとってのファースト・インパクトだったということになる。二十歳のときのゴダール・ショックに先んじて、清順ショックがあったのだ。その二作ともに原田芳雄が出ていたし、また原田芳雄なかりせば、これらの作品は成立しなかったであろう。

 『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒、『陽炎座』は泉鏡花と、日本文学史上においてその特異さで傑出した鬼才の小説が原作だが、鈴木清順は一歩も引けを取ることなく、原作のテイストを生かしつつ、独自の妖しくも絢爛たる世界を作り上げている。そして、これらもまたATG系列の作品であった。原田芳雄という人は、小難しい演劇理論を口にしたり、芸術ぶったりするところは全然なかったけれど(むかし「ユリイカ」の鈴木清順特集におけるインタヴューで、かなり高度な話をしていた記憶があるが、印象としてはあの人は、誰かがそういう話を始めたら、そっと逃げ出す感じがする)、やはりATG作品にあってこそ、その類いまれなる個性を十全に発揮する役者なのではなかったか。じつはNHKの作るドラマは、このあいだ再放送していた向田邦子さんの『阿修羅のごとく』もそうだけど、その最良の部分においてATGを髣髴とさせるところがあり、『火の魚』はその伝統に連なるドラマであったといえる。それゆえにあの作品は、晩年の原田さんを代表する名作となりえたのであろう。

 訃報に接して、とりあえず、もういちど『火の魚』を観たいと思う。尾野真千子さん演じる折見とち子の造形があまりに見事だったゆえ、どうしても彼女を主体に見てしまっていたあのドラマを、今ならば村田省三の側から見ることになるだろう。かつてぼくは、折見を前にして無理難題を言う村田のことを、「老いの悲しさというよりも、不良少年のまま老境を迎えたナルシストのわがままだけが伝わってくる」と評したけれど、今だったら違う印象を抱くかもしれない。そして、折見のことを思いやりながら流した涙を、村田省三のために、いや、不世出の俳優・原田芳雄のために流すことになるだろう。



ピーター・フォークの思い出

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽


初出 2011/07/13


 ああ。そういえばピーター・フォークさんが亡くなったんですねえ。そのことを書くのを忘れていた。刑事コロンボ……。懐かしいっていうよりも、ほとんど我が幼年期の記憶に溶け込んでいる。小学校に上がるか上がらないかくらいの時期に日本での放映が始まって、終わったのは、そう、たしか高一のときだったなあ。放映完全終了の告知にショックを受けて、クラス日誌にそのことを綿々と書き綴ったからよく覚えてる。級友の評判はよくなかったけど。だいたいクラス日誌なんてのは、学校で起こった出来事を書くもので、そんな私的な思い入れを大学ノート数ページにわたって述べ立ててどうすんの? そんな反応がかえってきたような。空気を読まずに好き勝手なことを人目もはばかることなく書き散らす習性は、あの頃からすでに始まっていたらしい。いやそんな話はどうでもいい。

 ここでいう「刑事コロンボ」は、89年以降に作られた新シリーズを含まない。本国アメリカで68年にオンエアされた「殺人処方箋」から、78年の「策謀の結末」まで、全45作のことである。90年代に日本テレビの「金曜ロードショー」枠で放送された新シリーズはぼくも何本か見たし、面白いのも幾つかあったが、概して言えば「なんか違う。」という気がした。スタッフも一新されたんだろうし、フォーク氏本人も齢を食ったし、撮影所のシステムも変わったろうし、技術も長足の進歩を遂げたし、他にも理由はたくさんあるんだろうけど、何よりもその違いは、アメリカという社会そのものの変質を図らずも浮き彫りにしているように思えた。この点をじっくり掘り下げていけば相当に面白い考察ができるはずだが、残念ながら今のぼくには手に余る。

 このドラマが集中的に放映されていたのは、73年~75年くらいの間だったと思う。NHK総合テレビで、土曜日の夜8時から。「連想ゲーム」のあとだった。だからいつも家族で揃って見ていた。毎回必ずひとり(時には二人)の人物が殺されはするけど血なまぐさい描写はほとんどないし、エッチなシーンも皆無だから、家族で見るにはうってつけだった。ご存知のとおり「コロンボ」の構成は「倒叙もの」といわれ、冒頭でいきなりゲスト・スターが犯行に及ぶ。だから通常のミステリーとは違って、視聴者の楽しみは「犯人当て」には向かわずに、「犯人はいかなるミスをしたのか?」「それをコロンボがいかにしてあばくか?」という点に集まる。そのぶん茶の間の推理ごっこも複雑でコクのあるものになった。「あ、そうか。たぶん今のがヒントなんだよ。ほら」などと指摘して、それが的中したら嬉しかったものだ。

 季節を問わないよれよれのレインコートにもしゃもしゃの頭髪。ヒゲの剃り跡が青く残った赤ら顔に、片目をしかめた独特の面差し(当時はまだ知らなかったが、フォーク氏の右目は本当に義眼だった)。そして何より、「うちのカミさんがね……」「すぃません、あと、もうひとつだけ」「あたしの甥っ子で、病院の皮膚科にいる奴の説だとね……」「さぞ、ぶったまげるでしょうなあ」「イタリア人で音痴なんてなァあたしだけでしょうねえ」といった、ユーモラスで物柔らかな語り口。今は亡き小池朝雄さんによるあの吹き替えは、山田康雄さんの「ルパンⅢ世」と並んで日本声優史上に残る名演だと思うが(お二人とも本職は舞台俳優で、声優専業の人ではない)、ほんもののピーター・フォークの口調は、もっと甲高くて攻撃的で、「カリフォルニア・ドールス」などで吹き替えをやった穂積隆信さんに近い。「コロンボ」を日本に持ちこむに当たってああいう口調に変えたのは、小池氏ご本人と、当時の演出家による工夫だったらしい。このドラマは世界各国で放映されたが、日本の視聴者はじつに幸福であったと言える。

 「うちのカミさんがね……。」は流行語にもなったし、コロンボ警部は70年代を代表する顔であると共に、海外ドラマでありながら、ニッポンの昭和を代表する顔の一人ともなった。レギュラー放送が終わったあとも、歳末やお正月などにたびたび特番のようなかたちでオンエアされ、十年あまりにわたって繰り返しブラウン管(だったんですよ当時はね)に登場していた。それゆえこちらの成長過程のさまざまな記憶と結びついていて、よりいっそう忘れがたいわけである。田舎に帰郷してイトコたちと一緒に見たこともあった。優等生の従妹が先の展開をぴしぴし当てるので悔しかった。そんな思い出もある。ピーター・フォークはたぶんぼくが初めて名前を覚えてファンになった俳優であり、人生で最初に好きになったのがダンディーな美男スターではなくてこの手の「性格俳優」であったことは、のちに原田芳雄、根津甚八といった癖の強い役者に惹かれていくきっかけになったとも思う。そして何より、アメリカ製エンタテイメントの洗練ぶりを思い知った。「一見すると風采の上がらぬ凡庸な男が、じつは大変な人物だった。」という設定は日本でいえば「水戸黄門」に相当するが、「頭が高い、控えおろう。この紋所が目に入らぬか。」「ははぁーっ。」なんかに比べて、どう見てもあっちのほうが知的で粋で洒落ているのは明らかだろう。

 「コロンボ」の王道パターンは決まっている。さっきも書いたとおり、まず冒頭で犯人が殺人をおかす。その時点では視聴者は、彼の顔だけは分かっているが、それがどのような人物で、被害者とどんな関係にあったのかはまるで分からない(だから動機もわからない)。やがて遺体が見つかり、警官や鑑識の人たちがものものしく行き交う中を、「のこのこ」といった感じでコロンボ警部があらわれる。額に手を当て、「あたしゃダメ。血を見るだけでのびちゃう。」などと言いつつも、「ホトケさん」(彼は遺体のことを必ずこう呼ぶ)のことはしっかり観察しており、たとえば「刺し傷の角度から見て、犯人はおそらく左利き」みたいなことを絶対に見逃さず、犯人を追い詰めるための材料にする。次のシーンでは犯人との最初の出会い。これはたいてい相手の自宅か仕事場に赴いて行われることが多い。医者や弁護士、建築家や著名な作家など、犯人はすべて社会的地位と資産を備えた名士であり、自宅であれば大邸宅だし、仕事場であればビルのワンフロアをまるごと占有するような広さである。当時の日本の視聴者にすれば、そういったセレブたちの(そんな言葉はまだなかったが)「業界の内幕」を垣間見るだけでも十分に刺激的だったはずだ。

 「初めまして。あたし、ロス市警のコロンボといいます」「ほう。警察の方がなんの御用ですかな」「じつはエリックさんのことでちょっとお話が……。ご存知ですよね、エリック・アダムスさん」「ああ、もちろん。彼はわが社の優秀なコンサルタントでね。私の長年の友人でもある。彼がどうかしたのかね?」「じつは……あの……気を確かにお持ちくださいよ。……お亡くなりになりました」「(驚愕の表情……そしてしばしの絶句ののち……)そんな……まさか……そんなことが……。いつだ。いったいいつのことだね」「昨夜の午後10時から午前4時までのあいだです。もうちょっと詳しいことは、いま鑑識からの報告を待ってるとこですが」「……信じられん。一昨日にも会ったばかりなのに……」「お察しします。まったく、刑事なんてのは因果な商売でして」といった具合のやり取りがあって、多くの場合、すでにこのとき犯人は一つか二つちょっとした不手際をやらかしており(よもや、「いったい誰に殺されたんだ?」などと口走る馬鹿はいないにせよ)、コロンボのほうは、その恐るべき慧眼によって、早々と彼に目星を付けているのである。

 そのあと警部は、毎日のように犯人のもとに通ってくる。それもアポイントメントを取って訪問するわけではなく、「お手間は取らせません。いやもう、ほんの三分だけ」なんてことを言いながら、けっこう強引に上がりこみ、事件についての話をする。高価な葉巻をねだったり、置いてある軽食を勝手に食べたりすることもある。低姿勢だが厚かましい。これがコロンボ警部の持ち味だ。話の中身は、ふつうの警官っぽい「聞き込み」のことももちろんあるが、「捜査線上で浮かんだ疑問を、犯人自身に質問する。」というケースもわりと多かった。これは犯人が高度な専門知識を有するプロフェッショナルゆえに成立する演出である。たとえば、自殺に見せかけて殺害された被害者のポケットから、その日の朝に預けたクリーニングの預り証が出てくる。「おかしいと思いませんか? これから首を括ろうって人が、背広をクリーニング屋に持っていきますかねえ?」その問いかけに対し、大学で心理学を講じている犯人が、「いや警部さん、なかなかお分かりになりにくいかもしれないが、人間というのは矛盾の束ともいうべきものでね。さっきまでそんなつもりはなかったのに、ひょんなことから世をはかなんだりするもんです」などと、わかったようなわからないような「弁明」をしてみせたりする。ここらあたりの駆け引きには、ぞくぞくさせられたもんである。

 犯人は最初のうちは社会儀礼としてコロンボ警部に付き合ってやる。むろん「捜査協力」という名目もある。この冴えない刑事をうまい具合に丸め込み、自分への疑いをなくさせて、あわよくば他の誰かに濡れ衣を着せてやろうという悪者もいる。コロンボはその人間的魅力と巧みな話術で彼らのふところへと入り込んでいき、捜査に必要とあらば相手のもつ専門技術を短期間のうちに学び取ったり、周辺にいる人たちと仲良くなって貴重な証言やら情報を得たりと、あらゆる手段で外堀をじわじわ埋めていく。ときに、コロンボと犯人とのあいだに「友情」にも似た感情が芽生えることもあるけれど、もとよりそれは例外で、犯人たちはコロンボ警部のしつこさと、少しずつ追い詰められていくことへの焦りから、「君は人からクモみたいだと言われたことはないかね?」「君は小うるさくて生意気なスピッツと同じだ!」などと、キレて苛立ちをあらわにすることになる。政治家など、より権力の中枢に近い人の場合は、露骨に脅しをかけてくることもある(コロンボの上司が犯人ということすらあった)。

 そのように、コロンボと犯人との緊張関係がリミットに達したときがドラマ全体のクライマックスシーンでもあり、そこでコロンボが、犯人の描いた完璧なシナリオをがらがらと崩してしまう決定的な証拠を引っ張り出してくることで、事件は急転直下、解決する。この趣向は回を追うごとに手が込んできて、シリーズの後半ともなると、犯人の仕掛けた周到なトリックをコロンボが見事に逆手に取って、「まんまと嵌めてやった」つもりで得意満面の犯人を、鮮烈な逆トリックで罠に掛け、いわば本人自身に墓穴を掘らせるかたちで終結させてしまうようにもなった。見ているこちらは果たして何回「あっ。」と叫んで溜飲を下げたか知れない。そして闘いに敗れた犯人は、もはや悪あがきをすることなく、コロンボの前にいさぎよく兜を脱いで、彼の聡明さを称えるのである。たいていドラマもそこで終わるので(解決ののちに小料理屋で一杯やったりしないので)、見ている側にはコロンボの手際の切れ味が強く焼き付けられることになる。この思い切りのいい幕切れが、かえって作品の余韻を深めるのだった。そしてあの味わいぶかいエンディング・テーマ。

 『警部補・古畑任三郎』は、コロンボの翻案とか換骨奪胎とかいうより端的にオマージュと呼ぶべきだと思う。三谷幸喜さんはぼくより少し年上だが、やはり少年期にコロンボに夢中になったのだろう。最近では『相棒』なんかにもコロンボの影を色濃く感じる。本邦でも、いま50代から40代くらいの作家や脚本家や監督で、大なり小なりコロンボに影響を受けてない人はいないはずだ。

 渥美清がほぼ寅さんと一体化しているように、ピーター・フォークはコロンボとほぼ重なり合っているけれど、小池朝雄さんの吹き替えで、もうひとつ、とても面白い映画があったことを付け加えておこう。アメリカ屈指の劇作家ニール・サイモンが脚本を書いた『名探偵登場』と『名探偵再登場』の二本で、前者はタイトルどおりサム・スペード、ミス・マープル、エルキュール・ポアロなどの名探偵(をパロディー化した人物)がたくさん出てくるドタバタ調の群像劇であり、後者は名画『カサブランカ』のパロディーだ。さすがニール・サイモンというべきか、これら2作とも登場人物のせりふがひとつ残らずギャグになっており、「どこで息継ぎをすればいいのか?」と心配になるほど頭から尻尾まで笑わせられどおしの喜劇であった。日本には、「コメディータッチ」と銘打った代物は山ほどあるけど、あれくらい笑わせてくれる本物の喜劇は見当たらない。なぜビートたけしは、北野武としてバイオレンスものばかり撮るのだろうか? これは文化論的な考察に値するテーマである。

 ぼくがピーター・フォークを映画館のスクリーンで見たのは、87年の「西ドイツ」・フランス合作映画、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』が最後であった。ここで彼は、ほかならぬピーター・フォークそのひと自身を演じていた。なにか途轍もなく凄そうな映画を撮るべくベルリンを訪れているのだが、彼の行く先々を、「コロンボだ!」「コロンボだぞ」といって子供たち(むろんドイツの)が追いかけていく。あの光景には感動を覚えたものである。コロンボは世界的な人気者なのだった。しかもフォーク氏は、もともと天使のひとりであり、思うところあって下界に降り立ち、人間界で俳優として暮らしているという設定なのである。「この作品におけるピーター・フォークは、ジャック・デリダにそっくりだった。」と浅田彰さんが評していたが、収容所に収監されたユダヤ人役のエキストラの老婆を見ながら、「エキストラ……彼らは忍耐づよい。彼らはただ座っている。…………彼らはエキストラ・ヒューマン(人間を超越したもの。あるいは、格別に人間的なるもの)だ……。」とつぶやく彼の風貌はたしかに当代随一の哲学者を思わせた。その後この作品は『シティ・オブ・エンジェル』としてハリウッドでリメイクされたが、ヴェンダースの芸術的な衒学趣味がハリウッドに真似できるはずもなく、ニコラス・ケイジ、メグ・ライアン主演のその映画は、ただのまぬけな甘ったるいラブ・ファンタジーと化していた。「アメリカ人ってどこまでアホなの?」とつくづくぼくは幻滅したが、しかし思えば「刑事コロンボ」はそのアメリカの生んだ作品であり、そう考えて複雑な気分になったのをよく覚えている。ともあれ、余人をもって代えがたい、傑出した役者さんだった。ご冥福をお祈りいたします。



コメント




ピーター・フォークが亡くなられたんですね。知りませんでした。好きな俳優でした。
『刑事コロンボ』は、いいドラマでしたね。
わたしは、『刑事コロンボ』のなかでは、コロンボが料理をする作品とロンドンへ行く作品が好きです。
飄々としていながらも、どこか意地が見え隠れするような人間性がいいなあと思います。
彼のかわりにコロンボ役ができる俳優はちょっと思いつきませんね。
リメイクできない(あるいはリメイクしきれない)というのは、名作の条件かもしれませんね。

投稿 クライフターン | 2011/07/14



 そうなんですよ。去る6月23日に亡くなられたそうです。じつはここ数年は、アルツハイマーのため、「自分がコロンボだったことさえも覚えていない」状態だったそうです(その記事を見たとき、涙が出そうになりました)。
 コロンボがロンドンへ行くのは、第13話『ロンドンの傘』ですね。あのラストはいま思うと相当ヤバくて、「証拠の捏造」に当たりますよね(笑)。でも面白い作品でした。
 コロンボが料理をするのは、たぶん第17話の『二つの顔』かな? 犯人が売れっ子の料理研究家で、テレビのレギュラー番組を持っていて、そこにコロンボがゲスト出演するシーンがありました。あれもちょっと異色で面白かった。というか、全45作、どれもみな本当に面白かったんですが(笑)。


投稿 eminus | 2011/07/15



刑事コロンボへの愛に満ちた文章ですね。
私もコロンボは大好きで家族でよく見ていましたが、いつ頃とかはっきり覚えていません。
「うちのカミさんが…」「すみません、もう1つだけ」は覚えていますが、甥っ子が皮膚科ってのは覚えていません。f^_^;
高齢の女性が犯人で、自分が殺人を犯してしまった事自体を忘れてしまう話が一番印象的でした。
あとは犯人がタイプライターで遺書を偽造するものの、紙を差すと微妙に位置がずれてしまうというもの。
推理も楽しかったし、コロンボが犯人を追い詰めるのにわくわくしました。
たまに後味の悪い作品もありましたが。
(名探偵コナンは人気があるけど、荒唐無稽で推理出来ないのでつまらないです。)

コロンボは大好きだったのに老人とタイプライターの話ぐらいしか思い出せないのがちょっと悔しいですね。
当時はアメリカの大物俳優が犯人役をしているなんて知らなかったのですが、まさに古畑任三郎状態でスターが登場していた様ですね。

三谷幸喜さんは以前はまぁまぁ好きだったのですが、何だかんだで「真似っこ」が多いと気付いてからはちょっと冷め気味です。
「相棒」も感嘆する様な回に当たった事がありません。


投稿 えみ | 2011/07/17



 コロンボがみなさんに愛されていることがわかって嬉しいです。
 あの作品は、けっこう女性の犯人が多かったんですよね。
 その中での最高齢は、第41話「死者のメッセージ」のアビゲイル女史ですが、この方は現役のミステリ作家だけあって、最後までしっかりしてました。
 「自分が殺人を犯してしまった事自体を忘れてしまう」といえば、これは第32話「忘れられたスター」の、往年の大女優グレースさんですね。演ずるは、自身がじっさいに「往年の大女優」であったジャネット・リー。いやあ、たしかに印象ぶかい名作でした。
 「犯人がタイプライターで遺書を偽造するものの、紙を差すと微妙に位置がずれてしまう」のは、第10話、「黒のエチュード」でのトリック破りですね。
 この作品で犯人を演じたジョン・カサヴェテスは、むしろ監督として有名な人で、ピーター・フォークの親友でもあり、フォーク氏はこの人の作品に何本も出演しているそうです。
 そんなこと、もちろん、小学生のときには知りませんでしたけど(笑)。
 三谷幸喜さんは、「コロンボ」をはじめ、ビリー・ワイルダーとか、アメリカ製の粋なドラマに心酔していて、それを日本を舞台に再演しようとしている感じかなあ。
 そういう作家は他に居そうで居ないので(なぜだろう?)、貴重な才能だとは思うのですが、「コロンボ」の版権を持っている人(とか企業)が「古畑任三郎」を見て怒ってきたらどうするのかな?という疑念はずっと拭えませんね……(笑)。
 なお、残念ながら今回いただいたコメントは「コロンボは毎」の所までで切れていたので、最後の部分をカットさせていただきました。
 (よろしかったら、改めて、続きの文章を送ってください!)

投稿 eminus | 2011/07/18




アニメと歌舞伎

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
初出 2010年03月24日



 今に至るまで延々と形を変えて続いている「5人編成の特撮ヒーローもの」の祖型は、河竹黙阿弥・作『白浪五人男』(初演 文久2=1862年)にほかならない。五人そろっての登場シーンで、アカレンジャー以下の面々が、敵を前にして悠然と名乗りを挙げていくのは、つまりは口上を述べているわけだ。そしてそのあと、全員でお約束どおり見得を切る。あのあいだはいわば時間が停止しているから、相手も攻撃を仕掛けてこないのである。こういうことは、別に製作者側の証言がなくたって、ちょっとした知識があれば誰にでも見て取れるんだけど、ポイントは、まずもって歌舞伎サイドからはこんな指摘はなされないってことだ。どんなにくだけた歌舞伎の入門書にだって、「ゴレンジャー」なんて単語は出てこない。「伝統」や「権威」を有する側は、サブカルチャーを黙殺するのが常なのだ。ひとこと言ってくれさえすれば、ずいぶんと理解が容易になるんだけど、そこはそれ、色々と差し障りがあるんだろう。察するに、大手予備校の人気講師ってのは、こういった垣根を自在に横断して、受験生のアタマにごちゃごちゃ詰まった雑多なアイテムと、試験に出るアカデミックな用語や概念とを結びつけるのが上手いんじゃないかな。
 「ゴレンジャー」と「白浪五人男」との類縁性なんて、ほんの序の口にすぎない。つとにベンヤミン(1892 明治25 ~ 1940 昭和15)が「複製文化時代の芸術」で指摘し、ボードリヤール(1929 昭和4~ 2007 平成19)が敷衍したように、消費社会におけるカルチャーは、市場の需要に応じていくらでも加工・変容を重ね、目まぐるしく進化を遂げていく。「戦隊ヒーロー」のモティーフは、のちに「美少女戦士セーラームーン」という派生物を産み、それは対象年齢層に留まらぬ幅広い世代の夢とロマン(と欲望)とを集め、社会現象となって国境すら超えた。ほぼ4世紀近く前、風紀紊乱のかどで歌舞伎の舞台から女性が放逐され、その代替として女形が発展した歴史を思うなら、タカラヅカ・レビュー風の衣裳をまとった平成版「白浪五人娘」の席捲は、日本文化史のレベルで見ても、画期的な出来事だったのではないか。実演とアニメとの違いというのは現代ではさほど問題にならないわけで、イメージとして表象されてしまえばほとんど同じことなのだ。じっさい、「セラムン」は舞台にもなったし実写化もされた。ただしあの現象を、口うるさい(失礼……)フェミニストたちがどう判断したかはぼくは知らない。
 大多数の国民がおそらくそうであったように、ぼくもまた前の首相(注 麻生太郎氏のこと)を尊敬はできなかったけど、「アニメは日本が世界に誇る文化だ。」という主張には、ひそかに賛同していたのだった(それで「国営マンガ喫茶」なる箱モノを作るなんて発想は論外だが)。しかしそれは、ただ単に東映動画と手塚治虫とに端を発する日本アニメ史の技術的・素材的蓄積が群を抜いてるってばかりでなく、おおげさに言うなら有史以来、この国の大衆が抱え込んできた放埓なる想像力(妄想?)のエネルギーを今に受け継いでいる点において「誇り」なのである。西洋近代が作り上げた自然主義リアリズム文学を、日本の土壌は「私小説」という形に精緻化(矮小化)した。これはよく耳にする評価(批判)である。むろんリアリズムはすべての芸術の礎なのだから、このプロセスが誤りだったとはいえない。しかし一方でそれが多くのものを抑圧したのもまた事実だ。ニッポンの近代において抑圧された「ロマン的なるもの」「荒唐無稽なもの」のマグマが、消費社会の市場のシステムに吸い上げられて、今日のアニメ文化を支える熱源となっているのは確かだろう。
 いやもちろん、歌舞伎から一足飛びにアニメってのは強引な論法で、その間にはとうぜん映画というものがある。それに、もともとの歌舞伎が底流に持っている封建遺制ってものも見逃すわけにはいかない。例えば、若君のお命を守らんがため自分の子供を犠牲にするといった忠君の美学は、どう料理しても今日の主題にはなり得ないだろう。だけど、あえて歴史的な文脈を辿らずとも、また主題論的な比較はさておいても、舞台背景や図像学といったビジュアル面から、アニメと歌舞伎とをシンプルに対照する試みってのは可能だろう。ヒーローが呪文を唱えて大地を割り、雲を呼んで雷を落とす類いのファンタジーと、「回り舞台」や「舞台崩し」なんかの仕掛けとは、誰が見たってやっぱり似ている。そういうものをつぶさに調べ、アニメの「技法」と歌舞伎の「演出」とを左右に並べて見比べていけば、学問的価値はともかくとして、とりあえず面白いだろうなあ、とは思う。ぼくにはとうていそんな余裕はないから、誰かがやってくれないものかとこっそり期待しているわけだが。
 もうひとつ付け加えたい。19世紀末、ニッポンの浮世絵が泰西に渡って印象派の画家たちに深甚なショックと影響を与えたことは有名だけど、どうも演劇ジャンルにおいて歌舞伎が同程度の役割を果たすことはなかったんじゃないか。イコンとしてのマダム貞奴(川上貞奴 1871 明治4 ~ 1946 昭和21)は、かなり評判を呼んだそうだけど、結果として、歌麿や北斎の作品ほどのインパクトを西欧文化史に刻んでいるとは思えない。だとしたらそれは、西欧にはすでにオペラがあったからだろう。ルネサンス以降の遠近法で育った画家たちの目に、浮世絵の表現は斬新に映った。しかし歌舞伎のケレン味は、そのリアリズムからの逸脱は、ほとんどの西洋人にとって、先刻オペラで見慣れたものだった。そういうことではあるまいか。歌舞伎とオペラとの比較論ってのも、そういえば目にした覚えがないけれど、誰かがやっているのかどうか(それが日本人でもヨーロッパ人でもアメリカ人でも構わないんだけど)、前々からちょっと気になっているところだ。
 恥ずかしながらというべきか、ぼくはかつて『レンタルマギカ』という原作つきアニメにちょっと嵌まったことがある。じつに単純な(他愛ない、といってもいい)勧善懲悪ものだけどそこがかえって良かったのだ。いちおう題材はオカルトだし、主人公の青年のまわりを美少女たちが取り巻いてるところはハーレムハニメの趣もあるが、それでいて、エロにもグロにも傾かない一種の清潔さがあった。ただ1話から最終24話まで、エピソードごとに順番がシャッフルされており、そのために時系列が辿りにくくなっていて、視聴率の点では損をしたのではないかと思う。あれはなんでだったのかなあ。ともあれ、『レンタルマギカ』を観ている間、「これは歌舞伎だよ……ビジュアル的には」とずっと感じ続けていた。そのときの思いがこのエッセイになった。


 追記) なんでも「ワンピース」も歌舞伎になったとか。そりゃあまあ、ここに書いたような事情ですんで、どんなアニメも(いやサザエさんとかは別としてね)構造的にはほとんどそのまま歌舞伎になると思いますよ。


風の谷のナウシカはなぜ魅力的なのか?

2016-06-18 | ジブリ
初出 2012/02/08




 金曜ロードショーで『崖の上のポニョ』を見ての感想は、「こればっかりは劇場で見なくちゃだめだなあ」だった。この作品の見所は、ポニョが「宗介んとこ行くー」と叫びつつ、リサ・カーと並走するように波のうえを疾駆していくシーンに尽きると思うんだけど、我が家のしょぼい画面では、迫力が千分の一くらいになっちまって、あとはシナリオの粗さとストーリーの素朴さがいたずらに際立つばかりであった。劇場で鑑賞した時は、べつに3Dでもないってのに、見てるこっちまで大波に呑みこまれそうな気分になって、ポニョの爆発的な思いのたけ(ただの我がまま?)に圧倒されたもんですが。

 いまシナリオの粗さと書いたけど、どうも『ハウルの動く城』、いやいや、すでに『もののけ姫』の後半部あたりから、宮崎駿さんはお約束の筋立ってものに興味を失っているようで、難しくいえば脱構築とか、ポストモダンということになるんだろうけど、「英雄」が「協力者」の助けを借りて「龍=魔物」を倒し、「囚われの姫」を救い出すという、『天空の城 ラピュタ』で完成させたエンタテイメントの王道を、自らの手で破壊し続けておられる。『千と千尋の神隠し』では、千尋のアイデンティティーはまだしも一貫していたものの、湯婆婆と銭婆(両者はもちろん同一のものだ)の性格が、物語の前半と後半とで、「恐るべき支配者」から「優しい庇護者」へと変貌を遂げる。

 「純文学」的に見るならそれは、人間と人生の複雑さを表現していると評価できるし、だから宮崎アニメはディズニーよりも高尚なものには違いないのだが、エンタテイメントとしてはじつに危ういってことも事実だ。『ハウル』では、ついにその複雑さがヒロイン本人にまで及んでしまって、ソフィーお婆ちゃんは大騒ぎして城を壊したかと思うと慌ててまた造り直したり、友人でありハウルの魂の一部でもあるカルシファーを不用意に消火しかけたり、いったい何がしたいのか、どうにもわけがわからない。だれかあの女性の言動を完全に理解し、きちんと感情移入できた方はおられるだろうか。ぼくは三回見直したけど、どうしてもやっぱり無理だった。

 で、ここにきて宮崎ヒロインは、元気いっぱいで我がまま放題の童女と、お行儀の悪いヤンママと、すべてを抱擁し、肯定するかのごとき大いなる母性に分裂してわれわれの前に現れたわけだが、もちろんぼくは、それら三者のどれにも感情移入できなかった。ただ、所ジョージが「もしあの少年が受け容れてくれなかったら、ブリュンヒルデ(ポニョ)は泡になってしまう。」と必死で訴えるのに対して、「あら。わたしたちはもともと泡から生まれたのよ。」と事もなげに応じるグランマンマーレの台詞はちょいと凄かった。あの台詞だけは忘れがたい。色即是空。だから彼女を「観音さま」と認識した船員さん(宗介の父)はまったく正しいわけで、あの作品のシナリオは、エンタテイメントとしては粗いけれども本筋はきっちり踏まえているのだ。当たり前だけど。

 しかし、もののけ姫サンさんみたいに色濃く面影を宿したヒロインを見ても、ソフィーお婆ちゃんやポニョやグランマンマーレみたいに似ても似つかぬヒロインを見ても、とかく思い起こされるのはナウシカのことで、いまや宮崎アニメの新作を見るという行為は、ナウシカの不在に繰り返し直面しては、その魅力を懐かしむという逆説的な儀式と化しているのかも知れない。精神分析学が専門で、小説や映画に関しても鋭い批評を書く斎藤環さんは、ナウシカ(に代表される戦う少女)のことを「ファリック・ガール」と定義づけた(『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫)。だいたいまあ、「少年性と少女性とを併せ持つ両性具有者」くらいの意味で、汎用性の高い概念だと思う。

 なるほどナウシカは半分くらい男の子であり、それが彼女の個性の大きな部分を形づくっているのは間違いない。だけどぼくは、この概念を提示されたおかげでもっと多くのことが分かった。ナウシカがあれほど魅力的なのは、彼女が女性の持ちうるほとんどすべての属性を併せ持っているからだ。「少年性」はそのうちのひとつにすぎない。まず彼女はグライダーに乗って天空から登場し、われわれの前にふわりと着地する。すなわち、まずは優秀な飛行家であり、さらにいうなら地上に降りた天使=天女にほかならない。それから腐海の奥へと入り、フィールドワーカー、冒険家、自然科学者、そして文学少女っぽいロマンティストとしての相貌を次々に見せる。そして、彼方からの一発の銃声を耳にするや否や、一転して俊敏な戦士に身を変える。

 怯えて猛るキツネリスを手なづけるあの有名な場面はもちろん母性の発露だし、それは巨大な蟲たちを含めた他のあらゆる生物へと及ぶ。ただし王蟲との交感は、むしろ巫女的な資質のたまものというべきか。これはいったん怒りに身を任せると、敵と見なした相手を容赦なく殺戮してしまう激烈さとは矛盾しない。異界への憑依も狂戦士としての昂ぶりも、ヒステリーのふたつの側面に違いないからだ。もとより彼女はそもそも姫=高貴なる血筋の者なのだが、常日頃は労働者として耕作にも従事し、「風の谷」の住民にとってはむしろ共和主義的なリーダーとよぶべきものだ。いうまでもなくジャンヌ・ダルクでもあるが、奉じるのはカトリックの神でも王権でもなくて、大いなる地球の生態系そのものである。このような調子で連ねていけばキリがない。プロットのそれぞれの場面において、さながら陽光を浴びたプリズムのように、ナウシカは目映いほどにその属性を変幻させていくのである。

 そしてあの「少年少女名作劇場」めいた、気恥ずかしくも感動的なラストシーンで、彼女はまさしくゲルマン神話的な伝説の英雄と一体化し、名実ともに少年というか、逞しき青年の属性をすら身に纏うのだが、いっぽう、謂集してきた村人たちに揉みくちゃにされて「きゃ、きゃ、きゃ。」と島本須美さんの声ではしゃぐ彼女は、まるっきりもう、そこいらへんの女子高生である。どの仮面(ペルソナ)がというのではない、これらすべてが渾然一体となりつつ、臨機応変、適確無比に前面に現れるがゆえに、ナウシカはあんなにも魅力的なのだ。

 だけどまあ、監督としての宮崎さんのお立場も何となく分かる気がするのである。十代で「巨匠たちのタッチ」を身につけてしまったピカソじゃないけど、『カリオストロの城』を経て、劇場用第二作でいきなりこれほど完成度の高いものを作ってしまった以上、あとはそのヴァリエーションを紡ぐのでなければ、定型を壊していくしかないわけだ。それに、年齢を重ねて五十、六十になって、相も変らず戦闘少女でもあるまい。自分に呪いをかけた憎っくき魔女すら平然と介護してしまう、ソフィーお婆ちゃんのキャラクターこそ、正しく壊れたナウシカの、21世紀の進化型であるとは思う。感情移入はできないけれども。


宇多田ヒカルの頃。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 初出 2013年08月30日


 「宇多田ヒカルの時代」ではない。あくまで「宇多田ヒカルの頃」である。何を言ってるんだろうとお思いになる方もおられるやも知れぬが、ぼくの個人史においては紛れもなく「宇多田ヒカルの頃」と呼ぶよりない時期があったのだ。宇多田ヒカル名義のデビューシングル「Automatic」が発売された1998年12月初頭から、ファーストアルバム「FIRST LOVE」が社会現象を巻き起こした1999年4月を経て、そうだなあ、まあ、「SAKURAドロップス」くらいまでだろうか。もちろん、ぼくが一人で夢中になっていたわけではなく、ひとことで言えば「ポスト小室哲哉のJ‐POPシーンが宇多田ヒカル一色に染まった」といっていいほどのムーブメントだったのだけれども、史上最高の売り上げを果たした(この記録はいまだ破られていない)「FIRST LOVE」旋風が一段落したあとも、しばらくのあいだ、宇多田ヒカルが新曲を出すたび一部のワイドショーが取り上げていたものだ。宇多田の新曲は、ほとんど事件だったのである。阪神・淡路大震災とオウムの傷跡はまだ生々しかったし、信じがたいような少年犯罪も多発していたが、総じていえばニッポンは(そして世界も)まだ平和だったのかもしれない。

 「Automatic」はたまたまテレビのCMで断片を聴き、耳に強く残っていたのを翌日くらいにFMで聴いて、「すげえや」と感じ入ったのだが、あれから15年を隔てた今もなお、「ドゥシドゥシドゥシドゥシ」という冒頭のあのスクラッチ4連打を耳にするだけで、興奮がうっすら甦る。ぼくは楽譜も読めない素人だけど、アメリカのR&Bは好きでレンタルで借りてよく聴いていた。ソウルほど土臭くはない、もう少し洗練された感じのやつで、当時はブラック・コンテンポラリーと称していた。こういうのが早く日本でも出てこないかなあ、と思い続けて十年くらい経ったところに、やっと宇多田ヒカルが現れたわけだ。ただ、その前にMisiaがデビューしている(98年2月)。日本における本格的な女性R&Bシンガーの称号はMisiaに与えられるべきものだろう。これについては島野聡というプロデューサーの存在を逸することはできないが、ともかくMisiaの登場により、小室流の単調な打ち込みの「ビートのきいた歌謡曲」から、「R&B」調へとシーンが変わった。それは安室奈美恵の路線チェンジにも明らかだ。

 宇多田ヒカルもその流れの中から出てきたといっていいと思うが、楽曲の良さもさりながら、彼女のばあいはメディアへの露出の仕方がちょっと尋常ではなかったのである。へんな狭苦しい(面積ばかりか天井まで低い)部屋でふにゃふにゃしながら歌っているPVのほかに映像はなく、履歴についても、NY在住だとか、まだ15歳だとか、なかなかの文学少女だとか、某スタジオ・ミュージシャンの娘(音楽雑誌で確かにそんな記事を見た)であるなどといった情報がぱらぱらと散布されるだけだった。そんな状況が、98年の12月から、年をまたいでしばらく続いた。必ずしもそれは営業戦略ではなかったらしいのだが、大衆の好奇心を煽り立てるには十分であり、結果として宇多田ブームの過熱をいっそう高めることとなった。何よりも、すべての楽曲を自分で作っているという点が傑出していた。ぼくもまた熱に浮かされた可憐な大衆のひとりとして、「FIRST LOVE」を予約して発売日に買った。はっきり言って、ここに収録された曲は若書きといいたいものが多くて、作品として優れているとは思わないけれど、しかし売り上げのことを別にしても、記念碑的なアルバムだとは思う。ただ、いい曲や凄い曲が溢れるように生み出されるのはこのあとからだ。

 この記事を書く気になったのは、YOU TUBEで、彼女のシングル曲をオーケストレーションで編曲したものを聴いたからだ。この手の企画はよくあるが、素材がポップスのばあい、たいていは安っぽく響くのが常だ。ビートルズですら往々にしてその弊を免れないのだが、しかし宇多田ヒカルのはそうじゃなかった。オーケストラに負けていない。少なくともぼくの耳には負けてないように聴こえる。それは本物のメロディー・メーカーということではないか。「Fly me to the moon」のようなスタンダードを聴けばわかるが、彼女は歌手としても一流だ。歌詞はそれほどだとは思わない。そこは林檎のほうがずっと上だろう。(「な・なかいめの/ベ・ルでじゅわきぃを」のような分節には確かにびっくりしたけれど)。アレンジも、これはもちろん周囲のスタッフの手が加わっているわけだが、商業ポップスとしてふつうだと思う。しかしメロディーと歌唱はすばらしい。この二点を兼ね備えている点で、ぼくは宇多田ヒカルを天才と呼びたい。天才、すなわち天賦の才だ。これは訓練では育たない。ボイストレーニングをすれば声量は豊かになるし音程も確かになるかもしれないが、しかしそれでは声楽家には成れても本当のシンガーには成れない。メロディー作りも同じことだ。

 たとえば東京芸大やバークリーの作曲科を優秀な成績で卒業しても、それで人々の心をつかむ名曲をたくさん書けるわけではない。いっぽう、さほど音理は知らずとも、鼻歌まじりに胸をうつ曲、元気の出る曲、泣かせる曲をすらすらと作ってしまう人もいる。それは知性(理論)で統御しきれるものではない。もっと深いところからでてくるものだ。「Automatic」の楽曲分析として、高見一樹という人がこう書いている。「軽いスクラッチから入って、いきなり少女趣味なシンセのリード、ハイセンスなフェイク……。そして記号的に日本人の情緒を刺激するFm―A♭(E♭)―D♭― maj7―Cm=Am―C(G)―F―Emという実に王道なハーモニーのクリシェが随所に登場する。……(中略)……この響きを骨に、A―B―Cと曲全体が基本に忠実に構成され、イントロに先取りされたBメロのメジャーなコードの響きをはさみつつ、Aメロ、BサビのいわゆるAUTO MATICな印象を作っていく。……」きっと正しいアナリーゼなんだろうけど、しかしこうやって解剖してもらったからといって、なにか本質が白日の下に晒されたという気はしない。「Automatic」を耳にする時のときめきが再現されるわけではない。ぼくは批評(分析)をとても大事に思っているし、だからこそこんなブログをやってるんだけど、しかしやっぱり批評とは作品の前で常に無力なものだとも思う。とりわけ宇多田ヒカルのような桁外れの才能を前にすると、つくづくそう思ってしまう。

 ぼくのなかで「宇多田ヒカルの頃」が終焉に向かっていったのは、彼女がそろそろ二十歳をすぎて、わりとひんぱんにメディアに顔を出すようになったあたりである。アタマの回転が早すぎるのかも知れないが、ケーハクな喋りかたが好きになれなかった。衣装のセンスもどうかと思った。ましてや、パートナーを選ぶセンスはもう最悪としか思えなかった。はなはだしく失礼なことを申し上げているようだが、しかしあの兄ちゃんの監督したPVは、ただ一本「deep river」だけを除いて、どれもみな悪質な冗談としか思えない。そんな違和感とはうらはらに、彼女のつくる楽曲だけはひたすら凄みを増していった。以前ほどの情熱は薄れたものの、ほとんどの曲はリアルタイムで聴いたはずである。病気が公表されたときはもちろん心配した。ただ、活動休止宣言を聞いたときは、それほど驚きはしなかった。ランボー、……いや、中原中也のことをぼんやりと思い浮かべたりもした。しかし、久しぶりに耳にした新曲「桜流し」はやっぱりよかった。このアーティストと同時代に同じ国で過ごせて幸運だと思った。

 先にあげた高見一樹のコード進行解説は、KAWADE夢ムック・文芸別冊「宇多田ヒカル」に入っている。このムックには武田徹という人も寄稿しているのだが、その中で武田氏は、田谷秀樹という人の『読むJ―POP』という本から、以下の文章を引いている。「ユーロビート系のダンスミュージックとR&B系との最大の違いは、リズムの『間』と『揺れ』だ。その感覚を身につけていないと気持ちのよい歌は歌えない。それがブルースやゴスペルのようなブラックミュージックの歌が民謡に似ていると指摘される根拠である。……(中略)……宇多田ヒカルが際立っていたのは、15歳にしてそのグルーブを何の苦もなく自然に実に気持ちよさそうに身体で表していることだった。日本語の音楽で育っていたら、あんな風には歌えなかっただろう。それは『ついに出てきた』と思わせた。ヒップホップの聖地ニューヨーク。子守歌のようにそうした音楽を聞いていた15歳の少女。70年代に染みついた『怨歌』のイメージから逃れるためにニューヨークに渡った母親の藤圭子、彼女の父親は浪曲師だった。そうやって考えると、宇多田ヒカルは、日本の音楽の歴史の到達そのものと言ってもいいかもしれない。」 武田氏はこの一節について、「言いたいことは分かるが、詳細は何も語っていない文章だ。」と切り捨てている。ぼくもたしかに安易な論調だなあとは感じたが、そこまでひどいとは思わない。ことに、藤圭子の「血」が宇多田ヒカルに及ぼしている影については、安っぽいスキャンダリズムを排した、純粋に音楽学的な考察が加えられて然るべきだと思う。

 このたびの一件は本当に傷ましく思う。しかし家族のことは家族にしかわからない。もちろんぼくも、たんなる野次馬としてさえこの件に関して何ひとつ言うべきことはない。ただ、いつかまた宇多田ヒカルの新しい曲を聴ける日が来たらいいと思うばかりだ。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」

2016-06-18 | 哲学/思想/社会学
 当のキーワードで検索をかけると、この記事が上位に来るものだから、たくさんの人が訪れてくださるのですが、なにぶんこれは2010年に書いた文章で、今(2019年1月現在)読み返すと至らぬところが目につきます。いずれ書き直そうと思っていますが、なかなか時間が取れません。2014年に中公新書から細見和之氏の『フランクフルト学派』という本が出て、その第5章「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である。」が、この箴言についての素晴らしい解説になっています。さらに詳しく掘り下げようという方には、ぜひともお勧めいたします。 







 初出 2010年2月16日



 以前にぼくは、「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である。」(表記はこのまま)という一文を取り上げた。これ、アクセス解析を覗いてみると、読みに来て下さる方がけっこう多い。なるほど、「自然にかえれ。」だの「神は死んだ。」だの「《人間》の消滅。」だの、一見すると分かりやすくてショッキングで、それでいてよく考えると謎めいているこの手の警句は、本来の文脈から切り離され、往々にしてひとり歩きする。でもそれだけに、当の思想家の言説を凝縮したかのごとき重みを持つから、本当に理解しようと思ったら、じっさいにその人の著作すべてに目を通すくらいじゃなきゃだめかもしれない。そういう意味では、ぼくだって心もとないかぎりだけど、あれから半年近くが過ぎた今なら、もう少し厳密なことが書けそうな気がする。

 当ブログは、2009年8月1日から、同年9月10日まで、『今日の抜書き』というタイトルで、毎日ひとつの「名言」をピックアップし、それにぼくの能書きを付けるというスタイルだった。でも名言の解説が主ではなくて、どちらかというと、それをダシにしてぼく自身が書きたいことを書いていた。だからこの解釈も、ずいぶんと自己流の読みになっている。レポートにこれをそのまま引き写して(そんな学生はいないかな?)、教授から合格点を貰えるかどうかは保証しない。まずはその、昨年8月22日の文章を再掲しよう。

 「あまりにも有名な一句だが、被爆国の国民としては、<アウシュビッツ、およびヒロシマ・ナガサキ以降に……>と付け加えさせて頂きたい。人類の理性を根幹から疑わせるに足る凶行を経験した後では、芸術や文化にまつわるあらゆる営為が、その崇高さを失ってしまった。まずはそういう含意であろう。しかし、実際には人々は第二次大戦ののちも<詩>を書き続けてきたし、その中からパウル・ツェランのように、まさに<アウシュビッツ以降>の表現としか呼びようのない詩を書く詩人も現れた。ひとが言葉を介して交わるかぎり、<詩を書く>ことが無意味になるはずはない。ただし、そのことの野蛮さを肝に銘じて、正面から引き受ける覚悟を持った者だけが<詩人>たりうる。そう解すべきかと思う。」

 まるっきり間違っているとは思わない。でも肝心なことを書き落としている。まず書誌的なことをやりましょう。これを書いたのはテオドール・W・アドルノ(1903 明治36~ 1969 昭和44)というユダヤ系ドイツ人の哲学者で、彼の最初の自選エッセイ集『プリズメン』の巻頭エッセイ「文化批判と社会」の締め括りの所にある。原著は1955年に出版された。邦訳は、渡辺祐邦・三原弟平両氏の訳で96年にちくま学芸文庫から出ており、今も新刊で手に入る(余談になるが、90年代のちくま学芸文庫は、ほかにジンメル、メルロ=ポンティー、レヴィナスなど、20世紀を代表する思想家たちの代表的なエッセイをたくさん出していた。オリジナル編纂のものも多くあり、編集部の高い志が感じられた)。

 哲学者のエッセイ集とは言っても、たとえば土屋賢二さんのやつみたいなのとは話が違う(べつにツチヤさんをけなしてるわけではありません)。あのベンヤミンと同様、アドルノも「ヘーゲル流の壮大な体系」によって世界を記述することに疑念を抱いており、エッセイ形式こそ彼なりの、もっとも犀利にして緻密な哲学のやり方だったのだ。『プリズメン』には、全12本のエッセイが収められていて、他ではバッハ、ジャズ、シェーンベルク、ハックスリー、ヴァレリー、プルースト、カフカなどが縦横に論じられている。小説や詩を読みこなし、クラシックから大衆音楽までを分析的に聴ける耳を持ち(アドルノは青年期に本気で作曲を学んだ)、美術や演劇や映画など、同時代の芸術にもむちゃくちゃ精しい、欧米の一流の学者ってのはそういうものらしい。で、その邦訳の文章だけど、じつはもう、ここからしてぼくの引用とは少々異なっている。むろん原典に当たっていただくのが最良だけど、御用とお急ぎの方のため、そのラスト部分を長めに引用しておこう(ちくま学芸文庫版・36ページ)。

 「しかし今日では、すべての伝統的文化が、中性化され、しつらえられた文化として、なきに等しいものになっている。……(中略)……ロシア人たちが自分たちはその遺産を相続したと殊勝げに宣伝しているその遺産も、取り返しのつかない過程を通じて、その大半がなくてもいいもの、不用なもの、屑となった。すると次に、文化をこういう屑として扱う大衆文化の荒稼ぎ屋たちが薄笑いしながらそれを指摘できることになる。社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。宿命に関する最低の知識でさえ、悪くすると無駄話に堕するおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。」

 ぼくははっきり言ってこの文章を悪文だと思うが、それは翻訳者の罪ではない。「文化批判と社会」はずっとこんな調子で書かれている。これについては訳者ご本人が解説で「……本書全体の序論にふさわしい内容のものとなっている。しかし論述そのものはかなり抽象的で難解だから、いきなりこの論文から読み始めるよりも、具体的な著述や作品を主題とした2以下の論述を読んでからこの論文に戻るほうがいいだろう。」と言っておられるとおりであろう。じっさい、他の十一本の文章は、これよりもずっと読みやすい。

 ともあれこの引用文のキーは、「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。」なる一句だ。アドルノにはこの『プリズメン』の前に、『啓蒙の弁証法』という大著がある。第二次世界大戦前夜、盟友のホルクハイマーと組んで、あちこちの亡命先で(アドルノがユダヤ系だということを思い出してください)書き継がれた論考をまとめあげたものだ。一般にはこちらが主著と目され、「20世紀の最重要書」なる宣伝文句を見た覚えもある。じっさい、現在もなお我々は、自分たちを取り巻く文化状況のあざとさ・低俗さにうんざりして、それを批判しようというとき、意識するとせざるとに関わらず、この『啓蒙の弁証法』の影響のもとにあるといっていい。つまりこれは、二回目の世界大戦が終わって「現代」がいよいよ爛熟に向かおうとする時期に、その根底にある病理を、いち早く剔抉した書物なのである。何年かまえ、岩波文庫に加えられた。

 8月22日のぼくの記事では、「理性」があたかも「野蛮」を克服するものであるかのように書かれているが(じっさい今でも、常識的にはそう考えている人が多いはずだ)、アドルノ=ホルクハイマーはそんな単純なことは述べていない。アウシュヴィッツ(に代表されるあちこちの収容所)が、唖然とするほど「合理的」なシステムによって運営されていたことはほぼ周知の事実だろう。つまりそれは、「理性」の対極から生じたものでは決してなくて、むしろ「理性」の一つの極限として、人類史の中に現れ出てきたものなのである。テクノロジーの精髄である原子爆弾のことはいうまでもない。

 たくさんの例が挙げられると思うけど、近いところで、世界規模での金融破綻の原因となったデリバティブなんてどうだろう。あれだって、マネー理論に通じた理系の英知の結晶だった。大戦が終わったのちもなお、「理性」が依然として「野蛮」を生み出し続けているのは間違いのないことだ。

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」とアドルノが書くとき、もちろん《詩》はたんに芸術のみならず、「哲学」までをも含めた文化の総称として用いられているが、その「文化」なるものもまた、「理性」の産物であるばかりか、その精華にほかならない。すなわちその点において「野蛮」と「文化」とは同根であり、「野蛮」と「文化」とのこのおぞましき絡み合いこそが、アドルノ=ホルクハイマーの強調したかったことなのである。ここを黙殺しているがゆえに、8月22日のぼくの解釈は、正鵠を射抜いているとは言いがたいのだ。

 むろんアドルノの仕事は、「野蛮」と「文化」とが同根であることを指摘しただけで終わってはいない。「野蛮」を生み出す「理性」に歯止めを掛け、徹底した批判によって「生の価値」を(それを文化と、すなわち「詩」と呼び習わすことは許されるだろう)生み出す方向に向かわせるのもまた、理性にしかできないことだと述べた。「啓蒙の弁証法」とは、おおよそそういうことである(弁証法という言葉には、それこそギリシア哲学からマルクスに至る膨大な歴史の蓄積があるけれど、あえてひとことで言ってしまえば、「ひとつの概念が、それとは相反するもう一つ別の概念を抱え込み、ついには両者が融合して、さらなる高次の段階に至る。」ということだ)。ただし彼が、そのための方途を自らの手で模索し、何らかの成功を収めたか否かは、ちょっとここではぼくには明言できない。

 だからぼくの、「ひとが言葉を介して交わるかぎり、<詩を書く>ことが無意味になるはずはない。ただし、そのことの野蛮さを肝に銘じて、正面から引き受ける覚悟を持った者だけが<詩人>たりうる。そう解すべきかと思う。」という結語は、わりといい線いってると思う。ただ、ここで名前を挙げた、「アウシュヴィッツ以降の詩人」パウル・ツェラン(1920 大正9 ~1970 昭和45)をアドルノがいかに評価していたかについては、これもまた、ここではぼくには明言できない。ざっと調べてみたけど分からなかった。90年代の初頭に出ていた『ユリイカ』のツェラン特集の中に、このことに言及した論考があったようにも思うが、手元にないので分からない。

 ともあれ、ここまでをきちんと読んで下った方なら、先に引いたアドルノの難解な文章も、けっこうクリアになってきたのではないか。「絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている」。……「絶対的物象化」……あたかも触るものをみな黄金と化してしまうミダス王のごとき……。まさにこれこそ(生れたときから)ぼくたちを取り巻く状況にほかならず、もしこれにわずかなりとも抵抗する手立てがあるとするなら、どうしたってそれは、「詩」をおいては考えられないではないか。



◎いただいたコメント



 20世紀の記憶について細々と研究している者です。かの有名なアドルノの言葉について大変興味深く読ませていただいたのですが、どうも意味が通らないところがあり、ドイツ語の原文に当たって確認したところ、ちくま学芸文庫版・36ページからの引用から「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している」が欠落していることがわかりました。

 ちなみに、アドルノが自らの言葉をどのように「改訂」していったのかについては、http://www.gbv.de/dms/lueneburg/LG/OPUS/2002/137/pdf/stein5.pdf に詳しいです。私はこれをアドルノの真摯さの軌跡として読みました。

投稿 hayanagi | 2012/11/17





 ご指摘ありがとうございます! ほんとですね、すっぽりと抜けていましたね。すぐに書き足しておきました。そのあとの段落で「この引用文のキー」などと書いておきながら、肝心のその一文を落としてしまうとは、なんとも間の抜けた話です。また、ご紹介いただいた論考も、さっそく保存しておきました。ドイツ語ですので、すぐに目を通すわけには参りませんが(汗)、じっくりと読んでみたいと思います。重ね重ねありがとうございました。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2012/11/18


一青窈の「ハナミズキ」を《翻訳》する。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
前書き 初出 2015年9月


 5年まえ、このブログに一青窈さんの「ハナミズキ」についての記事を書き、いくつかコメントをいただいた。コメントの中にはご自身の解釈を寄せてくださった方もおられ、今回はそれらも併せて転載しようかと思ったのだけれど、さっき確かめてみたらその方のブログにはその文章がそのまま載せられていた。だからコメントの掲載はすべて控えて、5年前の記事の本文だけをコピーすることにした。
 いま読んでみると、「どうぞ行きなさい。お先に行きなさい」のくだりを、「明日(ないし未来)に向けての促し/励まし」と解釈している。そこは当時もかなり迷ったんだけど、やはり一面的だなあとは思う。「お先に行きなさい」は、むずかしくいえば、「自分の権利を相手にそっくり譲り渡す」ことである。それはたいへん崇高な行為で、この歌詞の要のようにも思えるのだが、たんに「未来に向けての促し/励まし」と見ると、そちらのニュアンスが抜け落ちてしまう。一義的に解釈を決め付けてしまうことの弊害だ。しかしまあ、5年前のぼくも述べているとおり、自分なりに意味を確定してみることで、見えてくることもあったと思う。それでは、前書きの前書きはここまで。以下は5年前の文章そのままです。

本文 初出 2009年2月

 一青窈さんの「ハナミズキ」という歌は、これまで折にふれて何度も耳にしてきたし、カラオケに行ったとき、自分で歌った覚えすらある。そのたびに、なんだか舌足らずな歌詞だな、とは思った。どうやら片思いの感情を歌ってるらしいけど、それにしても「君」と「僕」との関係が、あまりにもあいまいだ。だけどまあ、洋の東西を問わず、歌詞っていうのはそういうもので、そもそも字数も少なければ、メロディーラインという制約もある。ビートルズにだって不分明な歌詞は山ほどあるし、いいよなあ別に、と、さして気にもとめなかった。
 ところが先日、NHKの「SONGS」で久しぶりに聴いて、あっと思った。第一連の「どうか来てほしい。水際まで来てほしい」という呼びかけが、ひどく哀切に響いたのだ。気をつけていると、「一緒に渡るには、きっと船が沈んじゃう」とか、「果てない波がちゃんと止まりますように」とか、「白い帆を揚げて」とか、水にまつわる縁語が多い。どうやらこれは、たんなる片思いの話ではなくて、ひょっとして、「君」と「僕」とは幽明界を異にしているのではないか、ひらたく言えば、「君」と「僕」とのどちらかが、すでに亡くなっているのではないか、そう感じたのだった。
 それでネットをちょっと調べてみた。「ハナミズキ」と打ち込んだだけで、グーグルだと、「ハナミズキ 歌詞の意味」と候補が出る。なるほど、みなさんはとっくに、このあたりの機微に気づいておられたのだ。なんでも一青さんは、2001年9月11日にニューヨークで起こった同時多発テロ、とりわけツインタワーの崩落に触発されて、この歌詞をお書きになったとか。ご本人へのインタヴューでは、「わたしが大切に想うひとと、その方の好きなひととが、ずっと幸せでいられるようにとの思いを込めて作りました。」という意味のことを述べておられる。
 ひとたび「作品」として世に送り出した以上、その解釈は受け手たちに委ねられるのだから、たとえ作者本人といえど、むやみに言葉を費やすべきではない。その点は、ポップスにかぎらず、ほかのすべてのジャンルにおいても同じだろう。一青さんはそのことを十分に弁えておられるわけで、ここで語られているのは、「作り手の意図」であって、歌詞の内容の説明ではない。とはいえ、やはり歌そのものに、愛しい相手に会いたくても二度と会えない悲しみと、それゆえにいっそう深まる情愛とが満ちているのは、間違いのないところのようだ。いかに叶わぬ恋であれ、ただの片思いではこうはいくまい。
 それでぼくも、改めて歌詞全体をじっくりと拝見させていただいたのだけれど、「死」というファクターを導入しても、すぐに視界が開けたわけではなかった。というのも、相手を遺して先立ったのが、「僕」であるのか「君」であるのか、やっぱりどうしても見極められなかったからだ。どちらであっても意味が成り立つ、というか、どちらであってもかなりの異和が生じるのである。
 むろん、法律の条文じゃあるまいし、一義的に意味を確定しなければならないなんてことはない。揺らいでいたって構わない。ネットのうえでの皆さんのご意見も、半々かどうかは知らないが、けっこう二手に分かれている。ただ、一応ぼくは、この場で自己流の解釈を施そうと思い立ったのだから、自分として可能なかぎり、ぶれを排除したかった。揺らぎのままに留めておくのもよいけれど、できるだけ明晰さに近づけることで、得られるものもあるはずだ。それに、何といってもこれはあくまで一つの試みに過ぎず、「これが唯一無二の読解だ。」だなんて、主張するつもりはまったくないわけだし。
 そういうわけで、以下にひとつの「翻訳」を試みた。先立ったのは「僕」のほうで、その彼が、遺された「君」に呼びかけている。熟慮の結果、そのように定点を決めた。「君」は、妻もしくは恋人であってもいいんだろうけど、全体に、いかにも無垢な印象があるので、幼い娘と考えるのがぴったりくる。「薄紅色」とか「母の日になれば」といった部分から、「この世に生を受けていない、胎児なのではないか」という意見を述べてる方もいた。そこまでは分からないけれど、いずれにせよ、いまだ濁世にまみれていない、純真な存在であることは確かだろう。ごくごく身近なひとが、永久に目の前から消え去ってしまったことが、うまく実感できないくらいの年齢の……。
 著作権の関係で、もとの歌詞が載せられないから、ちょっとアレなんだけども、そこはその、すいませんけど、各自でアレしていただくということで。では。


 腕を伸ばして空を押し上げるかのように、枝をめいっぱい張ってるハナミズキの樹。我が家の庭に植わっているあの樹にも、5月になって、いつものように花が咲いた。君もまた、あんなふうに腕を伸ばして、天真らんまん、自分の生を謳歌しているんだね。だけど、すこしだけ立ち止まって、僕の声が聞こえるところまで、歩み寄ってきてくれるかな? そう。君と僕とを隔てている、この深い河の間際までね。伝えておきたいことがあるんだ。それはまだ蕾でしかないけど、いずれ意味がわかるはずだから。
 このハナミズキの花びらみたいに、薄紅色をした小さな君にも、いつかはきっと恋人ができて、そのひとをとても大切に想うだろう。そんな年頃になったら、たぶん君は、僕が命を落とした理由も知ってしまうんだろうな。僕が、個人ではとうていどうにもできないような、理不尽で巨大な暴力に巻き込まれて死んだってことを。そうしたら、優しい君はどうするんだろう? 地球ぜんたいが穏やかになって、僕みたいな死に方をする者や、遺されて悲しむ君自身のような子がいなくなるようにって願うんじゃないかな。それがかなわぬ願いかも知れないと、うっすら分かってはいても。
 ……もちろん僕には、もっともっと言いたいことがたくさんある。だけど、それはまだ君が知らなくたっていいことだ。それに、いまの君にはこちらの世界は遠すぎる。僕の勝手な思いを押しつけて、君に重荷を背負わせるのはだめだよね……。さあ、そろそろもうここから離れて、もとの場所へと還っていきなさい。君たちのいる静かな生の世界、あたたかな光に満ちた世界にね。そして、ゆっくりと、いまの調子で、未来に向けて歩いていくんだ。
 (そうさ。復讐はなにも生まないよ。暴力に暴力で応じてみても、それはまた新たな暴力をもたらすだけだ。だから僕は、憤りや憎悪や、その他いろいろ、煮え滾るどす黒い感情を、じっと胸の奥に封じ込めてる。それはもちろん消えたりしない。消せるはずなんかないんだ。だけど、ぜったいに胸の奥に封じ込めておく。いつかはこんな酷いことがなくなり、平安なときがくるようにね。そしてその安らぎのなかで君が、ずっとずっと、大切なひとと暮らしていけるように……。)
 飛び交う蝶を追いかけるように、波間を滑っていく帆船のように、日々はあっという間に過ぎ去っていく。母の日にはもう、ハナミズキの花は散ってしまっているかもしれないけど、それだったら、せめて葉っぱを、母さんに贈ってやってくれるかな。僕のことは、たまに思い出すくらいでいいからね。僕がどうして死んじゃったかとか、そういうことをあまりくよくよ思い悩んで、君の時間を潰してほしくはないんだよ。
 いつまでも僕は、この煮え滾る感情を、じっと胸の奥に封じ込めておこう。いずれ君が抱く(たぶんね)あの願い、地球ぜんたいが穏やかになって、僕みたいな死に方をする者や、遺されて悲しむ君自身のような子がいなくなるようにっていう願いが、ほんとうのものになるように。そして、訪れた平和な時代のなかで、君と、君の大切なひととが、百年でも暮らしていけるように、ね。



スティング「シェイプ・オブ・マイ・ハート」(STING  The Shape of My Heart)和訳

2016-06-18 | 雑読日記(古典からSFまで)





 ずいぶん前に劇場でみた映画『レオン』の主題曲。ふいに聴きたくなってYOU TUBEを探したら、あった。こういうのはほんとにありがたいなァ……。ナタリー・ポートマンは今や世界を代表する美女となった。ジャン・レノは今やドラえもんになった。サイコっぽいブチ切れ演技をみんながやるようになったのは、この映画のゲイリー・オールドマンからだと思う。いろいろな点で記憶に残る作品だ。

 スティングという歌手については、名前はもちろん頻繁に耳にしてきたけれど、じつはそんなに詳しくない。ただ、「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」やこの曲を聴くかぎりでは、都会の底に生きるオトコの孤独を巧みに歌うシンガーと見た。ポーカーで飯を喰っているプロの賭博師(じっさいにそんな人がいるのかどうかは分からぬが)を歌ったこの詞は、ジャン・レノの演じた孤高の殺し屋とも重なるし、もっと普遍的に、日々のキビしい生存競争にさらされるオトコたち一般のことだとも取れる。

 今回はじめて英語の歌詞をじっくり読んで、あんまりカッコよかったので自己流の訳をつけてしまった。こういうの、著作権はどうなるんだろう。もし問題があるならすぐに削除するので、もし関係者の方がおられたら、怒る前にご面倒でもコメント欄にご一報ください。



 さながら瞑想するように、彼はカードを捌く。

 心を乱すことはない。

 カネのためにやっているのではない。

 敬意がほしいわけでもない。

 ただ答を見つけるためだ。

 チャンスという聖なる幾何学

 起こりうる結果の奥に隠された法

 数字だけがそれを導く。



 わかってる。スペードは兵士が手にする剣。

 クラブは戦いのための棍棒。

 ダイヤはこのゲームのもたらすカネだ。

 だがハートは、おれのハートの形とは違う。



 彼はダイヤのジャックを切ることもできる。

 スペードのクイーンを仕掛けることもできる。

 手の内にキングを隠すこともできる。

 やがてあの想い出は薄らいでいく。



 わかってる。スペードは兵士が手にする剣。

 クラブは戦いのための棍棒。

 ダイヤはこのゲームのもたらすカネだ。

 だがハートは、おれのハートの形とは違う。

 おれのハートはこんなじゃない。



 もし愛してるなんて口にしたら

 「どうかしてる」って言われるだろう。

 おれには多くの顔はない。

 かぶる仮面は一枚きりだ。

 喋りたてるのは無知な奴らで、

 無知の報いをその身に受ける。

 ツキのなさを呪う奴、怖れに自分を失う奴、

 そんな連中はどこにでもいる。



 わかっている。スペードは兵士が手にする剣。

 クラブは戦いのための棍棒。

 ダイヤはこのゲームのもたらすカネだ。

 だがハートは、おれのハートの形とは違う。

 おれのハートはこんなじゃない。

 おれの心はこの器では量れない。