ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

一青窈の「ハナミズキ」を《翻訳》する。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
前書き 初出 2015年9月


 5年まえ、このブログに一青窈さんの「ハナミズキ」についての記事を書き、いくつかコメントをいただいた。コメントの中にはご自身の解釈を寄せてくださった方もおられ、今回はそれらも併せて転載しようかと思ったのだけれど、さっき確かめてみたらその方のブログにはその文章がそのまま載せられていた。だからコメントの掲載はすべて控えて、5年前の記事の本文だけをコピーすることにした。
 いま読んでみると、「どうぞ行きなさい。お先に行きなさい」のくだりを、「明日(ないし未来)に向けての促し/励まし」と解釈している。そこは当時もかなり迷ったんだけど、やはり一面的だなあとは思う。「お先に行きなさい」は、むずかしくいえば、「自分の権利を相手にそっくり譲り渡す」ことである。それはたいへん崇高な行為で、この歌詞の要のようにも思えるのだが、たんに「未来に向けての促し/励まし」と見ると、そちらのニュアンスが抜け落ちてしまう。一義的に解釈を決め付けてしまうことの弊害だ。しかしまあ、5年前のぼくも述べているとおり、自分なりに意味を確定してみることで、見えてくることもあったと思う。それでは、前書きの前書きはここまで。以下は5年前の文章そのままです。

本文 初出 2009年2月

 一青窈さんの「ハナミズキ」という歌は、これまで折にふれて何度も耳にしてきたし、カラオケに行ったとき、自分で歌った覚えすらある。そのたびに、なんだか舌足らずな歌詞だな、とは思った。どうやら片思いの感情を歌ってるらしいけど、それにしても「君」と「僕」との関係が、あまりにもあいまいだ。だけどまあ、洋の東西を問わず、歌詞っていうのはそういうもので、そもそも字数も少なければ、メロディーラインという制約もある。ビートルズにだって不分明な歌詞は山ほどあるし、いいよなあ別に、と、さして気にもとめなかった。
 ところが先日、NHKの「SONGS」で久しぶりに聴いて、あっと思った。第一連の「どうか来てほしい。水際まで来てほしい」という呼びかけが、ひどく哀切に響いたのだ。気をつけていると、「一緒に渡るには、きっと船が沈んじゃう」とか、「果てない波がちゃんと止まりますように」とか、「白い帆を揚げて」とか、水にまつわる縁語が多い。どうやらこれは、たんなる片思いの話ではなくて、ひょっとして、「君」と「僕」とは幽明界を異にしているのではないか、ひらたく言えば、「君」と「僕」とのどちらかが、すでに亡くなっているのではないか、そう感じたのだった。
 それでネットをちょっと調べてみた。「ハナミズキ」と打ち込んだだけで、グーグルだと、「ハナミズキ 歌詞の意味」と候補が出る。なるほど、みなさんはとっくに、このあたりの機微に気づいておられたのだ。なんでも一青さんは、2001年9月11日にニューヨークで起こった同時多発テロ、とりわけツインタワーの崩落に触発されて、この歌詞をお書きになったとか。ご本人へのインタヴューでは、「わたしが大切に想うひとと、その方の好きなひととが、ずっと幸せでいられるようにとの思いを込めて作りました。」という意味のことを述べておられる。
 ひとたび「作品」として世に送り出した以上、その解釈は受け手たちに委ねられるのだから、たとえ作者本人といえど、むやみに言葉を費やすべきではない。その点は、ポップスにかぎらず、ほかのすべてのジャンルにおいても同じだろう。一青さんはそのことを十分に弁えておられるわけで、ここで語られているのは、「作り手の意図」であって、歌詞の内容の説明ではない。とはいえ、やはり歌そのものに、愛しい相手に会いたくても二度と会えない悲しみと、それゆえにいっそう深まる情愛とが満ちているのは、間違いのないところのようだ。いかに叶わぬ恋であれ、ただの片思いではこうはいくまい。
 それでぼくも、改めて歌詞全体をじっくりと拝見させていただいたのだけれど、「死」というファクターを導入しても、すぐに視界が開けたわけではなかった。というのも、相手を遺して先立ったのが、「僕」であるのか「君」であるのか、やっぱりどうしても見極められなかったからだ。どちらであっても意味が成り立つ、というか、どちらであってもかなりの異和が生じるのである。
 むろん、法律の条文じゃあるまいし、一義的に意味を確定しなければならないなんてことはない。揺らいでいたって構わない。ネットのうえでの皆さんのご意見も、半々かどうかは知らないが、けっこう二手に分かれている。ただ、一応ぼくは、この場で自己流の解釈を施そうと思い立ったのだから、自分として可能なかぎり、ぶれを排除したかった。揺らぎのままに留めておくのもよいけれど、できるだけ明晰さに近づけることで、得られるものもあるはずだ。それに、何といってもこれはあくまで一つの試みに過ぎず、「これが唯一無二の読解だ。」だなんて、主張するつもりはまったくないわけだし。
 そういうわけで、以下にひとつの「翻訳」を試みた。先立ったのは「僕」のほうで、その彼が、遺された「君」に呼びかけている。熟慮の結果、そのように定点を決めた。「君」は、妻もしくは恋人であってもいいんだろうけど、全体に、いかにも無垢な印象があるので、幼い娘と考えるのがぴったりくる。「薄紅色」とか「母の日になれば」といった部分から、「この世に生を受けていない、胎児なのではないか」という意見を述べてる方もいた。そこまでは分からないけれど、いずれにせよ、いまだ濁世にまみれていない、純真な存在であることは確かだろう。ごくごく身近なひとが、永久に目の前から消え去ってしまったことが、うまく実感できないくらいの年齢の……。
 著作権の関係で、もとの歌詞が載せられないから、ちょっとアレなんだけども、そこはその、すいませんけど、各自でアレしていただくということで。では。


 腕を伸ばして空を押し上げるかのように、枝をめいっぱい張ってるハナミズキの樹。我が家の庭に植わっているあの樹にも、5月になって、いつものように花が咲いた。君もまた、あんなふうに腕を伸ばして、天真らんまん、自分の生を謳歌しているんだね。だけど、すこしだけ立ち止まって、僕の声が聞こえるところまで、歩み寄ってきてくれるかな? そう。君と僕とを隔てている、この深い河の間際までね。伝えておきたいことがあるんだ。それはまだ蕾でしかないけど、いずれ意味がわかるはずだから。
 このハナミズキの花びらみたいに、薄紅色をした小さな君にも、いつかはきっと恋人ができて、そのひとをとても大切に想うだろう。そんな年頃になったら、たぶん君は、僕が命を落とした理由も知ってしまうんだろうな。僕が、個人ではとうていどうにもできないような、理不尽で巨大な暴力に巻き込まれて死んだってことを。そうしたら、優しい君はどうするんだろう? 地球ぜんたいが穏やかになって、僕みたいな死に方をする者や、遺されて悲しむ君自身のような子がいなくなるようにって願うんじゃないかな。それがかなわぬ願いかも知れないと、うっすら分かってはいても。
 ……もちろん僕には、もっともっと言いたいことがたくさんある。だけど、それはまだ君が知らなくたっていいことだ。それに、いまの君にはこちらの世界は遠すぎる。僕の勝手な思いを押しつけて、君に重荷を背負わせるのはだめだよね……。さあ、そろそろもうここから離れて、もとの場所へと還っていきなさい。君たちのいる静かな生の世界、あたたかな光に満ちた世界にね。そして、ゆっくりと、いまの調子で、未来に向けて歩いていくんだ。
 (そうさ。復讐はなにも生まないよ。暴力に暴力で応じてみても、それはまた新たな暴力をもたらすだけだ。だから僕は、憤りや憎悪や、その他いろいろ、煮え滾るどす黒い感情を、じっと胸の奥に封じ込めてる。それはもちろん消えたりしない。消せるはずなんかないんだ。だけど、ぜったいに胸の奥に封じ込めておく。いつかはこんな酷いことがなくなり、平安なときがくるようにね。そしてその安らぎのなかで君が、ずっとずっと、大切なひとと暮らしていけるように……。)
 飛び交う蝶を追いかけるように、波間を滑っていく帆船のように、日々はあっという間に過ぎ去っていく。母の日にはもう、ハナミズキの花は散ってしまっているかもしれないけど、それだったら、せめて葉っぱを、母さんに贈ってやってくれるかな。僕のことは、たまに思い出すくらいでいいからね。僕がどうして死んじゃったかとか、そういうことをあまりくよくよ思い悩んで、君の時間を潰してほしくはないんだよ。
 いつまでも僕は、この煮え滾る感情を、じっと胸の奥に封じ込めておこう。いずれ君が抱く(たぶんね)あの願い、地球ぜんたいが穏やかになって、僕みたいな死に方をする者や、遺されて悲しむ君自身のような子がいなくなるようにっていう願いが、ほんとうのものになるように。そして、訪れた平和な時代のなかで、君と、君の大切なひととが、百年でも暮らしていけるように、ね。



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