初出 2012/02/08
金曜ロードショーで『崖の上のポニョ』を見ての感想は、「こればっかりは劇場で見なくちゃだめだなあ」だった。この作品の見所は、ポニョが「宗介んとこ行くー」と叫びつつ、リサ・カーと並走するように波のうえを疾駆していくシーンに尽きると思うんだけど、我が家のしょぼい画面では、迫力が千分の一くらいになっちまって、あとはシナリオの粗さとストーリーの素朴さがいたずらに際立つばかりであった。劇場で鑑賞した時は、べつに3Dでもないってのに、見てるこっちまで大波に呑みこまれそうな気分になって、ポニョの爆発的な思いのたけ(ただの我がまま?)に圧倒されたもんですが。
いまシナリオの粗さと書いたけど、どうも『ハウルの動く城』、いやいや、すでに『もののけ姫』の後半部あたりから、宮崎駿さんはお約束の筋立ってものに興味を失っているようで、難しくいえば脱構築とか、ポストモダンということになるんだろうけど、「英雄」が「協力者」の助けを借りて「龍=魔物」を倒し、「囚われの姫」を救い出すという、『天空の城 ラピュタ』で完成させたエンタテイメントの王道を、自らの手で破壊し続けておられる。『千と千尋の神隠し』では、千尋のアイデンティティーはまだしも一貫していたものの、湯婆婆と銭婆(両者はもちろん同一のものだ)の性格が、物語の前半と後半とで、「恐るべき支配者」から「優しい庇護者」へと変貌を遂げる。
「純文学」的に見るならそれは、人間と人生の複雑さを表現していると評価できるし、だから宮崎アニメはディズニーよりも高尚なものには違いないのだが、エンタテイメントとしてはじつに危ういってことも事実だ。『ハウル』では、ついにその複雑さがヒロイン本人にまで及んでしまって、ソフィーお婆ちゃんは大騒ぎして城を壊したかと思うと慌ててまた造り直したり、友人でありハウルの魂の一部でもあるカルシファーを不用意に消火しかけたり、いったい何がしたいのか、どうにもわけがわからない。だれかあの女性の言動を完全に理解し、きちんと感情移入できた方はおられるだろうか。ぼくは三回見直したけど、どうしてもやっぱり無理だった。
で、ここにきて宮崎ヒロインは、元気いっぱいで我がまま放題の童女と、お行儀の悪いヤンママと、すべてを抱擁し、肯定するかのごとき大いなる母性に分裂してわれわれの前に現れたわけだが、もちろんぼくは、それら三者のどれにも感情移入できなかった。ただ、所ジョージが「もしあの少年が受け容れてくれなかったら、ブリュンヒルデ(ポニョ)は泡になってしまう。」と必死で訴えるのに対して、「あら。わたしたちはもともと泡から生まれたのよ。」と事もなげに応じるグランマンマーレの台詞はちょいと凄かった。あの台詞だけは忘れがたい。色即是空。だから彼女を「観音さま」と認識した船員さん(宗介の父)はまったく正しいわけで、あの作品のシナリオは、エンタテイメントとしては粗いけれども本筋はきっちり踏まえているのだ。当たり前だけど。
しかし、もののけ姫サンさんみたいに色濃く面影を宿したヒロインを見ても、ソフィーお婆ちゃんやポニョやグランマンマーレみたいに似ても似つかぬヒロインを見ても、とかく思い起こされるのはナウシカのことで、いまや宮崎アニメの新作を見るという行為は、ナウシカの不在に繰り返し直面しては、その魅力を懐かしむという逆説的な儀式と化しているのかも知れない。精神分析学が専門で、小説や映画に関しても鋭い批評を書く斎藤環さんは、ナウシカ(に代表される戦う少女)のことを「ファリック・ガール」と定義づけた(『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫)。だいたいまあ、「少年性と少女性とを併せ持つ両性具有者」くらいの意味で、汎用性の高い概念だと思う。
なるほどナウシカは半分くらい男の子であり、それが彼女の個性の大きな部分を形づくっているのは間違いない。だけどぼくは、この概念を提示されたおかげでもっと多くのことが分かった。ナウシカがあれほど魅力的なのは、彼女が女性の持ちうるほとんどすべての属性を併せ持っているからだ。「少年性」はそのうちのひとつにすぎない。まず彼女はグライダーに乗って天空から登場し、われわれの前にふわりと着地する。すなわち、まずは優秀な飛行家であり、さらにいうなら地上に降りた天使=天女にほかならない。それから腐海の奥へと入り、フィールドワーカー、冒険家、自然科学者、そして文学少女っぽいロマンティストとしての相貌を次々に見せる。そして、彼方からの一発の銃声を耳にするや否や、一転して俊敏な戦士に身を変える。
怯えて猛るキツネリスを手なづけるあの有名な場面はもちろん母性の発露だし、それは巨大な蟲たちを含めた他のあらゆる生物へと及ぶ。ただし王蟲との交感は、むしろ巫女的な資質のたまものというべきか。これはいったん怒りに身を任せると、敵と見なした相手を容赦なく殺戮してしまう激烈さとは矛盾しない。異界への憑依も狂戦士としての昂ぶりも、ヒステリーのふたつの側面に違いないからだ。もとより彼女はそもそも姫=高貴なる血筋の者なのだが、常日頃は労働者として耕作にも従事し、「風の谷」の住民にとってはむしろ共和主義的なリーダーとよぶべきものだ。いうまでもなくジャンヌ・ダルクでもあるが、奉じるのはカトリックの神でも王権でもなくて、大いなる地球の生態系そのものである。このような調子で連ねていけばキリがない。プロットのそれぞれの場面において、さながら陽光を浴びたプリズムのように、ナウシカは目映いほどにその属性を変幻させていくのである。
そしてあの「少年少女名作劇場」めいた、気恥ずかしくも感動的なラストシーンで、彼女はまさしくゲルマン神話的な伝説の英雄と一体化し、名実ともに少年というか、逞しき青年の属性をすら身に纏うのだが、いっぽう、謂集してきた村人たちに揉みくちゃにされて「きゃ、きゃ、きゃ。」と島本須美さんの声ではしゃぐ彼女は、まるっきりもう、そこいらへんの女子高生である。どの仮面(ペルソナ)がというのではない、これらすべてが渾然一体となりつつ、臨機応変、適確無比に前面に現れるがゆえに、ナウシカはあんなにも魅力的なのだ。
だけどまあ、監督としての宮崎さんのお立場も何となく分かる気がするのである。十代で「巨匠たちのタッチ」を身につけてしまったピカソじゃないけど、『カリオストロの城』を経て、劇場用第二作でいきなりこれほど完成度の高いものを作ってしまった以上、あとはそのヴァリエーションを紡ぐのでなければ、定型を壊していくしかないわけだ。それに、年齢を重ねて五十、六十になって、相も変らず戦闘少女でもあるまい。自分に呪いをかけた憎っくき魔女すら平然と介護してしまう、ソフィーお婆ちゃんのキャラクターこそ、正しく壊れたナウシカの、21世紀の進化型であるとは思う。感情移入はできないけれども。