ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

宇多田ヒカルの頃。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 初出 2013年08月30日


 「宇多田ヒカルの時代」ではない。あくまで「宇多田ヒカルの頃」である。何を言ってるんだろうとお思いになる方もおられるやも知れぬが、ぼくの個人史においては紛れもなく「宇多田ヒカルの頃」と呼ぶよりない時期があったのだ。宇多田ヒカル名義のデビューシングル「Automatic」が発売された1998年12月初頭から、ファーストアルバム「FIRST LOVE」が社会現象を巻き起こした1999年4月を経て、そうだなあ、まあ、「SAKURAドロップス」くらいまでだろうか。もちろん、ぼくが一人で夢中になっていたわけではなく、ひとことで言えば「ポスト小室哲哉のJ‐POPシーンが宇多田ヒカル一色に染まった」といっていいほどのムーブメントだったのだけれども、史上最高の売り上げを果たした(この記録はいまだ破られていない)「FIRST LOVE」旋風が一段落したあとも、しばらくのあいだ、宇多田ヒカルが新曲を出すたび一部のワイドショーが取り上げていたものだ。宇多田の新曲は、ほとんど事件だったのである。阪神・淡路大震災とオウムの傷跡はまだ生々しかったし、信じがたいような少年犯罪も多発していたが、総じていえばニッポンは(そして世界も)まだ平和だったのかもしれない。

 「Automatic」はたまたまテレビのCMで断片を聴き、耳に強く残っていたのを翌日くらいにFMで聴いて、「すげえや」と感じ入ったのだが、あれから15年を隔てた今もなお、「ドゥシドゥシドゥシドゥシ」という冒頭のあのスクラッチ4連打を耳にするだけで、興奮がうっすら甦る。ぼくは楽譜も読めない素人だけど、アメリカのR&Bは好きでレンタルで借りてよく聴いていた。ソウルほど土臭くはない、もう少し洗練された感じのやつで、当時はブラック・コンテンポラリーと称していた。こういうのが早く日本でも出てこないかなあ、と思い続けて十年くらい経ったところに、やっと宇多田ヒカルが現れたわけだ。ただ、その前にMisiaがデビューしている(98年2月)。日本における本格的な女性R&Bシンガーの称号はMisiaに与えられるべきものだろう。これについては島野聡というプロデューサーの存在を逸することはできないが、ともかくMisiaの登場により、小室流の単調な打ち込みの「ビートのきいた歌謡曲」から、「R&B」調へとシーンが変わった。それは安室奈美恵の路線チェンジにも明らかだ。

 宇多田ヒカルもその流れの中から出てきたといっていいと思うが、楽曲の良さもさりながら、彼女のばあいはメディアへの露出の仕方がちょっと尋常ではなかったのである。へんな狭苦しい(面積ばかりか天井まで低い)部屋でふにゃふにゃしながら歌っているPVのほかに映像はなく、履歴についても、NY在住だとか、まだ15歳だとか、なかなかの文学少女だとか、某スタジオ・ミュージシャンの娘(音楽雑誌で確かにそんな記事を見た)であるなどといった情報がぱらぱらと散布されるだけだった。そんな状況が、98年の12月から、年をまたいでしばらく続いた。必ずしもそれは営業戦略ではなかったらしいのだが、大衆の好奇心を煽り立てるには十分であり、結果として宇多田ブームの過熱をいっそう高めることとなった。何よりも、すべての楽曲を自分で作っているという点が傑出していた。ぼくもまた熱に浮かされた可憐な大衆のひとりとして、「FIRST LOVE」を予約して発売日に買った。はっきり言って、ここに収録された曲は若書きといいたいものが多くて、作品として優れているとは思わないけれど、しかし売り上げのことを別にしても、記念碑的なアルバムだとは思う。ただ、いい曲や凄い曲が溢れるように生み出されるのはこのあとからだ。

 この記事を書く気になったのは、YOU TUBEで、彼女のシングル曲をオーケストレーションで編曲したものを聴いたからだ。この手の企画はよくあるが、素材がポップスのばあい、たいていは安っぽく響くのが常だ。ビートルズですら往々にしてその弊を免れないのだが、しかし宇多田ヒカルのはそうじゃなかった。オーケストラに負けていない。少なくともぼくの耳には負けてないように聴こえる。それは本物のメロディー・メーカーということではないか。「Fly me to the moon」のようなスタンダードを聴けばわかるが、彼女は歌手としても一流だ。歌詞はそれほどだとは思わない。そこは林檎のほうがずっと上だろう。(「な・なかいめの/ベ・ルでじゅわきぃを」のような分節には確かにびっくりしたけれど)。アレンジも、これはもちろん周囲のスタッフの手が加わっているわけだが、商業ポップスとしてふつうだと思う。しかしメロディーと歌唱はすばらしい。この二点を兼ね備えている点で、ぼくは宇多田ヒカルを天才と呼びたい。天才、すなわち天賦の才だ。これは訓練では育たない。ボイストレーニングをすれば声量は豊かになるし音程も確かになるかもしれないが、しかしそれでは声楽家には成れても本当のシンガーには成れない。メロディー作りも同じことだ。

 たとえば東京芸大やバークリーの作曲科を優秀な成績で卒業しても、それで人々の心をつかむ名曲をたくさん書けるわけではない。いっぽう、さほど音理は知らずとも、鼻歌まじりに胸をうつ曲、元気の出る曲、泣かせる曲をすらすらと作ってしまう人もいる。それは知性(理論)で統御しきれるものではない。もっと深いところからでてくるものだ。「Automatic」の楽曲分析として、高見一樹という人がこう書いている。「軽いスクラッチから入って、いきなり少女趣味なシンセのリード、ハイセンスなフェイク……。そして記号的に日本人の情緒を刺激するFm―A♭(E♭)―D♭― maj7―Cm=Am―C(G)―F―Emという実に王道なハーモニーのクリシェが随所に登場する。……(中略)……この響きを骨に、A―B―Cと曲全体が基本に忠実に構成され、イントロに先取りされたBメロのメジャーなコードの響きをはさみつつ、Aメロ、BサビのいわゆるAUTO MATICな印象を作っていく。……」きっと正しいアナリーゼなんだろうけど、しかしこうやって解剖してもらったからといって、なにか本質が白日の下に晒されたという気はしない。「Automatic」を耳にする時のときめきが再現されるわけではない。ぼくは批評(分析)をとても大事に思っているし、だからこそこんなブログをやってるんだけど、しかしやっぱり批評とは作品の前で常に無力なものだとも思う。とりわけ宇多田ヒカルのような桁外れの才能を前にすると、つくづくそう思ってしまう。

 ぼくのなかで「宇多田ヒカルの頃」が終焉に向かっていったのは、彼女がそろそろ二十歳をすぎて、わりとひんぱんにメディアに顔を出すようになったあたりである。アタマの回転が早すぎるのかも知れないが、ケーハクな喋りかたが好きになれなかった。衣装のセンスもどうかと思った。ましてや、パートナーを選ぶセンスはもう最悪としか思えなかった。はなはだしく失礼なことを申し上げているようだが、しかしあの兄ちゃんの監督したPVは、ただ一本「deep river」だけを除いて、どれもみな悪質な冗談としか思えない。そんな違和感とはうらはらに、彼女のつくる楽曲だけはひたすら凄みを増していった。以前ほどの情熱は薄れたものの、ほとんどの曲はリアルタイムで聴いたはずである。病気が公表されたときはもちろん心配した。ただ、活動休止宣言を聞いたときは、それほど驚きはしなかった。ランボー、……いや、中原中也のことをぼんやりと思い浮かべたりもした。しかし、久しぶりに耳にした新曲「桜流し」はやっぱりよかった。このアーティストと同時代に同じ国で過ごせて幸運だと思った。

 先にあげた高見一樹のコード進行解説は、KAWADE夢ムック・文芸別冊「宇多田ヒカル」に入っている。このムックには武田徹という人も寄稿しているのだが、その中で武田氏は、田谷秀樹という人の『読むJ―POP』という本から、以下の文章を引いている。「ユーロビート系のダンスミュージックとR&B系との最大の違いは、リズムの『間』と『揺れ』だ。その感覚を身につけていないと気持ちのよい歌は歌えない。それがブルースやゴスペルのようなブラックミュージックの歌が民謡に似ていると指摘される根拠である。……(中略)……宇多田ヒカルが際立っていたのは、15歳にしてそのグルーブを何の苦もなく自然に実に気持ちよさそうに身体で表していることだった。日本語の音楽で育っていたら、あんな風には歌えなかっただろう。それは『ついに出てきた』と思わせた。ヒップホップの聖地ニューヨーク。子守歌のようにそうした音楽を聞いていた15歳の少女。70年代に染みついた『怨歌』のイメージから逃れるためにニューヨークに渡った母親の藤圭子、彼女の父親は浪曲師だった。そうやって考えると、宇多田ヒカルは、日本の音楽の歴史の到達そのものと言ってもいいかもしれない。」 武田氏はこの一節について、「言いたいことは分かるが、詳細は何も語っていない文章だ。」と切り捨てている。ぼくもたしかに安易な論調だなあとは感じたが、そこまでひどいとは思わない。ことに、藤圭子の「血」が宇多田ヒカルに及ぼしている影については、安っぽいスキャンダリズムを排した、純粋に音楽学的な考察が加えられて然るべきだと思う。

 このたびの一件は本当に傷ましく思う。しかし家族のことは家族にしかわからない。もちろんぼくも、たんなる野次馬としてさえこの件に関して何ひとつ言うべきことはない。ただ、いつかまた宇多田ヒカルの新しい曲を聴ける日が来たらいいと思うばかりだ。

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