ダウンワード・パラダイス

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映画評 『王の男』/『墨攻』

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
『王の男』




初出 2007/01/16

 シンクロニズムというべきか、このあいだ映画について書いたあと、知り合いからチケットを譲られたのである。「このところ妙に目が肥えちゃって、近ごろの映画はどうもね」などと生意気を言っていたものの、そこはおれも根が映画好き、ただでスクリーンで見られるとなると、いそいそと上映館に足を運んだのだった。

 作品は、韓国映画『王の男』。もとよりおれは韓流ブームとやらの蚊帳の外におり、ヨン様にもチャングムにも特に興味はなかったが、ただ一本の映画によって、「韓国映画、侮りがたし」との感を抱いてはいたのだった。それは1996年にイム・グォンテクなる監督の撮った『祝祭』って作品で、これも偶然に観たんだけど、感心した。繁茂する蔦のように縺れ合い絡み合う縁戚関係が圧巻で、中上健次を思い起こした。なるほど中上亡きあと、日本文学が貧血気味なのも無理はないなと思ったもんである。

 ただし今回、『王の男』に関しては、始まるまでは期待半分ってとこだった。それも道理で、タイトルやポスターの売り線と、作品の本旨とがずいぶん違う(ま、そういうことってよくあるけど)。原題は『王と道化』で、当然こちらがテーマに近い。女形の芸妓が美貌を生かして宮廷に入りこみ、王の寵愛を奪う話かと思ったら、そうじゃないのだ。

 今も上映中の映画だし、詳しいことはネタバレになるから控えるけれども、これは身分卑しき二人の大道芸人と、権力機構の頂点にある王(しかもこの王、李朝史上最悪の暴君でもある)との、凄絶にしてプラトニックな三角関係の話なのである。

 とにかく主演の三人の男優がいい。フィガロや吉四六に通じるトリックスター的知性と、ヒーローにふさわしい鉄の信念とを兼ね備えたチャンセン役のカン・ウソン、妖艶というよりむしろ、見ているうちに哀切さが胸に迫ってくるコンギル役のイ・ジュンギ、そして何より、癇癖と幼児性とを醸し出しつつも、全編を引き締めるに足る王の威厳と、不幸な生い立ちから来る孤独を見事に演じた燕山君役のチョン・ジニョン。この三人のうち誰が欠けても、この映画は成立しなかった。

 この『王の男』、もとは舞台劇だったとのことで、芸人たちの演じる仮面を用いた道化芝居をはじめ、人形劇や影絵など、劇中劇が多用される。それに加えて絶対権力者たる王と、社会のあらゆる機構から外れた芸人たちとが交錯するとなると、これはもう、シェイクスピアの世界である。現実と虚構、真実と悪ふざけ、聖と賤、権威と卑俗、高雅と猥雑、規律と退廃、大人の厳粛さと子供じみた哄笑、愛と残虐、栄光と失墜、そして、男性性と女性性。これら無数の対立項が、目まぐるしく混在しながらせめぎあう世界。少なくともおれは、当代の日本映画において、ここまでシェイクスピアを自家薬籠中のものにした監督ってのを思い出せない。

 のみならず、美しい女形と、逞しい男役との強い絆といったらチェン・カイコーの『さらば、わが愛 覇王別姫』(1993年)だし、孤独な王が虚無の翳りを漂わせながら悦楽に興じる情景は、ヴィスコンティーを思わせる。つまりこの監督は勉強熱心なのであり、その勉強が優れた俳優たちを得て鮮やかに具象化したのがこの作品であって、あげく、おれは鼻水と涙でぐしゃぐしゃになるほど泣かされちまったのだった。

 だいたいおれは、ふだんは冷血漢のくせに、スクリーンの前では他愛なく泣き上戸になっちまうんだけど、しかしここまで泣いたのは、ジュゼッペ・トルナトーレの『明日を夢見て』(1995年。イタリア)か、ホセ・ルイス・クルエダの『蝶の舌』(1999年。スペイン)以来であろう。じっさい、良い映画だと思う。『硫黄島からの手紙』と並んで、微力ながら、ぜひ推薦しておきたいのだ。それとともに、日本映画よ、もうちょっとしっかりせんかい、韓国映画に負けとるやないか、と、この場を借りてなぜか大阪弁で檄を飛ばさせていただきたいのである。

 付記 じつは私は韓国に対してかなり屈折した思いを抱いているが、しかし優れた芸術ってやつが、わだかまりを超えて直截に胸に迫ってくるのは確かである。まさに文化は最上の外交手段だと言うべきだ。戦後、クロサワ映画の果たした役割は、いかなる外交官よりもたぶん大きいものであったろう。そういえば黒澤明(1910 明治43~1998 平成10)こそ、私の知る限り、シェイクスピアをもっとも深く血肉化した日本映画の作り手だった。



『墨攻』



初出 2007/02/06

 舞台は紀元前370年ごろの中国。秦が初めて全土を統一する前の、いわゆる戦国時代で、斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の七つの国が乱立し、互いに食うか食われるかの争いを繰り広げている。さらにそれ以外にも、正史には名を留めぬほどの、国とも呼べない小規模の邑(むら)があちこちにある。これらは周りを城壁で囲み、いちおうの独立を保ってはいるが、大国が本気で攻め立ててくればひとたまりもない。いわば、王とは名ばかりの地方豪族が率いる城塞都市だ。

 ここに「墨家」という集団がいた。兼愛(博愛)を説き、平和を尊び、大国に対しては周りの小邑を侵略せぬよう勧告するが、その勧告が受け入れられぬと見るや、標的にされた邑に赴き、それを助けて防衛に努める。とうぜん策謀にも優れ、軍事技術にも長けている。しかし傭兵とは異なり、見返りは一切要求しない。さらに、その軍略は守勢に徹し、けしてこちらから攻めることはない。「墨守」という言葉はここから生まれた。さながら「実践的平和主義」とでもいうか、儒家、法家、道家(老荘)など、個性豊かな思想集団があまた現れたこの時代においても、際立って特異な存在だった。アンディ・ラウの演じる主人公の革離は、そんな邑のひとつ「梁」の王に請われて、趙の侵略からこの「国」を護るべく、単身、救援に駆けつける。

 『墨攻』は、中・韓・香港・日の合作映画だ。まずは、アジアの映画界からハリウッドの大作に匹敵するほどの重厚な作品が生み出されたことを素直に寿ぎたい。しかも、徹底して全編のテーマを「戦争の惨苦」に絞りこみ、主人公の側から見た「敵兵」の痛みにまで気を配っていた点は、まことに良心的だと思う。

 さて。料金を払って映画館で見るに値する映画だということを前提にした上で、個人的にはいくつか言いたいことがある。何よりもまず、アンディ・ラウを起用した時点で、この映画には一定の制約が課せられることになった。彼の演じる革離は理系の軍事技術者であり、本来その職務は城砦の整備・武器の製造・人材の育成といった地味な作業なのだが、映画ではそういった細部の描写を割愛して、アクションシーンを含めた派手な見せ場を作らなければならない。その分だけ流れが粗くなったのは否めない。

 ファン・ビンビンの呆れるほどの美しさも、残念ながら作品のリアリティーを損なっていた。いかに名将の娘であっても、若い女性が騎馬隊長という設定はどうか。しかも彼女が、あの非常時において、親しげに革離のもとに通うのは合点がいかぬ。酒見賢一の原作(新潮文庫『墨攻』)では、戦時下における男女の交流は死に値する罪だと全員の前で革離自身が宣言しており、当然かくあるべきだと思う。

 最大の問題点は、「非戦」を旨とする革離が、そもそもの初めになぜ降伏案を退け、徹底抗戦を主張したのかがいまひとつ分かりにくいことだ。それが墨者としての使命だからというのは理由にならない。原作を読めば納得できるが、映画の観客にしぜんとそれが伝わらなければ駄目なので、あれでは革離は梁王一派にただ利用されただけとも見える。そのため、戦の悲惨さが執拗に描かれれば描かれるほど、革離の当初の判断が疑わしく思え、感情移入が難しくなるのだ。

 ハリウッドのライターであれば、たぶん冒頭に革離の少年時代のシーンを置いたはずだ。幼い革離の住む邑(むら)が大国に狙われ、大人しく降伏したにも関わらず、兵士たちに蹂躙されて、住民は皆殺しにされる。そんな中、かろうじて彼だけが生き延び、墨家の集団に拾われる。そんなエピソードを作って挿入しておけば、説得力が遥かに増した。

 ついでにいうと、ハリウッドのライターであれば、後半部分のプロットは次のようにしただろう。革離の見事な指揮のもと、梁は大国・趙を追い払い、趙軍は退却する。すると梁王はたちまち態度を翻し、革離に謀反の濡れ衣を着せて、牢に閉じ込めてしまう。しかし退却したと見えた趙軍は、とんぼ返りで兵を戻して攻めかかり、革離のいない梁軍は、脆くも城砦を破られてしまう。そこで梁王はまたも態度を翻し、革離に再度の助力を請う。逸悦(ファン・ビンビン)はそんな梁王に愛想を尽かし、二人きりで逃げようと革離に言うが、民衆を見捨てられない革離は彼女の誘いを振りきって、決死の抗戦に打って出る。逸悦も死を覚悟して彼に従う。  これがハリウッド製ヒーローものの定跡だ。

 『墨攻』があえてこの定跡を外し、ごちゃごちゃと捻った展開にしたのは、ハリウッドとアジア映画とは違うと言いかったのか。とは言え、梁王とその側近たちのキャラクター設定は絶妙だった。あのような小国の太守や将軍なんて、まさにあんな感じだと思う。猜疑心が強く、保身だけを考え、大局が見えない。梁王や牛将軍の描き方において、映画は原作をはっきり上回っていた。

 勝手なことを書き散らしたが、戦闘シーンの迫力といい、徹底して戦争の惨苦を訴えたテーマといい、『墨攻』がアジアの生んだA級の作品であることは間違いない。そのことは最後に改めて強調しておこう。

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