ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ピーター・フォークの思い出

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽


初出 2011/07/13


 ああ。そういえばピーター・フォークさんが亡くなったんですねえ。そのことを書くのを忘れていた。刑事コロンボ……。懐かしいっていうよりも、ほとんど我が幼年期の記憶に溶け込んでいる。小学校に上がるか上がらないかくらいの時期に日本での放映が始まって、終わったのは、そう、たしか高一のときだったなあ。放映完全終了の告知にショックを受けて、クラス日誌にそのことを綿々と書き綴ったからよく覚えてる。級友の評判はよくなかったけど。だいたいクラス日誌なんてのは、学校で起こった出来事を書くもので、そんな私的な思い入れを大学ノート数ページにわたって述べ立ててどうすんの? そんな反応がかえってきたような。空気を読まずに好き勝手なことを人目もはばかることなく書き散らす習性は、あの頃からすでに始まっていたらしい。いやそんな話はどうでもいい。

 ここでいう「刑事コロンボ」は、89年以降に作られた新シリーズを含まない。本国アメリカで68年にオンエアされた「殺人処方箋」から、78年の「策謀の結末」まで、全45作のことである。90年代に日本テレビの「金曜ロードショー」枠で放送された新シリーズはぼくも何本か見たし、面白いのも幾つかあったが、概して言えば「なんか違う。」という気がした。スタッフも一新されたんだろうし、フォーク氏本人も齢を食ったし、撮影所のシステムも変わったろうし、技術も長足の進歩を遂げたし、他にも理由はたくさんあるんだろうけど、何よりもその違いは、アメリカという社会そのものの変質を図らずも浮き彫りにしているように思えた。この点をじっくり掘り下げていけば相当に面白い考察ができるはずだが、残念ながら今のぼくには手に余る。

 このドラマが集中的に放映されていたのは、73年~75年くらいの間だったと思う。NHK総合テレビで、土曜日の夜8時から。「連想ゲーム」のあとだった。だからいつも家族で揃って見ていた。毎回必ずひとり(時には二人)の人物が殺されはするけど血なまぐさい描写はほとんどないし、エッチなシーンも皆無だから、家族で見るにはうってつけだった。ご存知のとおり「コロンボ」の構成は「倒叙もの」といわれ、冒頭でいきなりゲスト・スターが犯行に及ぶ。だから通常のミステリーとは違って、視聴者の楽しみは「犯人当て」には向かわずに、「犯人はいかなるミスをしたのか?」「それをコロンボがいかにしてあばくか?」という点に集まる。そのぶん茶の間の推理ごっこも複雑でコクのあるものになった。「あ、そうか。たぶん今のがヒントなんだよ。ほら」などと指摘して、それが的中したら嬉しかったものだ。

 季節を問わないよれよれのレインコートにもしゃもしゃの頭髪。ヒゲの剃り跡が青く残った赤ら顔に、片目をしかめた独特の面差し(当時はまだ知らなかったが、フォーク氏の右目は本当に義眼だった)。そして何より、「うちのカミさんがね……」「すぃません、あと、もうひとつだけ」「あたしの甥っ子で、病院の皮膚科にいる奴の説だとね……」「さぞ、ぶったまげるでしょうなあ」「イタリア人で音痴なんてなァあたしだけでしょうねえ」といった、ユーモラスで物柔らかな語り口。今は亡き小池朝雄さんによるあの吹き替えは、山田康雄さんの「ルパンⅢ世」と並んで日本声優史上に残る名演だと思うが(お二人とも本職は舞台俳優で、声優専業の人ではない)、ほんもののピーター・フォークの口調は、もっと甲高くて攻撃的で、「カリフォルニア・ドールス」などで吹き替えをやった穂積隆信さんに近い。「コロンボ」を日本に持ちこむに当たってああいう口調に変えたのは、小池氏ご本人と、当時の演出家による工夫だったらしい。このドラマは世界各国で放映されたが、日本の視聴者はじつに幸福であったと言える。

 「うちのカミさんがね……。」は流行語にもなったし、コロンボ警部は70年代を代表する顔であると共に、海外ドラマでありながら、ニッポンの昭和を代表する顔の一人ともなった。レギュラー放送が終わったあとも、歳末やお正月などにたびたび特番のようなかたちでオンエアされ、十年あまりにわたって繰り返しブラウン管(だったんですよ当時はね)に登場していた。それゆえこちらの成長過程のさまざまな記憶と結びついていて、よりいっそう忘れがたいわけである。田舎に帰郷してイトコたちと一緒に見たこともあった。優等生の従妹が先の展開をぴしぴし当てるので悔しかった。そんな思い出もある。ピーター・フォークはたぶんぼくが初めて名前を覚えてファンになった俳優であり、人生で最初に好きになったのがダンディーな美男スターではなくてこの手の「性格俳優」であったことは、のちに原田芳雄、根津甚八といった癖の強い役者に惹かれていくきっかけになったとも思う。そして何より、アメリカ製エンタテイメントの洗練ぶりを思い知った。「一見すると風采の上がらぬ凡庸な男が、じつは大変な人物だった。」という設定は日本でいえば「水戸黄門」に相当するが、「頭が高い、控えおろう。この紋所が目に入らぬか。」「ははぁーっ。」なんかに比べて、どう見てもあっちのほうが知的で粋で洒落ているのは明らかだろう。

 「コロンボ」の王道パターンは決まっている。さっきも書いたとおり、まず冒頭で犯人が殺人をおかす。その時点では視聴者は、彼の顔だけは分かっているが、それがどのような人物で、被害者とどんな関係にあったのかはまるで分からない(だから動機もわからない)。やがて遺体が見つかり、警官や鑑識の人たちがものものしく行き交う中を、「のこのこ」といった感じでコロンボ警部があらわれる。額に手を当て、「あたしゃダメ。血を見るだけでのびちゃう。」などと言いつつも、「ホトケさん」(彼は遺体のことを必ずこう呼ぶ)のことはしっかり観察しており、たとえば「刺し傷の角度から見て、犯人はおそらく左利き」みたいなことを絶対に見逃さず、犯人を追い詰めるための材料にする。次のシーンでは犯人との最初の出会い。これはたいてい相手の自宅か仕事場に赴いて行われることが多い。医者や弁護士、建築家や著名な作家など、犯人はすべて社会的地位と資産を備えた名士であり、自宅であれば大邸宅だし、仕事場であればビルのワンフロアをまるごと占有するような広さである。当時の日本の視聴者にすれば、そういったセレブたちの(そんな言葉はまだなかったが)「業界の内幕」を垣間見るだけでも十分に刺激的だったはずだ。

 「初めまして。あたし、ロス市警のコロンボといいます」「ほう。警察の方がなんの御用ですかな」「じつはエリックさんのことでちょっとお話が……。ご存知ですよね、エリック・アダムスさん」「ああ、もちろん。彼はわが社の優秀なコンサルタントでね。私の長年の友人でもある。彼がどうかしたのかね?」「じつは……あの……気を確かにお持ちくださいよ。……お亡くなりになりました」「(驚愕の表情……そしてしばしの絶句ののち……)そんな……まさか……そんなことが……。いつだ。いったいいつのことだね」「昨夜の午後10時から午前4時までのあいだです。もうちょっと詳しいことは、いま鑑識からの報告を待ってるとこですが」「……信じられん。一昨日にも会ったばかりなのに……」「お察しします。まったく、刑事なんてのは因果な商売でして」といった具合のやり取りがあって、多くの場合、すでにこのとき犯人は一つか二つちょっとした不手際をやらかしており(よもや、「いったい誰に殺されたんだ?」などと口走る馬鹿はいないにせよ)、コロンボのほうは、その恐るべき慧眼によって、早々と彼に目星を付けているのである。

 そのあと警部は、毎日のように犯人のもとに通ってくる。それもアポイントメントを取って訪問するわけではなく、「お手間は取らせません。いやもう、ほんの三分だけ」なんてことを言いながら、けっこう強引に上がりこみ、事件についての話をする。高価な葉巻をねだったり、置いてある軽食を勝手に食べたりすることもある。低姿勢だが厚かましい。これがコロンボ警部の持ち味だ。話の中身は、ふつうの警官っぽい「聞き込み」のことももちろんあるが、「捜査線上で浮かんだ疑問を、犯人自身に質問する。」というケースもわりと多かった。これは犯人が高度な専門知識を有するプロフェッショナルゆえに成立する演出である。たとえば、自殺に見せかけて殺害された被害者のポケットから、その日の朝に預けたクリーニングの預り証が出てくる。「おかしいと思いませんか? これから首を括ろうって人が、背広をクリーニング屋に持っていきますかねえ?」その問いかけに対し、大学で心理学を講じている犯人が、「いや警部さん、なかなかお分かりになりにくいかもしれないが、人間というのは矛盾の束ともいうべきものでね。さっきまでそんなつもりはなかったのに、ひょんなことから世をはかなんだりするもんです」などと、わかったようなわからないような「弁明」をしてみせたりする。ここらあたりの駆け引きには、ぞくぞくさせられたもんである。

 犯人は最初のうちは社会儀礼としてコロンボ警部に付き合ってやる。むろん「捜査協力」という名目もある。この冴えない刑事をうまい具合に丸め込み、自分への疑いをなくさせて、あわよくば他の誰かに濡れ衣を着せてやろうという悪者もいる。コロンボはその人間的魅力と巧みな話術で彼らのふところへと入り込んでいき、捜査に必要とあらば相手のもつ専門技術を短期間のうちに学び取ったり、周辺にいる人たちと仲良くなって貴重な証言やら情報を得たりと、あらゆる手段で外堀をじわじわ埋めていく。ときに、コロンボと犯人とのあいだに「友情」にも似た感情が芽生えることもあるけれど、もとよりそれは例外で、犯人たちはコロンボ警部のしつこさと、少しずつ追い詰められていくことへの焦りから、「君は人からクモみたいだと言われたことはないかね?」「君は小うるさくて生意気なスピッツと同じだ!」などと、キレて苛立ちをあらわにすることになる。政治家など、より権力の中枢に近い人の場合は、露骨に脅しをかけてくることもある(コロンボの上司が犯人ということすらあった)。

 そのように、コロンボと犯人との緊張関係がリミットに達したときがドラマ全体のクライマックスシーンでもあり、そこでコロンボが、犯人の描いた完璧なシナリオをがらがらと崩してしまう決定的な証拠を引っ張り出してくることで、事件は急転直下、解決する。この趣向は回を追うごとに手が込んできて、シリーズの後半ともなると、犯人の仕掛けた周到なトリックをコロンボが見事に逆手に取って、「まんまと嵌めてやった」つもりで得意満面の犯人を、鮮烈な逆トリックで罠に掛け、いわば本人自身に墓穴を掘らせるかたちで終結させてしまうようにもなった。見ているこちらは果たして何回「あっ。」と叫んで溜飲を下げたか知れない。そして闘いに敗れた犯人は、もはや悪あがきをすることなく、コロンボの前にいさぎよく兜を脱いで、彼の聡明さを称えるのである。たいていドラマもそこで終わるので(解決ののちに小料理屋で一杯やったりしないので)、見ている側にはコロンボの手際の切れ味が強く焼き付けられることになる。この思い切りのいい幕切れが、かえって作品の余韻を深めるのだった。そしてあの味わいぶかいエンディング・テーマ。

 『警部補・古畑任三郎』は、コロンボの翻案とか換骨奪胎とかいうより端的にオマージュと呼ぶべきだと思う。三谷幸喜さんはぼくより少し年上だが、やはり少年期にコロンボに夢中になったのだろう。最近では『相棒』なんかにもコロンボの影を色濃く感じる。本邦でも、いま50代から40代くらいの作家や脚本家や監督で、大なり小なりコロンボに影響を受けてない人はいないはずだ。

 渥美清がほぼ寅さんと一体化しているように、ピーター・フォークはコロンボとほぼ重なり合っているけれど、小池朝雄さんの吹き替えで、もうひとつ、とても面白い映画があったことを付け加えておこう。アメリカ屈指の劇作家ニール・サイモンが脚本を書いた『名探偵登場』と『名探偵再登場』の二本で、前者はタイトルどおりサム・スペード、ミス・マープル、エルキュール・ポアロなどの名探偵(をパロディー化した人物)がたくさん出てくるドタバタ調の群像劇であり、後者は名画『カサブランカ』のパロディーだ。さすがニール・サイモンというべきか、これら2作とも登場人物のせりふがひとつ残らずギャグになっており、「どこで息継ぎをすればいいのか?」と心配になるほど頭から尻尾まで笑わせられどおしの喜劇であった。日本には、「コメディータッチ」と銘打った代物は山ほどあるけど、あれくらい笑わせてくれる本物の喜劇は見当たらない。なぜビートたけしは、北野武としてバイオレンスものばかり撮るのだろうか? これは文化論的な考察に値するテーマである。

 ぼくがピーター・フォークを映画館のスクリーンで見たのは、87年の「西ドイツ」・フランス合作映画、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』が最後であった。ここで彼は、ほかならぬピーター・フォークそのひと自身を演じていた。なにか途轍もなく凄そうな映画を撮るべくベルリンを訪れているのだが、彼の行く先々を、「コロンボだ!」「コロンボだぞ」といって子供たち(むろんドイツの)が追いかけていく。あの光景には感動を覚えたものである。コロンボは世界的な人気者なのだった。しかもフォーク氏は、もともと天使のひとりであり、思うところあって下界に降り立ち、人間界で俳優として暮らしているという設定なのである。「この作品におけるピーター・フォークは、ジャック・デリダにそっくりだった。」と浅田彰さんが評していたが、収容所に収監されたユダヤ人役のエキストラの老婆を見ながら、「エキストラ……彼らは忍耐づよい。彼らはただ座っている。…………彼らはエキストラ・ヒューマン(人間を超越したもの。あるいは、格別に人間的なるもの)だ……。」とつぶやく彼の風貌はたしかに当代随一の哲学者を思わせた。その後この作品は『シティ・オブ・エンジェル』としてハリウッドでリメイクされたが、ヴェンダースの芸術的な衒学趣味がハリウッドに真似できるはずもなく、ニコラス・ケイジ、メグ・ライアン主演のその映画は、ただのまぬけな甘ったるいラブ・ファンタジーと化していた。「アメリカ人ってどこまでアホなの?」とつくづくぼくは幻滅したが、しかし思えば「刑事コロンボ」はそのアメリカの生んだ作品であり、そう考えて複雑な気分になったのをよく覚えている。ともあれ、余人をもって代えがたい、傑出した役者さんだった。ご冥福をお祈りいたします。



コメント




ピーター・フォークが亡くなられたんですね。知りませんでした。好きな俳優でした。
『刑事コロンボ』は、いいドラマでしたね。
わたしは、『刑事コロンボ』のなかでは、コロンボが料理をする作品とロンドンへ行く作品が好きです。
飄々としていながらも、どこか意地が見え隠れするような人間性がいいなあと思います。
彼のかわりにコロンボ役ができる俳優はちょっと思いつきませんね。
リメイクできない(あるいはリメイクしきれない)というのは、名作の条件かもしれませんね。

投稿 クライフターン | 2011/07/14



 そうなんですよ。去る6月23日に亡くなられたそうです。じつはここ数年は、アルツハイマーのため、「自分がコロンボだったことさえも覚えていない」状態だったそうです(その記事を見たとき、涙が出そうになりました)。
 コロンボがロンドンへ行くのは、第13話『ロンドンの傘』ですね。あのラストはいま思うと相当ヤバくて、「証拠の捏造」に当たりますよね(笑)。でも面白い作品でした。
 コロンボが料理をするのは、たぶん第17話の『二つの顔』かな? 犯人が売れっ子の料理研究家で、テレビのレギュラー番組を持っていて、そこにコロンボがゲスト出演するシーンがありました。あれもちょっと異色で面白かった。というか、全45作、どれもみな本当に面白かったんですが(笑)。


投稿 eminus | 2011/07/15



刑事コロンボへの愛に満ちた文章ですね。
私もコロンボは大好きで家族でよく見ていましたが、いつ頃とかはっきり覚えていません。
「うちのカミさんが…」「すみません、もう1つだけ」は覚えていますが、甥っ子が皮膚科ってのは覚えていません。f^_^;
高齢の女性が犯人で、自分が殺人を犯してしまった事自体を忘れてしまう話が一番印象的でした。
あとは犯人がタイプライターで遺書を偽造するものの、紙を差すと微妙に位置がずれてしまうというもの。
推理も楽しかったし、コロンボが犯人を追い詰めるのにわくわくしました。
たまに後味の悪い作品もありましたが。
(名探偵コナンは人気があるけど、荒唐無稽で推理出来ないのでつまらないです。)

コロンボは大好きだったのに老人とタイプライターの話ぐらいしか思い出せないのがちょっと悔しいですね。
当時はアメリカの大物俳優が犯人役をしているなんて知らなかったのですが、まさに古畑任三郎状態でスターが登場していた様ですね。

三谷幸喜さんは以前はまぁまぁ好きだったのですが、何だかんだで「真似っこ」が多いと気付いてからはちょっと冷め気味です。
「相棒」も感嘆する様な回に当たった事がありません。


投稿 えみ | 2011/07/17



 コロンボがみなさんに愛されていることがわかって嬉しいです。
 あの作品は、けっこう女性の犯人が多かったんですよね。
 その中での最高齢は、第41話「死者のメッセージ」のアビゲイル女史ですが、この方は現役のミステリ作家だけあって、最後までしっかりしてました。
 「自分が殺人を犯してしまった事自体を忘れてしまう」といえば、これは第32話「忘れられたスター」の、往年の大女優グレースさんですね。演ずるは、自身がじっさいに「往年の大女優」であったジャネット・リー。いやあ、たしかに印象ぶかい名作でした。
 「犯人がタイプライターで遺書を偽造するものの、紙を差すと微妙に位置がずれてしまう」のは、第10話、「黒のエチュード」でのトリック破りですね。
 この作品で犯人を演じたジョン・カサヴェテスは、むしろ監督として有名な人で、ピーター・フォークの親友でもあり、フォーク氏はこの人の作品に何本も出演しているそうです。
 そんなこと、もちろん、小学生のときには知りませんでしたけど(笑)。
 三谷幸喜さんは、「コロンボ」をはじめ、ビリー・ワイルダーとか、アメリカ製の粋なドラマに心酔していて、それを日本を舞台に再演しようとしている感じかなあ。
 そういう作家は他に居そうで居ないので(なぜだろう?)、貴重な才能だとは思うのですが、「コロンボ」の版権を持っている人(とか企業)が「古畑任三郎」を見て怒ってきたらどうするのかな?という疑念はずっと拭えませんね……(笑)。
 なお、残念ながら今回いただいたコメントは「コロンボは毎」の所までで切れていたので、最後の部分をカットさせていただきました。
 (よろしかったら、改めて、続きの文章を送ってください!)

投稿 eminus | 2011/07/18




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。