栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (180)”除夜の鐘”(Okubo_Kiyokuni)

2023年12月27日 | 大久保(清)

  除夜の鐘

三輪緑山への散歩の途中、その前を通りかかる。十二月に入ると、周辺の住民は除夜の鐘のことが気になりだすが、この廣慶寺は早々と、中止案内を本堂の階段下に立てかけていた。昨年も一昨年も中止だった。有名な寺の今年の除夜の鐘の実施状況を見てみると、昨年まで中止していたところが再開を予定している。コロナの嵐もそろそろお引き取り願ってということかもしれないが・・・。

散歩の途中に訪れる寺はみな、鐘楼を備えている、その、どの寺から響いてくるのか定かではないが、大晦日の枕元には三種類の鐘の音が鳴り響く。九時には床に入るので、もうすでに眠りの世界にはいりこみ、夢の中で聞いている除夜の鐘。

この三通りの音色も怪しいものだが。凍てつく夜の風に乗り、柔らかく、ときには少し鋭く、また、弱く、重みのある余韻を引っ張るように、強弱をつけながら、絶妙な間をおいて耳元にささやきかける。一つの鐘の音が終わると、頭の中で数え始める。「一つ、二つ、三つ・・・」十五まで数えると、大きな鐘の音、それから三つほど数えると、小さな鐘、それから、また中くらいの大きさの鐘。なぜか、この順序は変わらずに、耳の傍で気持ち良い時を刻んでくれる。まるで、極楽への峠道を雲に乗って越えてゆくような心地よいまどろみの時間。

時々、このリズムが途切れることがある。なかなか鐘がならない。おかしいなあ、と耳を澄ましているところに、慌てたように、二ついっぺんに、ハモリながら鐘の音が耳に届く。鐘突きの順番を間違えたのだろうか、それとも、つき手が間に合わなかったのだろうか、と想像をたくましくする。

 

まだもう少し若かったころは、最後の鐘まで聴いていた。ジーっと待ち続けるが、暗闇の中に隠れたまま、音が途絶える。このなんとも言えない、静寂の時間、新しい歳になったのだとの、すがすがしい気分は最近とんと忘れてしまった。

 

「一つ、二つ、…七つ・・・」このあたりで、記憶が遠のき、目が覚めると、もう、朝日が昇っている。まだ、朝を迎えられる幸せをかみしめる。

 

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