とりあえず一所懸命

鉄道の旅や季節の花、古い街並みなどを紹介するブログに変更しました。今までの映画や障害児教育にも触れられたらと思います。

映画「胡同(フートンのひまわり)」

2007-01-25 23:57:17 | 映画
 この映画についての事前の知識はほとんどありませんでした。僕自身、中国映画に少し疎いところがあります。土曜日借りてきた「のど自慢~」のDVDの予告で紹介されていたので少し興味を持って借りてきたという程度です。

 胡同(フートン)は北京郊外の地名で、古い街並みが残っている地域です。でも、北京オリンピックの会場に予定されていてその大半がこわされてしまう予定だそうです。

 監督は「こころの湯」と同じ監督で、文化大革命のエピソードが入っている作品です。

 内容については、あまり詳しく書くのも何ですが、芸術を志す父と子の不器用なまでの心の葛藤を描いたものだと言っても過言ではないと思います。文化大革命で批判されて、強制労働を強いられて、遠くに送られていた父が久しぶり(6年ぶり)に帰ってくる。その時子どもはすでに9歳ということで、父と子がうち解けるには難しい年頃です。

 元画家の父親は子どもが書いた絵を見て、「自分よりも絵の才能がある」と、彼に絵を教え始め、息子に夢を託します。

 父親は息子の将来のためと思ってきびしく指導していきます。時には子どもの自由さえ奪って、絵を教えていきます。そのあたりが中国の歴史と社会、様々な事情を考慮しないと論評できないシーンになっています。

 当然のように息子は、父親に激しく反発します。でも父親の命令に従っていきます。そこらへんも日本の社会の基準で判断してはいけないシーンでもあるのかもしれません。

二人を取り巻く風景は、中庭を取り囲む平家の数軒が一つの区画となり、狭い路地を挟んでいくつも同じような家が立ち並ぶ独特の街が映し出されます。この街が題になっている胡同(フートン)なのです。カメラを持ってすぐにでも出かけたい街の風景です。

 中庭に咲いているひまわりだけがモノクロの世界に浮き立つような印象を与えます。そのひまわりが主人公の名前の由来になっています。

 日本のかつての下町のように軒を並べて、家族のように暮らす人々。でもある時、自分の強制労働の原因になった密告をすぐ隣人がしたことを知ることになります。この街と人々を愛しながら、その隣人に裏切られることの苦しさを描きだします。

 親子の間の気持ちもお互いが理解できない。人の心を理解するのは難しい。それが、そばにいてもなかなか伝わらない。そういう苦しさを父親役の俳優は演じていたと思います。

 古い町並みがどんどん壊されて行くのはさみしい光景だと思いました。それは、近代的な街並みに向かおうとする中国にとって自然なことかもしれないけど、どこの駅を下りても同じ街並みの日本の轍を踏んでほしくないと思いました。

 でもある意味、この街は完全に、時代の変化から取り残されてしまっているようにも思えました。この街を愛し、アパートに移ろうとしない父親は、街同様、時代の変化に取り残されている存在です。

 新しい、豊かな時代に適応しようと、そうした生活に喜びを見出せるかもしれないと国有企業の上司に取り入って、酒や米を持っていって新しいアパートへの入居権を手に入れなさいというシアンヤンの母シウチンは、一つの象徴かもしれないと思いました。

 でも、その一方で、時代や社会の変化に適応できない、またはみずから適応するのを拒否している人たちがいるのだと思う。時代の変化への適応を拒否しているのは、父親のヂャンです。彼は、妻の賄賂の進めも無視し、ただひたすらまじめに順番を待ちます。かつて彼を密告した親友リウが獲得したアパート入居の権利を譲ると申し出ても、それを辞退します。
 
 そういう対比を映画の中に描きだしながら街の破壊を描いているところにこの監督のもう一つの真意があるのだと思います。

 そういう意味でこの映画は、最近の邦画のように観て泣くという映画ではないけど、観終わってから、深く胸にせまりいろんなことを考えさせられた映画ではなkがったかと思います。


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