パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

あの手この手

2007-12-12 22:19:37 | Weblog
 「行方不明の年金は、やっぱり見つかりそうにありません」って、何を言っているのだろう。しかも、重要閣僚の二人が口を揃えて。福田首相もふくめれば、はっきりと、内閣の意志として、表明したことになる。とすると、単に、「正直」とか、「ついうっかり」とか、そういう問題ではない。「大連立」で、年金問題を自治労が支持母体だという民主党に丸投げして、一緒につぶすつもりだろうか。私だったら、そうするけど…。

 『文芸春秋』を立ち読みして、役人のものすごい「お手盛り制度」に仰天した。中でも驚いたのが、「困難手当」と「独身手当」だ。「困難手当」というのは、昇進できず給料が低いままの役人のために用意された手当だそうで、「困難」とはつまり、「昇進困難」という意味だ。もちろん、実際に「昇進」した場合より高い給料になる、なんてことはないのだろうが。

 で、「独身手当」というのは、普通、結婚するとお祝い金が出るわけだが、この制度(?)のもとでは、独身のままの人は不公平を強いられることになるので、たとえば、40歳なら40歳を一つの目安として、この歳を迎えて独身のままの人に支給される「手当」なんだそうだ。

 う~ん。よくぞまあ、あの手この手を考えるものだ。多分、当人たちは、「当たり前」と思っているんだろうけれど…。でなければ、考えつかないし、実行にも移せないだろう。もっとも、さすがに、上記のような「トンデモ手当」は、今はないそうだが、記事によると、廃止されたのは2007年。…ん? 今年じゃないか!

 昨日、Sさんから、久しぶりに、同じ頭文字なのだが、某県の役人(というか、その周辺の人という感じでもあるのだが)であるS氏糾弾の「怪文書」の製作を頼まれた。「怪文書」といっても、書かれている人からは、そう見えるだろうというもので、Sさんにしてみれば、正当な「糾弾」なのである。実際、つい最近、県議会で、私の作った怪文書をネタ源に、「S氏問題」が取り上げられ、「コテンパンですわ、うわっはっはっは~」と、Sさん、会心の豪傑笑い。
 まあ、実際、Sさんの調査が正しければ、S氏はトンでも役人である。たとえば、豪華な自宅を知人に貸し、自分は、県所有の、これまた豪華な(写真つきで記事にしたのだ)家に、家賃は県負担、つまり、タダで住んでいる。自宅からあがる家賃はまるまるいただき、というわけだ。その上、給料以外に、毎月の時間外手当をとっているのだが、その額が31万円! Sさん曰く、「そもそも幹部職員は、給料に時間外手当も含まれているのが普通だ」と。確かにそうだ。

 しかし、いったいなんで、ここまでして金を貯めたいのか。知人に貸しているというS氏の家の写真を見せてもらったが、多分、親から引き継いだものだろうが、総2階建てで、実に立派。現在、実際に住んでいる家もそこそこ大きいのだが、自分の持ち家の方が格段に立派だった。
 もしかしたら、この人は、自分の住むところは、4畳半一間の安アパートでもいいのかもしれない。4畳半で暮らした我慢の報酬=持ち家からあがる家賃、ということで納得できるからだ。(喜劇映画ができそうだ)

 …しかし、実際の話、よく考えると、「労働」と「賃金」の関係なんて、こんなものかもしれない。つまり、「我慢」したご褒美が、「報酬」つまり、「賃金」なのだ。実際、S氏が、住居のクロス住み替えで上げた利益は、県による家賃全額負担の是非は別として、法的には問題ないらしいし。
 また、私は、S氏から頼まれて、猛スピードで、怪情報を載せた印刷物を作った。もちろん、前述したように、役人Sの行状は非難さるべきものであって、私は、心理的に何の負い目も感じてはいないけれど、これだって、抽象的に考えれば、今日一日を費やした「我慢」の対価として、私は、Sさんから報酬を受け取るのだ、とも考えられる。

 実は、「こんなんでいいんですか?」というのが、左派ベーシックインカム論者の主張なのだ。つまり、「我慢の対価」ではなく、「生きる対価」として、我慢(=労働)とは無関係に、最低限の収入が与えられてしかるべきであり、それがベーシックインカムだというわけだ。

 しかし、こんなことを言うと、「一般人」に猛烈に反発されると、左派論者は嘆いていた。そりゃそうだろうと、私も思う。私自身は、フリードマン由来の右派とはいえ、ベーシックインカム論者であることには変わりないので、「生きる対価」という左派のロマンチック…いや、そうじゃないな、なんだろう…な言い分に、「一般人」のように無闇に反発はしないけど…でも、フリードマンのように、ベーシックインカム(負の所得税)を導入すれば、福祉なんて役人のためにあるものだから、全廃したって全然問題ない、という言い方の方が分かりやすいはずだ。

寝たきり老人(追加)

2007-12-10 14:30:52 | Weblog
 日本における寝たきり老人の数が欧米に比べて極端に多いということは、関係者の間では有名なことのようだ。しかし、これは日本と欧米の文化の違いのせいだとする意見もある。たとえば、以下の文章は「老人介護についての個人的HP」というサイトにあったものだ。

 《『驚いたことに、寝たきりや経管栄養の方々は極めて少ない。どうしてかと尋ねると、「歳をとり、食事を口に運んでもらっても自分で飲み込むこともできないほどに弱ってきている人には、あとは何もしない。」とのこと。その時はなぜそのようなことが許されるのかと驚いたが、欧米では各国とも似たような状況である。自然に任せるのが欧米流、家族の希望を優先して管をつないででも生き長らえさせるのが日本流、というところだろうか?』
 この報告・感想が真実だとしたら、欧米に「寝たきり老人」が少ないのは「当たり前」ですね。もちろん、マスコミが盛んに取り上げる介護職員さんの数の多さや、個人個人の「自立意識」の高さといった要因も無視はできないかもしれません。しかし、それにしても「食べられなければ放置」では、寝たきりで生きていけるわけはありません。最近は日本でも、「管につながれて無為に生き続けるのは嫌だ」という意志表示をされる方が増えてきたようです。それはそれで尊重されるべきだとは思うのですが・・・、上記記事では、日本で「嫌でも管をつっこまされて生き長らえさせられる」ように、欧米では「寝たきりで生き続ける(生かされ続ける)ことは許されない」という感じです。家族との心情的なつながりや現世の生よりも、絶対神との契約~復活についての信仰を基盤に持つ国にはふさわしいとも思えますが、どうもちょっと引っかかります。一旦食事を食べなくなった人が、あるいは一旦経管栄養になった方が、熱心な介護で再び口からご飯を食べられるようになった、というのは、熱心な介護職者であれば常日頃経験することです。(もっとも寝たきりレベルには変わりないことが多いのですが・・)
 寝たきり(あるいは脳死)に生の価値を見出さず、簡単に生命維持装置を外したり臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観ですが、寝たきりはもちろん虫や草木、さらには石や山々にも命を感じ、神様の宿ることを感じる日本の文化も、それはそれで一つの文化・価値観だと思います。何もかにも欧米をお手本にするのではなく、そういう精神風土に根付いた高齢者ケアを手作りしていくことはできないでしょうか?》

 以上だが、そもそも、「寝たきり老人」とは何かというと、たぶん、ベッドで終日過ごしている老人のことなんだろう。そして、日本の場合は、それに、「経管栄養」に頼る老人をプラスするが、欧米の場合は、「経管栄養」まですることはほとんどないので、プラスされない。だから、寝たきり老人の総数としては日本の方が多くなる、と上掲文章の著者は言っていることになるが、しかし、それでは、たとえば対アメリカで10倍以上という数の説明にはならないのではないか。なぜなら、「経管栄養」の有無で、日本と欧米の差を説明するとしたら、日本における寝たきり老人の9割が「経管栄養」状態にあるということになってしまう。これは、ちょっと考えにくい。…それとも、その「考えにくい」状態が事実なのだろうか?

 しかし、だとしたら、それはそれで、大問題だろう。チューブで栄養を注ぎ込んででも、生かすことが、果たしていいことかどうか。いや、この言い方だと、善悪二元論的になる。ここは、「経管栄養」をおこなってでも生かすことが、果たして「求められていること」であるかどうか。このように問題をたてたら、その答えは、はっきり言って、「求められてはいない」ことになるのではないか。
 それはさておき、引用文に、「寝たきり(あるいは脳死)に生の価値を見出さず、簡単に生命維持装置を外したり臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観ですが」云々とあるけれど、なぜ筆者は、ここで「脳死問題」を持ち出すのか? どこかで読んだことだけけれど、「脳死問題」を巡る論争なんか、脳死状態の脳の写真を見れば一発で解決するという。なぜなら、脳死状態の脳はどろどろに溶解してしまっているんだそうだ。これを見れば、たとえ脳幹のみが健在なため、心臓が動き、体温が暖かくても、そこに、「生の価値」を感じ取ることなんかできないことがすぐにわかるというのだ。

 要するに、こういうことだ。上掲文の筆者は、「簡単に生命維持装置を外したり(これは、さすがに欧米でも「簡単」なことではないと思うが…)臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観かもしれないが、日本の文化は違うのだから、違った価値観に基づいた高齢者ケアを考えてもいいのではないか」、というわけだが、端的に言って、だったら筆者は、臓器移植を受けるために海外に行く人々を非難しなければならないはずだ。さもなければ、「筋道」が通らないが、なとなくだが、そこまでは考えていない感じがする。価値の分裂を分裂として認識していないのだ。しかし、その「価値の分裂」を強いられているのが、近代日本の運命というか、宿命であると考えることもできる。

 つまり、日本は、欧米以外で唯一近代化を成し遂げた国だけれど、近代化の方法論はあくまでも「欧米」由来のもので、実際日本はそれに従って、近代化を進めてきた。しかし、文化は、依然として欧米とは根本的に異なるため、どうしても、「筋道」の通らない、「価値の分裂」を強いられる。しかも、日本は、「敗戦国」だ。
 たとえば、文芸評論家の加藤典明は、「敗戦後論」で、筋道の通らない道が、敗戦国民の通るべき道なのだという。それはそうなのだ。日本に限らず、ドイツだってそうだった。敗戦国民は、どうしても、理不尽を強いられる。しかし、敗戦国は永久に敗戦国というわけではない。いつか、そこを脱すべきなのだが、実は、それが今なのだ。というか、数年前から、そうなっている。従軍慰安婦問題なんかが噴出したのは、逆説的だが、その証拠だ。脱出しようとしたら、必ず、障害が立ちはだかるものなのだ。脱出しようとしなければ、障害もない理屈だ。しかし、加藤典明は、そんな風には考えていない。敗戦国民は敗戦国民であることにアイデンティティを見いだせ、というんだから…これじゃあ、真性マゾじゃないか。

 話がえらく脱線してしまったが、とりあえず、寝たきり老人問題の追加として。

同情するなら金をくれ

2007-12-09 22:39:45 | Weblog
 書き込んでいる途中、小指の先がちょっとキーに触れただけで全部パーになってしまった。何度目だろう。本当にgooブログやめようかなあ…。
 書いていたことは、前日に続いて、「寝たきり老人」ネタで、日本人は、マイケルムーアの『シッコ』なんかの尻馬に乗って、公的健康保険のないアメリカを非難し、「日本人でよかった~」とか言っているが、寝たきり老人がアメリカ人一人につき、10人以上もいるのに、何を能天気なことを言っているのだ、と、そんなことを。

 以前、寺山修司が、アメリカ人が禁煙だとかダイエットに夢中なことを、「健康マニア」と揶揄して、みんなそれを、「よく言った」と喝采したことがあったが、アメリカ人が健康に気を使うのは、公的保険がないからで、できるだけ、病に倒れるリスクを小さくしようとしているだけなのだ。そして、その結果、寝たきり老人が少なくなり、一方、日本の場合は、(厚生省の役人に言わせれば)「世界に冠」たる健康保険制度があるから、たとえば、月に百万近くかかる人工透析も2万円で済むから、みんな安心(?)して糖尿病にかかることができる。
 もちろん、日本の寝たきり老人の数がアメリカの10倍以上もいることは、こんな単純な説明で済むことではないだろうが……いや、単純な話かもしれない。人間の身体は要するに、食べたものの結果なのだから、グルメに狂えば、その結果はてきめんに身体に出る。

 以前、みのり書房にいた頃、生命保険のおばちゃんが定期的にやってきては勧誘するのだが、その時に必ず言う台詞が、「保険に入って安心されると皆さん、病気にもなりません。入らない人に限って、突然病気になったり、思わぬ事故にあわれたりするのですよ、オホホホ」だった。
 根拠のないこと言いやがって。

 もちろん、保険が不用というわけではない。しかし、保険とはそもそも例外的事態に対処するものだ。さもなければ、「事業」として成り立たない。例えば、癌保険というのがあるが、加入者がみな癌になったら、保険として成り立たない。癌保険においては、癌発生は例外(要するに、少数)でなければならないのだ。その点では、公的保険も私的保険も同じであって、だから厚生省はメタボリック撲滅に躍起となっているわけだが、透析患者、寝たきり老人が、百万を越え(確実にそうなるだろうが)ても、なお、保険事業は成り立つだろうか。そもそも、人間はみな例外なく、老いて、死ぬことになっている。そして、公的保険(年金も含む)は、そのすべてにつきあわねばならない。

 ということは、要するに(まわりくどくなったが)、「公的保険」という発想にそもそも無理、矛盾があったのだ。

 ではどうしたらよいかというと、ずっと前からの持論になってしまうが、「税」によるしかない。

 この「税」による救済のもっとも徹底したものとして、ベーシック・インカムという考えがある。これは、読んだ通り、ベーシック・インカム=基礎収入、すなわち、人間が生きていく上に必要な最小限の「お金」を政府が、無条件で全国民に例外なく保障する制度で、左寄りの論客はあまり認めたがらないようだが、レーガン大統領の経済顧問だったミルトン・フリードマンという(前回、長寿の学者として名前を挙げたが)保守派の経済学者が言い出しっぺで、彼の場合は、「負の所得税」という。つまり、ある基準収入を決め、それがたとえば年に200万だとすると、それに達しない人は達しない分を「負の所得税」として国からもらえる、という制度だ。仮に収入がゼロだったら、200万円まるまるもらえるわけで、初めて聞く人は皆仰天する(私もそうだった)が、この「負の所得税」に、従来のすべての社会保障制度を含む。つまり、負の所得税を導入する代わりに、年金、健康保険をはじめ、すべての社会保障制度は廃止されることになる。フリードマンによると、「このほうが合理的」だから、導入すべきなのだ。

 一方、左寄りの論客が主張するベーシックインカム制度とは何かというと、先日、これを特集した雑誌を買ってみたのだが、「寝返り打つのも労働」とか、わけわからんことを言うだけで、具体的にどうするつもりなのかはよくわからなかった。
 この、「左寄りのベーシックインカム制度」には、社会主義的ユートピアのイメージが根底にありそうだ。フリードマン先生なら、「わしはイメージなど語らんぞ」と言うところだろうが、まあ、それもおいおい勉強するとして、そもそも、資本主義とは、ケインズが言ったように、「緩やかなインフレ」を前提に成り立っている。ところが、近年、日本のデフレを筆頭に、それが怪しくなってきた。アメリカのサブプライム問題なんかも、要するに、住宅価格が値上がりすることを前提にした融資プランが、値下がりしたために計算が狂ったということだし。インフレを前提にするなんて、不徳なことだという人もいるかもしれないが(与謝野馨とか)、もし、「緩やかなインフレ」が望み得ないとしたら、資本主義は将来やばいことになる。

 というわけで、世界中の学者が、このベーシックインカム制度を真剣に検討しだしているのだが、実は日本政府も、研究をはじめたと、半年くらい前に、新聞の片隅だったけれど、報道されている。実際、日本ほどこの制度を必然としている社会はないはずなので、ある日、突然、何かが始まるということもなきにしもあらずだ。(安倍前首相が、教育クーポン制度を言っていたが、実はこれもフリードマンのアイデアだし)

 まあ、要するに、「同情するなら金をくれ」ってことなのだけどね。

やっぱり、くたばれグルメブーム!

2007-12-08 20:53:02 | Weblog
 日本における寝たきり老人の数だが、古本屋で買った「今日から朝食をやめなさい」に、約70万、アメリカの3倍と書いてあった。ただし、絶対数で3倍なのか、人口比で3倍なのかわからなかった。しかも、その本は10数年前の本だ。そこで、ネットで調べたら、日本の寝たきり老人の数が多いことは有名で、絶対数でアメリカの5倍(てことは、人口比で10倍以上!)と書いてあった。
 ところで、「今日から朝食をやめなさい」には、一年に死ぬ人の数は100万となっていたが、この100万という数字は今も大して変わらないはずであり、一方、寝たきり老人の数は増えているはずである。他の資料なのだが、人工透析の患者数は、年4パーセントづつ増えているということで、この数字を「寝たきり老人」に適用してもそんなに大きく違いはないとすれば、年利4パーセントの福利計算と同じだから…えーと、日本の寝たきり老人の現在の数は、まあ、おそらく100万近いか、それを超えているだろう。つまり、はっきり言って、死ぬ数と同じ数の「半分死んでいる老人」(すみませんねえ、不躾な言い方で。でも事実だ)がいるわけだ。

 それから、糖尿病患者は740万人で、予備軍と想像される人をあわせると、1620万。そのうち、人工透析を受けている数が23万で、これには大体、月に40万円から100万円かかるそうなので、平均して60万円として、費用は一兆4000億円くらい。個人負担は月2万円を越えないように法律で決められているそうなので、一兆4000億円のほとんどは健康保険組合から出ていることになる。

 このような破滅的事態のすべてがグルメブームのせいとは言わないが…と遠慮して書いてみたものの、中国の糖尿病患者の数はすでに5000万人を超え、近いうちに1億人に達すると予想され、さらにインドもその後を追っているのだそうで…てことは、やっぱり、経済が発展し、収入が増えたことで、食生活が必要以上に贅沢になることが諸悪の根源なのだ。つまり、やっぱり、「くたばれグルメブーム!」と言わざるを得ないという結論になる。

 しかし、一言付け加えると、日本における「近代の厚み」は、中国、インドとは桁が違うはずで、単に、「贅沢ができるようになったので、みんないっせいにグルメに走った」とは言えないようにも思う。それほど、日本人の「近代経験」は浅くはないはずだ(と思いたい)。むしろ、女性は、よく「やけ食い」をするというけれど、その現象に近いような気がする。では、何が原因で日本人は、「やけ」になっているのか? 個人的レベルでは、なんとなくわからないでもないのだけれど、とりあえず、こう言おう。「粗食こそ、グルメの極点だ!」と。実際、メザシにほうれん草のおひたしなんて、うまいものなー。

くたばれ、グルメブーム!

2007-12-07 21:57:11 | Weblog
 ブログサービスの一つとして、「ネタ不足の場合はこちらを」と言って、マイナーなおもしろニュースをピックアップしているブログがあるけれど(gooブログにもあったと思う)、目をちゃんと開きさえすれば、ネタなんていくらでも見つかるではないか。たとえば、一昨日の新聞に、多田道太郎の訃報が載っていた。(え? 知らないって? そんなのほっときゃよろしい)

 多田道太郎って、好きだったんだけどなあ。享年82とあったが、もっといっていると思っていた。

 前から言っているのだが、日本の学者は早く死にすぎる。多田先生だったら、せめて88くらいはいってもらわないと、なんか納得がゆかない。白川静の「享年96」くらいだったら納得だ。なぜって、多田先生は白川先生にだって匹敵する、と私は思っているのだ。
 ところが、一方で、最近、特にアメリカの学者がやたら長生きだ。ガルブレイスなんか、100超えてまだ健在なんじゃないか。同じ経済学者のフリードマンは享年96だし、チョムスキーはまだ80半ばだが、「黒人のDNAは、知的分野において他人種より劣ることを示しているが、それで何か問題でも?」などと元気に言ってのけるし、フランスのレビ・ストロースだって、100近くまで元気に学者として活躍していた(もしかしたら、まだ生きているかも)。学者じゃないけど、ポールニューマンは80超えてやっと現役引退発表だし、カークダグラスなんかも90近くてまだ元気だ。長寿大国のはずの日本の学者だったら、彼らに負けず劣らずの長寿を保ったっていいはずだ。
 しかし、現実を言うと…日本の老人の「寝たきり」率は、数字は忘れたが、アメリカのン倍だし、インド人も、日本人より圧倒的にぼけ老人は少ないと聞いた。「寝たきり」は本人も嫌だろうが、周囲はもっと嫌だし、治療に責任のある厚生省はさらに困ったことになる。
 というのは、私の父親もお世話になったからあまり大きいことは言えないのだが、たとえば人工透析に使われている健康保険料金は、毎年7兆円だとか。この数字も確かじゃないが、日本国民の健康維持のためという名目で集めた金の多くが人工透析に消えていることは確かだ。その他も含めれば、ほとんど90パーセント以上(この数字も確かじゃない。今度調べておきます)が老人治療に健康保険が消えているわけで、それで、厚生省は「メタボリック症候群」撲滅にやっきとなっているわけだが、だとしたら、厚生省は、肝心なことを見逃している。それは、グルメブームだ。
 グルメなんか、私は百害あって一利無しと思う。(もちろん、まずいものを食べるのは嫌だが、それは「グルメ」とは言わないだろう。)どこそこのソバがどうの、松坂牛がどうの、但見牛がどうの、地鶏がどうのとグルメ度をどんどん上げていった結果が「産地の偽装表示」だ。産經新聞がこの問題について、「業者のモラルの低下」を嘆いていたが、産地の偽装はモラルの問題なんかじゃない。グルメブームの必然的結果なのだ。産経のコラム氏は、大阪の吉兆の初代との思い出話を披露して、「初代が生きていたら、なんというだろう」とか書いていたが、骨董の目利きでもあるというその初代吉兆主人こそ、偽装表示の始まりかもしれない。というか、きっとそうだ。

 テレビの公共広告とやらで、「お母さん、赤ちゃんを抱いてあげてください」とか、薬物の危険性を警告したりしているが、それも代かもしれないが、それより、「グルメはほどほどに」って、流したらどうだろう。かなり画期的だと思うが。

 それはさておき、多田道太郎の訃報記事に、「グルメブームの火付け役だった」と書いてあった。「オー、ノー!」。これは、心外なことだ。たしかに、多田道太郎は美食家かもしれない。そんな雰囲気があることは否定しないが、一方で、「私が母親に作ってもらったお弁当は、いつも海苔ご飯に、総菜屋の煮豆くらいだった。今の若いお母さんが、スーパーで買った出来合いのおかずでお弁当を作ったりしていることを世間が非難するのは、妥当ではない」とも言っていた。多田道太郎だけじゃない。魯山人先生だって、今のグルメブームには、きっと眉をひそめるにちがいない。

 ところで、その多田道太郎は、社会風俗研究の大家ということになっているが、専門はフランス文学で、特にボードレールの研究で有名なんだそうだ。実は、以前、月光で「夢の街」という特集もどきのことをやったことがあって、その扉ページに多田道太郎の「人生はボードレールの一行の詩に如かない。この言葉をもじって言えば、ボードレールの全詩集もついに一つの街並に如かない、ということもあろう。その意味の深さにおいて。ただ私たちは目を閉じて街を歩いているだけなのである。」という文章を掲げたのだが、書き写しながら、何で多田道太郎がボードレールに言及しているのだろうと思ったものだった。なるほど、本業がボードレール研究だったのか。知らなかった。ボードレールといえば、まさに19世紀パリの街を生きた人だ。多田氏の、風俗に関する論考が、ピカイチに「深い」のは、そのせいであったのだ。
 以前から、古本屋で多田先生の本を見つけると、できるだけ買うことにしている。というか、立ち読みしているうちに、自然に買いたくなってしまうのだ。まあ、正直に言うと、「安いから」ってこともあるけど、これはちょっと残念なことでもある。

『大巨獣ガッパ』に超接近遭遇

2007-12-04 20:17:38 | Weblog
 地球温暖化とはいえ、今年の冬は寒そうだ。
 数ヶ月前にフリマで、「今年の冬は寒いよ」と汗をかきながらPコートを売っている男がいて、根拠は分からないものの、なんとなく同感して、つい買ってしまったので、どんなに寒くなっても大丈夫なんだが、でもそれを引っ張りだして着るほどにはまだ寒くない。

 寒いと、ついトイレが近くなるが、それで昨日の真夜中、起きたついでにテレビをひねると、『大巨獣ガッパ』をやっていた。怪獣マニアではないので、最初、なんだかわからなかったが、天狗っぽい怪獣の造形に記憶があった。後で調べたら、1967年の作品で、日活唯一の怪獣映画なんだそうだ。
 そんなに古い映画とは思わなかった! はっきり言って、ぬいぐるみのガッパが時々よろけたりして、なんともおかしいのだが、でも、ミニチュアセットなんかは実に良くできているし、なんといっても撮影がきれいだ。コンピュータで調色処理でもしているのだろうか。全然雨も降っていない(フィルムの傷のことです)し、テレビの予告編でしか見ていないが、最近の「3丁目なんたら」と遜色ない。それで、1967年の作品と知って仰天したのだ。

 もちろん、突っ込みどころ満載の「超B級SF怪作」なので、根本的には、当時はともかく、今となってはマニア向け映画なのだろうが、真夜中にやるなんて、もったいない。ちゃんとゴールデンタイムにでも上映していれば、きっと相当な話題を集めただろうに。
 もう一度言う。「モッタイナ~イ」。

12345679×27の答えは?

2007-12-03 18:49:42 | Weblog
 まめ知識。

 電卓が正常に動いているかどうか、「検算」するにはどうしたらよいか。
 私は、2+3とか、4×3とか、6マイナス2とか、簡単な計算をやってみる。多分、これがあっていれば、どんな桁数でも電卓の出す答えは間違っていないと想像できると思うのだが、それでも、いまいち、信用できないでいた。ところが、先日、電卓用の検算式というのを見つけた。
 それは、12345679×27という「数式」で、答えは333333333となるんだそうだ。123456789じゃなくて、12334569です。8が抜けるのだが、早速手持ちの電卓でやってみたら、ちゃんと333333333と出た。合格。

 まめ知識2

 ロシア人の名前というのは、幾通りもあって覚えづらい。しかも、たとえば、『カラマーゾフの兄弟』の長男、ドミートリーの愛称はミーチャだが、何をもってミーチャと名乗っているのかというと、どうやら根拠はあまりないらしい。たとえば、ロシア人は昔から日本の文学が結構好きで、マニアックな人も少なからずいるらしいのだが、その日本文学研究の専門家の一人に、「アクーニン」という人がいるのだそうだ。もちろん、本名は別にあるが、日本語の「悪人(アクニン)」の語感が面白くて、そう名乗ることにしたらしいのだが、では、ミーチャも、このようにしてつけたのだろうか? 露文を選考すれば教えてくれるかもしれないが…知ったか話で、すみません。でも、別に「愛称」をつけるのに法則なんかないのだと思えば、「え? ミ-チャって誰だっけ?」と慌てる必要もあんまりなく、より気軽に読める気がする。

 まめ知識3

 昨日は、事務所で見始めた日韓野球対決を、ワンセグでつい最後まで見てしまった。初回は別にして、常にリードしているのに、いつ逆転されるか分からない、といった雰囲気で、かえろうにもかえれなかったのだ。(ワンセグだから、電車に乗りながらでも、見ることができるのだが…あんまり、そういうことはしたくないのだ)
 それはさておき、ワンセグでは画面が小さいので、「音」で補おうと思ってラジオでも聞いたのだが、放送システムの違いのせいなのだろうが、ワンセグのテレビ画面のほうが、ラジオ音声よりも、ほんの少しだが、遅れるのだ。たとえば、バッターのバットに球が当たるほんの少し前に、ラジオのアナウンサーの、「空振り!」とか、「ヒット!」といった音声が聞こえてしまう。その「ほんの少し前」というのは、本当に、「ほんの少し前」で、0.1秒以下ではないかと思えるくらいのズレでしかないのだが、感覚的には、「打つ前」に結果がわかってしまうような感じで、酷く感興を殺がれてしまう。具体的に言うと、人間にとって「瞬間」とは、たしか、0.04秒(どこかで読んだ記憶がある。)で、したがって、ワンセグとラジオのズレが、0.04秒以下であったら、我々はそれを「同時」と認識するが、それ以上だと「ズレ」として認識してしまうのだ。
 ということは、0.1秒のズレだったら、何をかいわんやであり、ラジオで聞いている時はワンセグを切り、ワンセグを見ている時はラジオを切るようにしたが、人間の「知覚」というのは、本当に微妙なものだとつくづく思った。