パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

寝たきり老人(追加)

2007-12-10 14:30:52 | Weblog
 日本における寝たきり老人の数が欧米に比べて極端に多いということは、関係者の間では有名なことのようだ。しかし、これは日本と欧米の文化の違いのせいだとする意見もある。たとえば、以下の文章は「老人介護についての個人的HP」というサイトにあったものだ。

 《『驚いたことに、寝たきりや経管栄養の方々は極めて少ない。どうしてかと尋ねると、「歳をとり、食事を口に運んでもらっても自分で飲み込むこともできないほどに弱ってきている人には、あとは何もしない。」とのこと。その時はなぜそのようなことが許されるのかと驚いたが、欧米では各国とも似たような状況である。自然に任せるのが欧米流、家族の希望を優先して管をつないででも生き長らえさせるのが日本流、というところだろうか?』
 この報告・感想が真実だとしたら、欧米に「寝たきり老人」が少ないのは「当たり前」ですね。もちろん、マスコミが盛んに取り上げる介護職員さんの数の多さや、個人個人の「自立意識」の高さといった要因も無視はできないかもしれません。しかし、それにしても「食べられなければ放置」では、寝たきりで生きていけるわけはありません。最近は日本でも、「管につながれて無為に生き続けるのは嫌だ」という意志表示をされる方が増えてきたようです。それはそれで尊重されるべきだとは思うのですが・・・、上記記事では、日本で「嫌でも管をつっこまされて生き長らえさせられる」ように、欧米では「寝たきりで生き続ける(生かされ続ける)ことは許されない」という感じです。家族との心情的なつながりや現世の生よりも、絶対神との契約~復活についての信仰を基盤に持つ国にはふさわしいとも思えますが、どうもちょっと引っかかります。一旦食事を食べなくなった人が、あるいは一旦経管栄養になった方が、熱心な介護で再び口からご飯を食べられるようになった、というのは、熱心な介護職者であれば常日頃経験することです。(もっとも寝たきりレベルには変わりないことが多いのですが・・)
 寝たきり(あるいは脳死)に生の価値を見出さず、簡単に生命維持装置を外したり臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観ですが、寝たきりはもちろん虫や草木、さらには石や山々にも命を感じ、神様の宿ることを感じる日本の文化も、それはそれで一つの文化・価値観だと思います。何もかにも欧米をお手本にするのではなく、そういう精神風土に根付いた高齢者ケアを手作りしていくことはできないでしょうか?》

 以上だが、そもそも、「寝たきり老人」とは何かというと、たぶん、ベッドで終日過ごしている老人のことなんだろう。そして、日本の場合は、それに、「経管栄養」に頼る老人をプラスするが、欧米の場合は、「経管栄養」まですることはほとんどないので、プラスされない。だから、寝たきり老人の総数としては日本の方が多くなる、と上掲文章の著者は言っていることになるが、しかし、それでは、たとえば対アメリカで10倍以上という数の説明にはならないのではないか。なぜなら、「経管栄養」の有無で、日本と欧米の差を説明するとしたら、日本における寝たきり老人の9割が「経管栄養」状態にあるということになってしまう。これは、ちょっと考えにくい。…それとも、その「考えにくい」状態が事実なのだろうか?

 しかし、だとしたら、それはそれで、大問題だろう。チューブで栄養を注ぎ込んででも、生かすことが、果たしていいことかどうか。いや、この言い方だと、善悪二元論的になる。ここは、「経管栄養」をおこなってでも生かすことが、果たして「求められていること」であるかどうか。このように問題をたてたら、その答えは、はっきり言って、「求められてはいない」ことになるのではないか。
 それはさておき、引用文に、「寝たきり(あるいは脳死)に生の価値を見出さず、簡単に生命維持装置を外したり臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観ですが」云々とあるけれど、なぜ筆者は、ここで「脳死問題」を持ち出すのか? どこかで読んだことだけけれど、「脳死問題」を巡る論争なんか、脳死状態の脳の写真を見れば一発で解決するという。なぜなら、脳死状態の脳はどろどろに溶解してしまっているんだそうだ。これを見れば、たとえ脳幹のみが健在なため、心臓が動き、体温が暖かくても、そこに、「生の価値」を感じ取ることなんかできないことがすぐにわかるというのだ。

 要するに、こういうことだ。上掲文の筆者は、「簡単に生命維持装置を外したり(これは、さすがに欧米でも「簡単」なことではないと思うが…)臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観かもしれないが、日本の文化は違うのだから、違った価値観に基づいた高齢者ケアを考えてもいいのではないか」、というわけだが、端的に言って、だったら筆者は、臓器移植を受けるために海外に行く人々を非難しなければならないはずだ。さもなければ、「筋道」が通らないが、なとなくだが、そこまでは考えていない感じがする。価値の分裂を分裂として認識していないのだ。しかし、その「価値の分裂」を強いられているのが、近代日本の運命というか、宿命であると考えることもできる。

 つまり、日本は、欧米以外で唯一近代化を成し遂げた国だけれど、近代化の方法論はあくまでも「欧米」由来のもので、実際日本はそれに従って、近代化を進めてきた。しかし、文化は、依然として欧米とは根本的に異なるため、どうしても、「筋道」の通らない、「価値の分裂」を強いられる。しかも、日本は、「敗戦国」だ。
 たとえば、文芸評論家の加藤典明は、「敗戦後論」で、筋道の通らない道が、敗戦国民の通るべき道なのだという。それはそうなのだ。日本に限らず、ドイツだってそうだった。敗戦国民は、どうしても、理不尽を強いられる。しかし、敗戦国は永久に敗戦国というわけではない。いつか、そこを脱すべきなのだが、実は、それが今なのだ。というか、数年前から、そうなっている。従軍慰安婦問題なんかが噴出したのは、逆説的だが、その証拠だ。脱出しようとしたら、必ず、障害が立ちはだかるものなのだ。脱出しようとしなければ、障害もない理屈だ。しかし、加藤典明は、そんな風には考えていない。敗戦国民は敗戦国民であることにアイデンティティを見いだせ、というんだから…これじゃあ、真性マゾじゃないか。

 話がえらく脱線してしまったが、とりあえず、寝たきり老人問題の追加として。

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