パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

よくある話……

2006-01-15 12:47:44 | Weblog
 近所のスーパーのレジの、新参のおばちゃんが、いかにも「私って気さくで、しかも有能でしょ」とでもいいたげな風に仕事をしている。テキパキ、テキパキ、と音が聞こえるくらいだ。でも、実際にはそれほどではない。まあ、「並」といったところだろう。
 それで、いちいち話し掛けてくるので、なるべく避けていたのだが、昨日、このおばちゃんのレジに並んでしまった。おばちゃん、型通りになにか話しながら、私の手のひらにおつりを落としたが、それがポロっと転がり落ちた。おばちゃんは、「あ~ら、ごめんなさ~い」と言った。これも実によくあることでどってこともないのだが、こういう場合は、通常、お客の方が受け損なっていることが多い。それでも、従業員の方が、「すみません」と謝ることになっているわけだが、今回は、私の手のひらの位置をちゃんと確認せず、いい加減に放り込んだレジのおばちゃんの渡し方が明らかに悪かったのだが、その謝罪の言葉に全然心がこもっていない。つまるところ、この、「型通りにやるだけで、心のこもっていない」仕事のやり方が、つり銭の渡し損ないというミスを生んだわけなのだが、本人、このプロセスには全然気がついていない。私が文句を言ったところで、「だから、あ~ら、ごめんなさ~いと謝ったのよ」と答えることだろう。
 
 話が変わるが、最近話題になっている若年スポーツマンの一人に、アメリカの女子プロゴルファー、ミッシェル・ウィーがいる。その彼女のプレイについて、岡本綾子と、あともうひとり、手嶋なんとかという元プロゴルファーが「心がこもっていない」と批判したらしい。「心がこもっていない」というと、なんか精神主義に聞こえるかもしれないが、具体的に言うと、彼女はパットが苦手なんだそうで、それについて、「機械的に打ち過ぎている。もっと感覚で打たなければならない」というのが、岡本、手嶋の批判であった。
 なるほどね、ミッシェル・ウィーは、近所のレジのおばちゃんと同じだったのだ。「型通り」にやってうまく行かないと、さらに「型通り」に固執する。要するに、反省のきっかけというものを、少なくとも、今のままでは、持たない、というか、持つことができない。
 まあ、いずれにせよ、ミッシェル・ウィーは、近所のレジのおばちゃんが人気がない(本人は、人気があると思っているらしいが)のと同じく、あんまり人気は出ないかも。(今は、マスコミ先行でちやほやされているが)

 屋根の雪下ろしで死者続出しているが、若い頃、ひと冬だけバイトをした山小屋のおやじさんが、屋根の雪がいかに危険かをしきりに強調していて、屋根から雪が落下する音を聞き付けると、「大丈夫か! 誰も下にはいないか!」と言いながら、ドドドドドッと音をたてて二階から駆けおりてくる。たしかに、山小屋の主人としては、もしお客さんが自分の小屋の屋根から落ちてきた雪の下敷きで死んだりしたら、経営上、死活問題になってくるから、大騒ぎするのもわかるが、なんとなく、大袈裟、というか、自分がいかに安全性に気をつかっているかをアピールしているような感じもした。実際、奥さんは、「もっと静かに降りれないの!」と、この時の主人の対応に批判的だった。
 その後、二人は離婚し、奥さんが、元旦那さんの小屋の隣に新しく小屋を建てたものだから、昔からのお客さんは、どちらに泊まったらいいか迷った挙げ句、十日間の宿泊予定だったら、はじめの五日間は旦那さんの小屋、残りの五日間は、奥さんの小屋と「泊まり分け」ていた。

 それはともかく、「階段を大きな足音をたてて降りる癖の人」って案外多いのではないか。ほとんど男だろうが、私は、もう一人だけ知っている。それは製版屋のおやじで、別に何があるわけでもない時でも、凄まじい音をたてて階段を降りてくる。その度に、これも奥さんがひどく嫌がっていた。「何かと思って、寿命が縮まるわよ」と。わかるね、同感。