パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

般若心経を考える

2008-05-05 23:04:10 | Weblog
 ……観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。……

 御存じ、般若心経の冒頭部分だけれど、最初、これを読んだとき、ちょっとびっくりしたことがある。それは、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」というところで、「不垢不浄」すなわち、「汚れ(垢)と、清い(浄)もの」の存在を、「不生不滅」すなわち、生きとし生けるものについての大原則と、「不増不減」すなわち、生きとし生けるもの以外、つまり、「物理的存在」の大原則(エネルギー保存即みたいなものか)と同等に扱っていることだ。言い換えれば、お釈迦様はこの世界を「生物界」と「非生物界」と、「垢/浄」の三つに分けたことになる。

 もちろん、お釈迦様は、そう言挙げした上で、「そんなものはない」と否定しているのだが、逆に言えば、絶対的存在として、否定し難く「ある」からこそ、「ない」と言っているのだ。その絶対的存在に「垢/浄」が含まれる、私は、この認識に驚いた。なぜって、「垢/浄」とは、実際にはインドのカーストのことを言っているのではないか。だとしたら、お釈迦様は、インドにおけるカースト制度を、人が生まれ、死んでゆくこと、また宇宙が常に一定の姿を保っていることに匹敵するほどの、「否定し難い事実」であると考えていたことになる。

 もっとも般若心経は大乗仏教の教典だから、お釈迦様が実際にそう言ったかというと、それはわからない。多分、キリスト教で言えば、パウロにあたる竜樹が言い出したので、お釈迦様自身は言わなかったのだろう。「般若心経」でググったら、あるサイトで、その解説にいちいち、「これは小乗仏教にはない考え」という註が入っていて、大乗仏教って、「大」を名乗る割にケツの穴が「小さいなあ」と思ったりした。そういえば、チベット仏教って、一見小乗風に見えるが(修行を大事にするところなんか、そんなふうに思った)、実は大乗だそうだ。でも、ダライラマ14世はケツの穴が小さいようには見えない。そこが、人気のあるところだろうなあ。

 話がそれたが、「不垢不浄」は、パウロの「働かざるもの食うべからず」と同じで、よく考えると感情に走った、迂闊な部分がある(ように思う)。実際、キリストは、「働かざるもの食うべからず」どころか、「空を飛ぶ鳥もちゃんと食べている。明日の事は患うな」と言ったわけだし(もちろん、鳥が餌を探すことは、「労働」じゃない。)

 なんで突然こんなことを言い出したかというと、ガンジーは、生前、「七つの戒め」という訓戒を作ったんだそうだが、その一つに「働かざるもの食うべからず」に近い項目があることを知って、ちょっと驚いたのだ。

 ガンジーが、今の世に(歴史的に言えば、ほぼ現代の人だろう)、竜樹あるいは、パウロのようなモチベーションをもってそう言ったとは考え難い。ということは、つまりは、ガンジーも所詮は、近代主義者だったということか。