パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

脳天気にもほどがある

2008-05-04 18:47:20 | Weblog
 まあ、数字は目安に過ぎないけれど、仮に福田の支持率が15%を割るようなことになったら、辞職、解散要求(問責決議案提出)は野党民主党の義務となる、と書いたが、今日の新聞を見たら、山岡民主党国対委員長が、「福田内閣の支持率を見ると事実上国民から問責を出されている。われわれが国民に代って問責を出さなくてもいいという考え方も、民主党内にある」と発言した由。

 オイオイである。国民が問責を出したから、国会議員は問責を出さなくてもいいとはどういう理屈なのだ。何のために国会議員はいるのだ。こんな頓珍漢なやつが、山岡一人ならまだしも、複数いると思うと、がっくりしてしまう。脳天気にもほどがある。

 テレ朝のサンデーモーニングで中国の国政担当者へのインタビューを流していたが、顔色一つ変えない三百代言(詭弁を弄する人)ぶりに激しい嫌悪感を感じる。よくぞまあ、あそこまでしれっと言えるものだ。

 ところが、田原などは、「チベット問題など、以前だったら質問も許されなかった頃にくらべれば良くなった」と、日本にかえってまで、スタジオでおべんちゃらを言う。「三百代言」じゃあ何の意味もないだろうに。

 昨日のサンケイ新聞に、地方から出てきた若い女工が、酷い搾取、暴力的待遇を受けているという話が載っていて、そこを脱出した若い女性がうつろな表情でうつっている写真が載っていたが、ああいう映像を見ると、欧米の人権派なんかは、「助けなければ」と思うのだろう。(結構きれいな女性だったし。)これは、助けた女性がその後、待遇改善のために立ち上がるだろうという期待が、当然、あるのだけれど、実は、決してそうならないのが中国の問題点なのだ。

 中国では、被抑圧者(人民)たちは、ただ被抑圧者の立場から抑圧者に立場を変えるだけなのだ。

 抑圧者に立場を変えないと、せっかく被抑圧者の立場から脱出してもすぐまた被抑圧者に戻ってしまうと信じているからだ。身内と身内に準ずるような仲間(「水滸伝」の梁山泊の仲間みたいな)以外は絶対に信じないから、結局、そうならざるを得ない。

 要するに、人々(民)の相互不信が、「民の声は天の声」という中国風民主主義の謳い文句で酷く歪んだ形で助長されているのが問題なのだ。

 『漢江の怪物』を見る。

 別に「怪物」でなくても、連続殺人鬼でもいいのではないかとも思ったが、面白い。漢江の河川敷で屋台を営んでいる一家が怪物に襲われるというストーリー展開の「さりげなさ」と、壁に剥製の鹿の首がかかっていて、それに手を突っ込むから何をするのかと思うと、カップ麺の「貯金箱」を取り出したりするような、別にストーリーとは関係ないところで見せる工夫の「さりげなさ」が絡み合うようにして、淡々とストーリーが展開する。(「貯金箱」は、あとで、警察の警戒線を突破するための「賄賂」として使われるが、こういう緻密な作り方をする監督は、今、日本にいるだろうか?)監督は大した実力者だ。未完成で出品したので受賞はしなかったらしいが、カンヌで絶賛されたのも納得。

 怪物にさらわれる女の子を演じた田畑智子と薬師丸ひろ子を足して二で割ったような子役もいい。多分、「今だけ」なのだろうが、いつまでも見ていたいような演技をする子だ。

 しかし、怪物の正体、というか存在意義が今いちわからないまま、終わってしまうのは、ちょっと物足りなさを残す。そんなわけで、日本の怪獣モノのアホっぽさも、今までは否定的だったのだが、あれはあれなりにいいものなのかもしれないと思ってしまった。