Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

報道弾圧

2015-07-09 00:05:57 | 憲法・非戦・平和

2015.06.25アヘ首相応援団の「文化芸術懇話会」で百田何某と三馬鹿議員の発言は「報道威圧(弾圧)」の内容そのもので、メディアを賑やかしています。(結果的にアヘ首相妨害団と化しました。)

百田何某と三馬鹿議員の発言は、報道された内容に対してではなく、報道機関そのものに向けられています。

当初アヘ首相は「言論の自由は民主主義の根幹をなす」(6/26)とお詫び、謝罪等は拒絶していましたが、批判収まらず一転7/3に「心からお詫び申し上げたい。」と発言。**

「報道された内容(報道の自由)」に対して「言論の自由」により批判、肯定、否定、留保等の発言は何人からも非難されるべきことではありません。***

報道された内容に対してではなく、報道姿勢(編集、編成)、報道機関(潰す、広告)に対しての発言は「報道の自由」に対する威圧、弾圧そのもので、論ずるべき視点は「報道威圧(弾圧)」です。

メディアの一連の報道を見ていると、「報道の内容」と「表現の自由」と「報道威圧(弾圧)」とをごちゃ混ぜに論じており、「報道威圧(弾圧)」が「表現の自由」の言質に絡め取られており、土俵が異なる視点が欠落しています。

小難しい書き方をしてしまいましたがポンチ絵風に書けば、水色の紙に書かれた内容に不満を持つウヨが、「書かれた内容」に対してではなく、「何故水色なんだ、黄色い紙にすべきで、出来ないならそんな紙燃やしてしまえ。」の状況について、メディアは書かれた内容と紙の色を一緒に論じている、といった様かな。


「8.6秒バズーカー」の掛け声「ラッスンゴレライ」は、「Lusting God laid light(神の裁定の光)」、原爆投下の号令「落寸号令雷」を意味している、とかないとか?

 

「ナチス・ドイツの芸術政策」を連想します。

「文化芸術懇話会」の設立趣意書によると、芸術家との意見交換を通じ「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を目的としている。(『安倍首相支持の勉強会「文化芸術懇話会」が発足』産経HP 6/25より)

『政策芸術』なんて言葉は、ナチス・ドイツのプロパガンダである『芸術政策』を目指しているのでは?
ですから、会の名称を「文化芸術懇話会」でなく「武化(武装化)芸術懇話会」が相応しいと考えてしまいます。


**「心からお詫び申し上げたい。」は言葉だけ。

報道番組「NEWS23」(TBS 2014.11.18)でアヘ首相は、アホノミクスへの批判の多い「街の声」のVTRに対して「これはですね、街の声ですから。みなさん選んでいると思いますよ、もしかしたらね」とTBSが「街の声」を意図的に編集したかのようなイチャモンを。

日本テレビ「ZERO」の選挙特別番組(2014.12.14)に中継で出演したアヘ首相が、村尾キャスターを批判し、村尾キャスターの質問に答えず、ついには中継音声用のイヤホーンを外し一方的に興奮しながら話し続けました。

アヘ首相の「言論の自由は民主主義の根幹をなす」は、露ほども思っていません。屁理屈の抗弁に語っているだけです。

 

***「言論」には「言論」

憲法第21条「1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」は、国家権力による干渉を排除して個人の自由を守るための人権であり、憲法13条「2. 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」は、個人の人格を不可侵のものとし、個人を相互に尊重する理念です。

「公共の福祉」は人権を制限する仕組みで、人権より社会全体の利益を優先(全体主義的国家観)するのではなく、人権相互の矛盾衝突(他人間で人権が両立しない)を調整する原理で、人権の制限は他人の人権との衝突を回避する場合にのみ正当化されます。

ですから「国家」は「公共の福祉」を根拠として「人権」を制限することができますが、「国家」(権力)が恣意的にできるのではなく「法律」に基づきます。
(名誉棄損罪、不法行為、著作権侵害罪、わいせつな文書、図画等の頒布、弁護士、公務員の秘密を暴露等、それに特定秘密保護法)

 


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