ポスト唯物論
訳者(増田一夫)は、「唯物論」は脱構築の対象とはならないと書かれていますが、脱構築の対象とならないのは、「唯物論」ではなく「弁証法」ではと考えます。(再掲)
「物質」そのものの概念が極められつつある現在において、「唯物論」そのものは一度バラバラに解体する必要があります。
「クォーク」は「エネルギー」であり、「物質の存在」は「エネルギーの差異」と捉え直すことが可能です。
・ ・ ・ と、メモを書き上げてあるのですが、余りにも長文かつドクマを払拭しきれていません。(アップする前に再読してみて。)
主に「哲学事典」(平凡社1413P~)、「現代マルクス=レーニン主義事典」(社会思想社 下巻2159P~)、また、雑多に先哲の書籍を参照しましたが、オリジナルの思考と引用した思考の境界が曖昧と化したため、再び妄念のスープに戻しました。
今朝の散歩で。
冬枯れの にわかに飛び立つ 雉の声
訳者(増田一夫)は、「唯物論」は脱構築の対象とはならないと書かれていますが、脱構築の対象とならないのは、「唯物論」ではなく「弁証法」ではと考えます。(再掲)
「物質」そのものの概念が極められつつある現在において、「唯物論」そのものは一度バラバラに解体する必要があります。
「クォーク」は「エネルギー」であり、「物質の存在」は「エネルギーの差異」と捉え直すことが可能です。
・ ・ ・ と、メモを書き上げてあるのですが、余りにも長文かつドクマを払拭しきれていません。(アップする前に再読してみて。)
主に「哲学事典」(平凡社1413P~)、「現代マルクス=レーニン主義事典」(社会思想社 下巻2159P~)、また、雑多に先哲の書籍を参照しましたが、オリジナルの思考と引用した思考の境界が曖昧と化したため、再び妄念のスープに戻しました。
今朝の散歩で。
冬枯れの にわかに飛び立つ 雉の声
行き詰るのは資本主義の性質ですし、社会主義が負けたとも思っていません。
社会主義が負けたのではなく、マルクス主義的言説者(体制)が負けたと考えています。
弁証法的唯物史観による包括的世界観の認識は、無傷だと考えています。
物質そのものは、古代ギリシャの元素(原子)論に始まって、陽子、中性子、電子さらにクォークとレプトンの素粒子の世界を展開しています。
物質そのものが深化している現在、物事の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする唯物論は、新しい皮袋に盛る必要と考えています。
ただ、それだけのことなのですが、マルクス主義的言説者は忌避しているようです。
19世紀の自由放任主義の資本主義が抱えていた問題は(帝国主義的な侵略、低賃金、劣悪な労働環境、貧富の格差、失業等)は、現在の資本主義において一層不可視化(悪質、巧妙)となっています。
以前に、「商品」は、高次高階微分方程式における演算子Dの役回りと書きましたが、「商品」、「貨幣」を内包した「情報」に使用価値、交換価値を与え演算子Dの役回りを与えることも可能だと思います。
*「情報」を「物質」と定義することは、「情報」の確率的側面を越えた定義は困難極める?
マルクスの革命の思想を19世紀に閉じ込めているのは、マルクス主義的言説者だと考えます。
オルタナティブ・グローバリゼーションは、マルクス主義的言説者ではなくマルクス読みの方々の責務ではないでしょうか。
「時間の矢」の概念が希薄ですので、必然とか可逆については拘っていないとメモしておきます。
非常に陳腐な言葉であるが、その裏づけとなる歴史観は、唯物史観であり、歴史には必然性があるという確信であった。
それが、ソ連型社会主義体制の崩壊と共に動揺している。(余談であるが、その時日共は、ソ連崩壊を「双手を挙げて歓迎する」というコメントを出した。なんという音痴か!)
私は、資本主義と社会主義の負け比べの末、社会主義は一足先に壊れたと捉えた。決して、フクヤマのいう資本主義の勝利ではない。
資本主義の行き詰まりも見えた現在、人類の英知を信頼する限り、人間は必ずオルタナティブを見つけていくに違いない。