朝刊に「アントニオ・ネグリ氏初来日へ」(08.03.13朝日文化欄)と掲載されていました。
昨年から、来春にA・ネグリが来日すると報道されており、すっかり忘れていました。
同記事の見出し「稀代の思想家か扇動者か」は、A・ネグリの毀誉褒貶を見事に表しています。
帝国(A・ネグリ、 M・ハート共著 以文社)に目を通した(精読していません)限りでは、オルタナティブを提示しているとも単なるアジビラ(氏の経歴ため?)とも読めます。
分かりやすく『帝國』=『資本』とし、『マルチチュード』=『労働者』としての読み方もあるようですが、領土、中心、国境のないネットワーク化された様を「帝國」としていますので、オルタナティブを提示している可能性が高いと考えているところです。
第3部生産の移行384Pに「このようにインターネットは電話のネットワークの構造に似ており、」と書かれていたり、荒さが目立ちます。
「帝國」の続編として、「マルチチュード」(A・ネグリ、 M・ハート共著 NHKブックス)が出版され、同書を「権力と同型の、ネットワーク状の形態で闘う多種多様な運動の先に、グローバル民主主義を推進する主体=マルチチュードの登場を予見する。」と紹介されていますが、未購入、未読です。
言葉で理解できても、自分の裡に溶かし込み、その上で見極めることができるか、試されている類の書籍と考えます。(知識と認識との混乱が満ち溢れているように。)
もしかすると、21世紀の「共産党宣言」なのかもしれませんが、見極めは何時のことやら ・ ・ ・
いくつかのシンポ(京大、東大、芸大)が予定されています。
昨年から、来春にA・ネグリが来日すると報道されており、すっかり忘れていました。
同記事の見出し「稀代の思想家か扇動者か」は、A・ネグリの毀誉褒貶を見事に表しています。
帝国(A・ネグリ、 M・ハート共著 以文社)に目を通した(精読していません)限りでは、オルタナティブを提示しているとも単なるアジビラ(氏の経歴ため?)とも読めます。
分かりやすく『帝國』=『資本』とし、『マルチチュード』=『労働者』としての読み方もあるようですが、領土、中心、国境のないネットワーク化された様を「帝國」としていますので、オルタナティブを提示している可能性が高いと考えているところです。
第3部生産の移行384Pに「このようにインターネットは電話のネットワークの構造に似ており、」と書かれていたり、荒さが目立ちます。
「帝國」の続編として、「マルチチュード」(A・ネグリ、 M・ハート共著 NHKブックス)が出版され、同書を「権力と同型の、ネットワーク状の形態で闘う多種多様な運動の先に、グローバル民主主義を推進する主体=マルチチュードの登場を予見する。」と紹介されていますが、未購入、未読です。
言葉で理解できても、自分の裡に溶かし込み、その上で見極めることができるか、試されている類の書籍と考えます。(知識と認識との混乱が満ち溢れているように。)
もしかすると、21世紀の「共産党宣言」なのかもしれませんが、見極めは何時のことやら ・ ・ ・
いくつかのシンポ(京大、東大、芸大)が予定されています。
洞爺湖サミットの本質を捉える場合、帝国主義の概念は有効だと思います。
妄念から妄想へ その1
晴走雨読さまが書かれている数行に、現代社会の多層的な課題が見え隠れしているため、コメントのお礼をどのように書いて良いのか途惑っています。
19世紀終盤にマルクスによって書かれた資本論第1巻が、20世紀初頭にレーニンによって書かれた帝国主義論の骨格をなしています。
僕は、資本論は途中で挫折しており、解説書でしか要領を得ていない為、帝国主義論の細部の是非となると如何ともし難いと思っています。
帝国主義論が提示した対立構造から、ネットワーク権力という新しい支配システムへの移行が始まっていると書かれていますが、帝国主義論からは有効な批判がなしえないと考えます。
また、資本(資本家)は、生産の領域を支配することから、情報の領域を支配する対象と移行しつつあり、情報を通して利潤を獲得し、資本の増大を図る構造となっていると書かれていますが、これも同様と考えます。
つづく
また、マル経の立場からの批判は要領を得ませんでしたが、もっと大きな世界を描いていると記されていたことが印象に残っています。
サミットは帝國主義の権威なのでしょうが、この擬制は終焉している(単なるセレモニー)と考えています。
サミットを批判する叛グローバリズムは、帝國主義を底に据えているので、1周遅れの先頭なのではと考えてしまいます。
僕自身にとっては、まだ妄念の対象ですが、妄想に化ける可能性があると考えています。
5年前に読んだため、機会があれば読み返そうと思います・・・
「マルチチュード」(A・ネグリ、 M・ハート共著 NHKブックス)は購入していないと書きましたが、未読のまま積読山脈に埋もれているはずです。
否、最新の研究者が現象面を流行のように追うがゆえに、何週遅れになろうとも変えたくないと思います。
私(達)が社会体制から規定されるなかで、私(達)の個別性と不変性への幻想、非所有、非権力、非主体を追い求めることを裏返さなければと考えています。
貧しき者(奪われた者)が豊かな者から取り戻す(奪い返す)ための社会変革の主体となることを、単なる「スローガン」とすべきではなく、私(達)の営為が社会体制を規定する視座を持つべきことは、当然のことと考えています。
ただ、この視座の時間軸を100年、500年、1000年と置くと、物象化論の限界と疎外論が内蔵する不具合が露呈しますが、疎外論に微かな期待が伺えます。