みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#40 基礎教理 Justification by Faith Alone with R.C. Sproul, NO.1 

2023年11月26日 | 基礎教理

 

基礎教理の中でも基本中の基本である「信仰義認」に関する師の見解を拝聴したい。

先に示したように、日本語訳字幕は信頼性に欠けます。内容が微妙な箇所は悉く誤訳している可能性があります。よって、メッセージに対する誤解釈を避けるために、今後は全文和訳することにします。

Justification by Faith Alone: Foundations - An Overview of Systematic Theology with R.C. Sproul

最初から15分37秒まで 。

◇◇

神の選びの教理を見ていた時、ルターはその教理を「教会の心」と呼んでいたことをお話ししました。

しかし、信仰義認の教理に関してはルターは良く知られていますが、神の選びについてはあまり知られてはいません。

なぜなら、キリスト教界史において、信仰義認は最も激しい議論を巻き起こした教理だからです。

その議論から、16世紀の宗教改革とそれに端を発するスローガンであるSola Fideが巻き起こりました。

すなわち、信仰のみによる義であります。

聖書教理を見ながら私が当初から言及していたように、歴史家も次のように回想しています。

宗教改革の公けの原因は、教会教理における最終的権威に関する疑問であったと彼らは考えており、また、宗教改革の資料上の原因、すなわち議論の焦点の中心にあった資料が義認の教理だったのです。

前に申し上げたように、ルターは、信仰義認の教理は教会が立つか朽ちるかの条項であるという考えを固持していました。

カルヴァンは義認の教理はすべてを開放する蝶つがいであると主張し、事態の切迫性に同意していました。

カルヴァンやルターが他の神学的問題を些細なことと考えていた理由は、この議論が福音そのものに負けず劣らずに重要だったからでした。

義認の教理は、ピロピの看守が「救われるためには何をすべきですか」と使徒パウロに尋ねた疑問に対する答えであるがゆえに重要なのです。

ここでの議論とは、洗礼のためには滴礼か浸礼かというような議論ではありません。

上位堕落論(supralapsarianism)や下位脱落論(infra-)などといった議論でもない。

ここで取り扱っているのは、救いそのものに関する疑問であって、クリスチャンにとって、これ以上に大きな、或いはこれ以上に重要なテーマはありません。

義認の教理は、堕落した人類の最も深刻な状況に対して疑問を投げ掛けます。

その教理が究極的に問うているのは、神の義とは何かという疑問であります。

要は単純です。

神は義なるお方だが、私たちはそうではないということ。

いにしえの時代に、ダビデは「主よ。あなたがもし不義に目を留められるなら、だれが御前に立ちえましょう(詩編130)」と疑問を投げ掛けました。

もちろん、それは修辞的な疑問であり、答えは、「神の吟味に耐えられる者はいない。」

神の義という巻き尺を伸ばし、その基準で私たちの人生を評価するなら、私たちはみな消え失せてしまうでしょう。

私たちは全く義なる存在ではありません。

この問題を解く方法として、単純にもっと激しく働き、善人となるために危機感をもって臨み、全力を尽くすことであると考える人が多いのではないかと思います。

そうすれば、神の裁きの御座の前で十分だと思うのではないでしょうか。

それは、これまで教会内に浸透してきた大衆文化の大きな空想話だったと私は思っています。

人々はいまだに、それが天国に入るための手順であり、あるいは神の満足を得るための手段であると思い込んでいます。

律法の行ないによって、肉は義とされない(ガラテア2:16)というみことばから明確な警告をうけているにもかかわらず、です。

ここで問題となるのは、神は義であり、私たちは義ではないということ。

私たちは負債を払うことのできない債務者であり、善い行ないによってこのジレンマを絶対に解決できないことを私たちは知っています。

律法の行ないによって誰も義とされず、神がご自身の義を譲渡するおつもりがないとすれば、直面するこのジレンマを解決する術はありません。

以上の理由から、福音が良き知らせと呼ばれ、また、ローマ書において、「福音は天から啓示されている(ローマ書1:17)」と語り、パウロは義認の教理を紹介しています。

「神の義は、信仰から信仰へと、天から啓示されている。というのは、義人は信仰によって生きるとあるからです。」

さて、次の疑問は「義とは何か」であります。

義に必要とされる構成要素とは何でしょうか。

最終的に、義認とは神の御声による法的な宣言です。

神が人々が義であると宣言する、法的な宣言であります。

すなわち、義である神ご自身が義の宣告人となって、ご自身の視点から義であると宣言することによって初めて義認が発生するのです。

もちろん、16世紀に、この事に関して過激な議論が巻き起こりました。

疑問とは、「人が義となるのを神は待っておられ、それから義であると宣言するのか。」

実質的に人が罪人であるにもかかわらず、ご自身の視点から神は義であると宣言するのだろうか。

16世紀からいまだに活用されているルターの有名なことばがあります。

それは、「義とされた人は、義人であると同時に罪人である」ということ。

つまり、私たち自身の聖化が完了していないにもかかわらず、完成されていないにもかかわらず、いまだに罪を犯し続けているのもかかわらず、私たちはキリストの御業ゆえに義なのです。

義に関するこのルターの教理について聞いた時、ローマカトリック教会は、これを「法的虚構」でなないかと問題視しました。

彼らは次のように声を荒げました。

実際上いまだに罪深い人々を神が義と宣言するだろうか。

断じて否!

これは作り話であり、神に対する侮辱であり、神を嘘つき呼ばわりしている。

ローマカトリック教会は法廷的義認と呼ばれる見解を持っています。

法廷的という意味は、神が義を宣言する時に義認が起きるという考え方です。

ローマカトリック教会は、人が実際上義となるまで、神はその人を義と宣言しないと考えています。

そこには作り話は存在しません。

しかし、もちろんプロテスタントはそれに反応して、神が義と宣言するのだから、そこには作り話は存在しないと反論します。

神の目から人が義であるという意味は、イエスキリストの御業ゆえに義とされるということであります。

それは作り話ではなく、意味のある何かであります。

さて、私たちの神学的ことばでいえば、それがどのように働くのか見ていきましょう。

信仰のみによる義と私たちは言います。

この「によるby」も、16世紀には議論の対象となりました。

かくかくしかじかによって何かが起きる時、「~によって」とは、その何かをもたらす方法(手法)について言っています。

文法家はこれを方法の与格と言います。

16世紀における議論のひとつは、義認が如何なる方法(助け)によって引き起こされるのかということでした。

それは日常用語ではありません。

器械的原因(instrumental causes)とは、その紀元を古代ギリシャにさかのぼり、哲学者アリストテレスが異なるタイプの原因の中で設けた区別のことを言います。

彼は、素材的原因、形式的原因、最終的原因、効率的原因、そして器械的原因を区別しました。

そして、例を挙げると、彫刻家による像の作成です。

彫刻家は出かけていき、まずは石の塊を作ります。

像の素材的原因とは、工芸品が製作されるための素材です。

つまり、素材的原因は石そのもの。

しかし、製作の過程で、なまの石から見事な像へと像を変容させるための手段や方法、すなわち器械的原因とはハンマーやのみです。

信仰によって、或いは、信仰を通してということばによって意味する何かを区別するために16世紀に出現したことばなのです。

この疑問に関するローマカトリック教会の回答は、義認の器械的原因とは洗礼という儀式であるというものでした。

カトリック教会によると、儀式によって義の恵みが洗礼を受ける人に与えられ、その恵みによってキリストの義がその人の心へと注がれるというのです。

この注ぎの過程を注ぎ込み(infusion)と呼びます。

注ぎ込み(infusion)と注入(transfusion)の違いは何でしょうか。

注ぎ込みとは、心の中へと恵みを注ぎ込むことです。

従って、ローマカトリック教会は、恵みなしでは義とされない、つまり、信仰がなくても(恵みがあれば)人は義とされると信じているのです。

義認は恵みの注ぎ込みに依存し、それによって人は義となることが可能であると考えています。

さて、人が義となるために、心へと注ぎ込まれるこの恵みを用いて、人は何かをする必要がありました。

ローマカトリック教会は、この何かを、「恵みとの共同作業」あるいは「恵みとの同意」と定義します。

私の心に注がれたキリストの義の助けを借りて、その恵みと共同作業をする、或いはその恵みに同意するなら、私は真に義となるというのです。

そして、致命的な罪を回避し続けるなら、私は義の恵みの中に留まることができるというのです。

従って、ローマカトリック教会によれば、人が義をされる手段、方法は洗礼となります。

そのような義認は消え失せる可能性があります。

つい先程、致命的罪を犯すことを話しました。

致命的な罪と許される罪との違いを聞いたことがあるでしょう。

とてつもない罪とそうでもない罪。

ローマカトリック教会によって致命的な罪と呼ばれる理由は、その罪が心の中に所持されている義の恵みを殺すに足るほど重大であるという意味です。

致命的な罪を犯した人は、義の恵みを失うが、すべてを失うわけではない。

懺悔の儀式によって、再び義の恵みの状態へと回復することができます。

ローマカトリック教会は、懺悔の儀式を「信仰の難破をした人々のための義の第2の綱領」と定義しています。

人々が告白する理由は、告白が懺悔の儀式の一部だからであります。

人はそこに行って、自身の罪を告白し、赦免を受け、そして皆済の行ないをしなければなりません。

皆済の行ない(works of satisfaction)というのは、適合功労(congruous merit)と呼ばれるものを獲得することを言います。

至当功労(condign merit)とは違います。

神が報奨する義務を負うほどに純粋かつ義である性質から来る功労ではありません。

それが適合功労(congruous merit)と呼ばれる理由は、懺悔の儀式に必要な皆済の行ないをすれば、恩恵の状態へと神が再起させることに適合するからであります。

以上から、ローマカトリック教会は、2つの義の器械的原因を有しています。

最初のひとつは洗礼、2番目は懺悔の儀式です。

宗教改革派は、義認の器械的原因は信仰であると疑問を投げ掛けました。

信仰によってキリストを捕えると、キリストの功労がキリストを信じる人に委譲される、見なされる、数えられるのです。

このことを最適化するもうひとつの違いを見てみましょう。

最初に、ローマカトリック教会による注ぎ込みという概念について話しました。

注ぎ込みとは別区別されることばが、負わせる(imputation)です。

義認に関する16世紀の激論全体を単純化するなら、すべてはこの二つのことば、注ぎかけ(infusion)と負託(imputation)に集約されます。

 

 

 

 

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