みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#41 基礎教理 Justification by Faith Alone with R.C. Sproul, NO.2 

2023年11月28日 | 基礎教理

 

Justification by Faith Alone: Foundations - An Overview of Systematic Theology with R.C. Sproul

 

15分37秒から最後まで 。

◇◇

宗教改革がなかったなら、私たちはいまだにローマカトリックの神学の中に閉じ込められていた可能性がある。

メッセージの後半部分をじっくりと味わいたいと思う。

◇◇

問題はこういうことです。

神ご自身の目から、人が義であると神が宣言する場合の根拠、理由は何か。

ローマカトリック教会の場合、すでに申しましたが、注ぎ込まれたキリストの義との共同作業によって人が義となる時に、神はその人が義であると宣言します。

プロテスタントの場合、義の根拠は、私たち自身の義にあるのではなく、キリストの義にあるのです。

キリストの義について話していますが、私たちの中にあるキリストの義について言っているのではありません。

私たちに代わるキリストの義について言っているのです。

全生涯において、神の法に完璧に従ったたキリストの義であります。

すなわち、神の祝福を勝ち取った義です。

キリストのためだけではなく、キリストを信じる人々全員のために、キリストが得た義を、全生涯においてキリストが成し遂げた義を、神は数え上げるのです。

さて、これは義認の根拠の一部です。

他の部分は、十字架による生贄の死という律法の執行、キリストによる完璧な賠償です。

何度も言っているように、私たちが救われたのは、イエスの死によってだけではなく、イエスの命のゆえにであります。

ここで起こっていることは、2重の転嫁です。

2重の負託です。

負託について言う場合には、それは法的転嫁です。

キリストは神の子羊です。

彼が十字架に付けられ、神の怒りに苦しむ時、神が罪を見出したがゆえにキリストを罰したのではない。

私たちの罪を自発的に背負ったために、キリストは罪の所有者となったのです。

神は、私たちの罪をイエスへと転嫁し、見做し、数え上げたのです。

これが負託(imputation)という意味です。

法的転嫁、つまり、キリストご自身が私たちの罪そのものとなられたのです。

神は私たちの有罪判決をイエスに転嫁しまし。

これがひとつめの転嫁。

もうひとつの転嫁とは、神がキリストの義を私たちに転嫁したこと。

信仰のみによる義とルターが言う場合、キリストのみによる義ということを神学的に簡略化して表現しているのです。

神の義の要求を完璧に完了したキリストの義であります。

つまり、負託とは他者の義を転嫁すること。

注ぎ込みは、共同作業して得なければならないな義の移植のこと。

ローマカトリック教会の場合、人は生得的に義となります。

何故なら、義は人の中に内在するからです。

さて、これまでの議論全体を要約しましょう。

黒板に表を書いてみます。

短かい時間で、たくさんのことを細かく調べていきます。

これに関する本を書くのにかなりの時間を費やしました。

さらに詳しく知りたい人は、この本を入手して下さい。

ここに、義に関するローマカトリック教会の見解を書き上げます。

こちら側には、義に関する宗教改革の見解を書きます。

いくつかの違いを見ることができます。

最初に、ローマカトリック教会によると、器械的原因は洗礼の儀式と懺悔の儀式です。

他方、宗教改革の見解では、器械的原因は信仰、信仰のみであります。

次に、ローマカトリック教会の義に関する見解は、注ぎ込みに基づきます。

宗教改革の見解は、注ぎ込みよりも負託に基づきます。

3番目、ローマカトリック教会の見解は解析的であり、宗教改革の見解は合成的です。

さて、技術的なことになりますが、言語について議論する時、合成(統合)的陳述と解析(分析)的陳述を区別します。

解析的陳述は、定義によって真実である陳述です。

例えば、「三角形には3つの辺がある」とか「未婚男性bachelorは結婚していない男性。」

「未婚男性は結婚していない男性」を例にとりましょう。

あの人はbachelorだと言う時、その人は結婚していない男性であるということを人々に伝えることになります。

述部の「結婚していない男性」は、すでに主語にその意味があるので新しい情報を加える必要はありません。

つまり、言っていることは正しい。

これを、定義によって真である、あるいは解析によって真であると言います。

さて、「その未婚男性は金持ちだ」と言う時、何かを断定したことになります。

何かを言った、つまりbachelorということばの中に見出されない何かを言いました。

すべての未婚男性が金持ちとは限りません。

これを合成的(統合的)陳述と言います。

これを義について当てはめてみます。

ローマカトリック教会によれば、分析(解析)の下で人が義であると分かるまで、神はその人を義と宣言しません。

一方、宗教改革神学によれば、私たちは合成的(統合的)に義であり、私たちは何かを加えられた、その何かとはイエスの義であります。

とどのつまり、ローマカトリック教会では、義は内在しており、宗教改革神学では、ルターが言っているように、義とされると言う時の義とは、未知なる義(alien righteousness)なのです。

そして、その義とは私たちの外にある義です。

より正確に言うと、その義は私たちの義ではありません。

信仰によってキリストを捕える時に、それによって私たちは義と数え上げられるのです。

これが福音の素晴らしさです。

難行苦行によって、永続的に続くあらゆる不純を洗い清められるまで待つ必要はないのです。

そして、イエスキリストを信じた瞬間に、イエスご自身というお方のすべてが、イエスが持っておられるすべてが、私たちのものとなるのです。

そして、直ちに、神との和解の交わりの中へと移されていきます。

 

 

 

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